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田舎で生きるということ

名取

 

 私は生粋のおばあちゃんっ子である。祖母は京都の山奥の生まれで二十歳頃に今の田舎に嫁いできたのだが、早くに祖父に先立たれてからは祖父が残した土地と家について並々ならぬ執着を見せている。祖母は近頃は足が悪くなり杖を振り回して歩いているのだが、良かれと思い家の中に手すりだのスロープだのを設置しようとした際には祖父の残した家に手を加えることを肯んぜず、その抵抗たるや誠に立派なものであった。我が一家が父の転勤のため故郷を離れざるを得なくなった際にも祖母はこの家に留まることを選択し、父の定年後に我が一家は再び祖母の守るこの家に収まることとなった。そんな祖母の姿を見て育ったせいか私も故郷に強い愛着を抱くようになり、今は就職のため残念ながら故郷を離れているのだが、祖母の愛する故郷をなるべくなら保守し続けたいと思う。私は故郷についての反動主義者である。

 私の故郷は田舎である。人口数万の地方都市の外れにあり、交通が不便であることは我が故郷をたまたま出張で訪れた東京の知人から「二度と行きたくない」と言わしめるほどで、私も会社の長期休暇などには故郷へ帰るのだがその道程を思うといつも億劫になっている。田舎の人間づきあいの面倒さについては太宰治の『親友交歓』に表された他人の家に上がり込み高級な酒を鯨飲するような人は聞かないけれど、自治会の役職の押し付け合いなどは酸鼻を極めており醜い罵り合いに発展することも少なくない。近くに商店はなく、いや昔はあったのだが、数年前に潰れてしまい、今ではちょっとした買い物でも車を走らせねばならなくなった。そんな私の故郷だが、道路も水道も電気も通っており郵便を送ることも受け取ることもできる。インフラを整えてもらえていることには感謝を示さずにはおれないし、できれば今後もこれを維持してもらいたいと切に願っている。

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 都会と田舎の格差は広がっている。物質面では言うに及ばず、なにやら精神面でも後ろめたさを感じようになった。それは日本経済全体の衰退をなんとかせねばならぬという国民の思いがあり、問題解決にあたりまず弱いところが叩かれるのが物事の必定だけれども、仮にそうであったとしても、「お前達たちが田舎に住んでいるせいで多額の税金が使われている」だとか「その税金の多くは都会の人が払ったものだろう」だとか「誰も通らない道路を維持しておく必要があるのか」だとか「大雪が降るような地帯にいつまで住むのか」だとか散々言われ続けると卑屈にもなろう。田舎で生まれ育ち、そして田舎に留まり続けることは罪であるか?

 もちろん田舎に留まり続けることがある種のロマン主義であることは分かる。学校の進路選択、職業選択、病院への通院などを考えると田舎に留まり続けるのは至難である。また、地域を支える上で家族から自治体にいたる大小様々の地域コミュニティの果たす役割は大きいが、田舎のコミュニティはおしなべて押し寄せる少子高齢化の波により絶命寸前にある。そんな中でも田舎の活力を取り戻すべく尽力する人々には頭が下がる思いだが、我が日本国の衰退に歯止めをかけぬ限り田舎の衰退は止まらず、我が故郷もやがては消えゆく運命にあるのだと思う。田舎の最期にはおそらくそこに住む人々のじり貧の我慢比べが待っており、そうであれば早めに見切りをつけて便利な都会に引っ越し偏差値の高い学校に入り良い職に就いた方が合理的ということになる。そう、合理的なのだ。

