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【寄稿】ジョブ型雇用から考える日本人のレジスタンスの道

小林亮太(36歳・会社員・東京都)

 

●ジョブ型雇用という名の空虚なスローガン

ジョブ型雇用という言葉を聞くようになり久しい。端的に言えば、これまで日本の主流であった「従業員とその報酬は企業に所属し、その中で様々な業務(ジョブ)を担当する」という”belong to”の形態ではなく、「従業員とその報酬は業務(ジョブ)に紐付き、そのジョブの供給先として企業がある」という”for mission”的な考え方に基づいた人事形態である。もちろんアメリカ由来だ。日本でもグローバル化が進む中で人材の流動化が叫ばれ、終身雇用という”悪しき”日本型経営を打ち砕く装置としてジョブ型を採用する企業が増えた※1。スペシャリストとしてスキルを高め、企業に縛られない人材へ!という掛け声は、現代個人主義的価値観のパラダイムとも見事に呼応する。

さて、例に漏れず弊社(大手メーカー)でもジョブ型人事制度が採用される運びとなった。題して「○○(弊社名)版ジョブ型人事制度」。SDGsやらコンプライアンスのオンパレードに辟易としていた中、更なる空虚な概念輸入に冷めた気分で人事部門の説明を聞いた筆者だが、この内容には思わず笑ってしまった。全くジョブ型の本質が捨象されていたからだ。人事からは「メンバーシップ型雇用とジョブ型雇用のいいとこ取り」という説明がなされ、従業員に冷たい制度(外資系企業でイメージされるような人切り等)ではないということが強くアピールされる。そして聞けば聞くほど日本的な「曖昧さ」の上に成り立つ「棘のない」制度であることがわかる。ベテラン社員は胸をなで下ろし、若手社員は何にも変わらないじゃないかと不満を述べる。我が社のいつもの構図である。そしてこれが多くの日本企業の姿でもあるのだ。※2

●本質を捨象されたジョブ型雇用の実態

そう考えるポイントは2点ある。1点目は、そもそも人員配置の仕方に「伸びしろ」を見ている点である。そもそもジョブ型雇用というのは、「ジョブディスクリプションシート」が前提となっている。いわゆる職務記述書と呼ばれる”その仕事(ジョブ)の内容や必要なスキルなどを明確に記述したもの”で、その記述をベースに人があてがわれる。ここでは「既にそのジョブを実行する業務遂行能力を持つ人」が配置され、期待される成果にコミットし、成果が上げられなければ切られるわけだ。しかし弊社の人事制度では「その仕事に対して意欲がある人」が前提となっている。成果指標も評価基準も曖昧な日本的なグレー色を帯びた恣意性たっぷりの制度である。もちろん成果如何でクビを切られるわけでもない。

2つ目は、ゼネラリストの育成がベースとなっている点である。弊社の制度では、ジョブは業務というより役職の色が濃く、業務が限定されていない。そして社内副業が推奨され、むしろ様々な業務をこなすことが推奨される。要するに将来的にその企業に貢献するための「人材育成」の側面が強く、結局は”ジョブベースではなく人ベース”になっている。様々なジョブにチャレンジできるという意味では、これまで以上にゼネラリストを志向した制度であることが窺えるのである。

以上の2点から言えることは、全くもってジョブ型人事制度の本質が抜け落ちている-ちなみに筆者はこれでよいと思っており、現状制度にも問題はあるが、メンバーシップ型のまま改善を志向すべきであるという立場である-ということである。それを「人材の流動化」に伴い「スペシャリスト」を育て「グローバル基準」で人材を育む「ジョブ型人事制度」を採用したと、空虚な言葉を並べて社内外にアピールしているわけである。おままごととも呼べないごっこ遊びの言葉遊びである。

 

●海外への無条件の憧憬が導く「スローガンに群がる愚」

私はここに絶望と希望の双方をみる。まずは絶望を2つ。1つ目は、まさに「スローガンに群がる愚」である。大企業のIR情報※3を見ると目を覆いたくなるような横文字のダンスが繰り広げられている。「サステナビリティ」「コーポレートガバナンス」「ROE経営」など、外来の概念が胡坐をかいて自社戦略の中枢に居座っている。もちろんジョブ型雇用も日本企業のグローバル化と共に現れた雨後の筍のスローガンの一つだ。これらのスローガンは、ほぼ全ての大企業で呪文のように繰り返される。事業戦略すら大量生産、よく言ってマスカスタマイゼーションの時代となってしまったのである。

私はスローガン自体を否定したいわけではない。私の経験上、自ら(や仲間達)との対話により内側にある思いを言語化するという作業を通して生まれ出たスローガンには身体性が宿り、その言葉を聞いただけで元気が出るものである。卑近な例であるが大学時代の部活動で、何度も何度も話し合いを重ねて決めたスローガンにはその力があった。しかし何の創造も経ぬまま外から拝受したスローガンは決して私たちを元気にはしない。誰も満足に意味すら説明できない空虚なスローガンでは言語ゲーム(ヴィトゲンシュタイン)は成立しない。