 コンパクトシティなど唾棄してやりたい施策だが、やむを得ぬから進めるというのであればそれで仕方ないと思う。しかし、進め方というものがあろう。例えば、同じ故郷で育った自治体職員が逡巡の末、青息吐息に「どうしてもこれでないといけないのだという」という説得を行えば、田舎者としても譲歩のきっかけが得られ「いえいえ、そこまで仰るなら私にも協力させてください」とのやりとりが生まれうる。しかし、「非効率で税金の無駄だから」などと言われてしまうと敵愾心に燃え最後の一匹になるまでの抵抗に行き着いてしまう。合理性は重要であるが、昨今の合意形成は金銭による合理性に重心が依りすぎているのではないか。そしてそれは日本国民が金銭による利益でしか動けぬ民族になり果てた証左でもあろう。合意形成に持ち出される合理性、すなわち金銭換算による比較衡量は、数学や経済学などの科学的方法による。西部邁の『知性の構造』に次のような一節がある、「科学的方法を人間・社会に最も大胆に持ち込んだのは経済学であるが、そこにおいては、「経済学者が少々真面目に考案した仮説ならば、殆どすべて検証されてしまう」という有様になっているのである。経済学に端的にみられるのと同じ事態が、科学的方法を人間・社会に応用するあらゆる分野に多かれ少なかれみられるといって過言ではない。」

 科学的方法による裏付けなどはその程度のもので、EBPMなどは本質的にあまり信頼できないものだと私は考える。結局、最後に頼れるのは人間だけである。しかし、ここにも大きな逆説を孕んでおり、人間とは厄介なものである。民主主義である以上、人口の多い都会の意向が強く反映され田舎は後回しにされる。それどころか田舎に住む多くの者たちも便利で豊かな生活に憧れ、あるいは子供の将来や親の今後を考え、田舎を出ることを夢見ており田舎を蔑ろにしているのではないだろうか。

 私は人間に賭けたい。しかし、田舎に見切りをつけることが多くの者にとって合理的となった今、人間に賭けたところで故郷は守れないであろう。

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 国の財政は危機に瀕しているらしい。国からの支援はアテにせず地方の強みを活かし自立せよとのことだ。識者は言う、「国に頼るな、努力が足りない」と。では尋ねよう、「強みのない田舎はどうすればよいのか」と。本当に努力の問題なのか。経済的にも政治的にも社会的にも文化的にも強みのない田舎のそれは何か強みになるものを磨いてこなかった田舎の自己責任なのか。追い詰められた就活生が苦し紛れにエントリーシートを飾り付けるように、無理矢理にでもその地域の伝統工芸やら食文化やらを見つけ出し、国内も勝ち抜いていないその一本の竹槍で、世界を股に掛けるグローバル企業と戦えと言うのか……先人達がそうしたように……

 私は日本を愛す。だが同様に田舎の故郷も愛す。しかし、急いで付け加えねばならないのは、私は故郷反動主義者であるが田舎至上主義者ではないということである。昔、私は仕事で縁もゆかりもないある田舎にしばらく放り込まれたが、そこでは砂を噛むような孤独に苛まれた。やはり自分の根を下ろした地域コミュニティがあってこそ田舎の彩りが映えてくるのであろう。また、私の故郷とて夏の夜には虫とカエルの鳴き声しか聞こえぬ闇夜が広がり寂寥の念に駆られたりもするのだが、一方で、今住む都会の人混みや高度化した街作りには不気味さを覚える。田舎と都会どちらが良いかは分からないが、故郷であるからには私はそこに帰りたいと思う。

 私は、故郷の冬の豪雪も、夏の灼熱も、川も、山も、田畑も愛す。交通の便が悪いところも、近くに商店が少ないところも、少子高齢化しているところも、世界と戦えるような伝統工芸や食文化がないところも、もちろん築百年を超える古びた実家もそこに住まう家族もすべてを愛す。私の原風景は、田植えの際に祖母に負ぶさりながらあぜ道で見上げた澄んだ青空と深緑の山々である。そして、田植えの後に家族で食べた母親の握ったアルミホイルで包まれた握り飯の味は忘れない。

 ブルーハーツの「世界のまん中」という歌に次の歌詞がある。

  「僕が生まれた所が 世界の片隅なのか

   誰の上にだって お日様は昇るんだ」

 田舎は日本の片隅ではない。