2点目は、海外に対する無条件の憧憬である。これは1点目の原因でもある。ぎりぎり昭和生まれの筆者にはこの感覚はよくわかる。物心ついた時にはもう高度成長期の匂いすら残っていなかった。元気な日本の記憶はない。バブルとソ連が崩壊しグローバリズムが全面化した時代だ。左翼が勢いをなくし、少しずつ溶け始めた歴史の自虐史観の穴を補うように、ビジネスにおいて米国礼賛の自虐史観が旺盛を極めた。何故アメリカではイノベーションが起きるのか?そこには規制に縛られない自由競争がある。集団による馴れ合いではなく、個人の成果が正当に評価される平等がある。ステークホルダーの目があるから公正が保たれ、慣習に縛られず数字ベースの合理的思考ができる。それを全て裏返したのが日本企業である。だから日本は凋落した。おおまかにはこうだ。個人の自由と平等の両立は、もはや問いではなく前提となっている。米国の技術の根本に、軍需産業への圧倒的な政府投資があることや、株主資本主義の暴走、格差社会の闇は語られない。慣習や集団は、個人を縛り付ける”ニホンテキナルモノ”の主犯となり、慣習や集団から生まれたトヨタの「カイゼン」は忘れさられた。凝集性は問答無用に悪とされた。そしてMBAがエリートの登竜門となり、彼らのために会社経営そのものがジョブ化される帰結をみた。その就任先企業の文化伝統を知らない海外帰りのCEOに各社の個性は破壊され戦略は画一化された。まさに日本人の自作自演による黒船来航である。そして自信を失ったプロパーのボードメンバーと手を取り「スローガンに群がる愚」を生み出した。

●日本人的「換骨奪胎」のレジスタンス

それでも希望を語りたい。それが日本人の換骨奪胎力である。筆者の会社の例がそうだが、表面的にはジョブ型雇用導入と叫びながら、完全に骨抜きにしてから導入することでその悪影響を図らずも取り除いている。ここに日本人らしい「本音と建前」のプラグマティックな残り香を感じることができる。これは皮肉ではない。

ジョブ型という概念は明らかな設計主義である。各ジョブが機能すれば企業全体がうまく機能するというパレートの法則的機械論が前提にある。しかしそうだろか。時には”ジョブ”の範囲をはみ出してイレギュラに対応することが必要ではないか。そうしなければ企業は硬直化し変化に対応できない。この有機体的企業経営こそ日本の強みであり、その神経系が機能するには「帰属意識」や「貢献心」が欠かせない。しかし機械論的に道具(ジョブ)化された組織間では神経伝達が止まってしまう。まさに流動性が成長を止めるわけである。この事を知ってか知らずか、現場のプロパー社員達は上から押し付けられた概念を表面上は維持しつつ骨抜きにしてから制度化した。これは喝采を送りたくなる日本人的レジスタンスの賜物である。日本型経営の脱却を唱えながら完全にジャパナイズしているわけである。日本人お得意の「換骨奪胎」のレジスタンスといってもいい。※4

●「所属」をベースにした日本型個人主義へ

 しかし、このようなレジスタンスに時間とリソースを割いている場合ではない。空虚なスローガンに愚弄され、投資のための資金調達といって株主向けの中身なきマーケティング(=情報開示)に莫大な資金をかけ疲弊している。本業や従業員に対するコストを削減した分、内部留保と配当金ばかりを拡大している。成長のための投資には資金が回らない。

中身が空のバケツは、軽い足蹴一発でいとも簡単に飛ばされる。今日本企業は、バケツの中に水を注ぐことを忘れ、海外由来のデザインでバケツの外側を”映え”させることばかりに経営資源を傾けている。もはや元のバケツの色すら覆い隠され、質量のない百均のバケツになり下がろうとしている。

もちろん現在の力関係の中では、国際社会や株主の要請をある程度受け入れ妥協することは免れ得ない。しかし全てをグローバリズムや国際金融資本の責任に帰しているようでは日本人の弱さから抜け出すことはできない。これは日本人の問題である。本来日本人が力を発揮するのは、他者の存在がある時ではないだろうか。何かを与えたい他者がいて、同時に自らを支えてくれる他者がいる時、本当の意味での個人が発揮される。だから必要なのは固定されたジョブではなく居場所としての所属である。今こそアメリカ的個人主義を、”そこに他者のある”日本型個人主義へと換骨奪胎する時ではないだろうか。

 オルテガは『大衆の反逆』の中でこう語る。

 “間違いを認めるということは、それ自体1つの新しい真実であり、その認識の内部に燃え上がる光のようなものなのである”

我々日本人自身がこれまでの間違いを素直に認めることで、日本企業の歴史と伝統の中に燃え上がる内なる光を見つめ直すことが、唯一の再生の道ではないだろうか。”時すでに遅し”といわれてもそれしかないのである。そして筆者自身もその一役を担う所存である。

—-注釈—-

※1 2022年9月 株式会社クロス·マーケティング調査結果

※2 但し、このジョブ型制度の水面下の目的の1つに給与削減がある。例えば、能力評価(ステージ)としては管理職であるにも関わらず実際は管理職にはついていないメンバー(給与水準は管理職レベル)を、”管理職“という役職(ジョブ)を報酬の基準にすることで、給与テーブルを低位のものに書き換えるといったものである。筆者としては、上記制度変更の全てを否定する訳ではないが、日本のデフレや株主資本主義的といった別の問題として頭を抱えるべき事情が孕まれていると考えている。

※3 有価証券報告書等の対外的に開示される財務情報や戦略等をまとめた情報

※4 アメリカでもジョブ型雇用による問題の報国は多数指摘されており、万事がうまくいっているわけではないことは付け加えておきたい