『表現者criterion』メールマガジン

【川端祐一郎】我々はなぜ「思想」を語ろうとするのか

From 川端 祐一郎(京都大学大学院助教) 

はじめまして、京都大学の川端です。
これから本メルマガの木曜日の記事を担当いたします。よろしくお願い致します。
読者の皆さまからすると「お前は誰なんだ」という感じでしょうから、まず簡単に自己紹介をしておきたいと思います。

もともと私は『表現者criterion』の前身誌である『発言者』『表現者』の読者で、学生だった15年ほど前に西部邁先生の「発言者塾」に通っておりました。当時この塾に藤井聡先生も塾生として参加しておられて、西部先生の講義と懇親会(一次会)の後は、他の塾生数名とともに毎回朝の6時か7時まで、新宿の居酒屋で政治がどうした哲学がこうした、宗教はどうだ映画はこうかなどと、あらゆるテーマについて語り合っていました。
というか、西部先生がおられる一次会の段階ですでに終電がなくなるので朝まで語るしかなく、朝までいれば1つや2つの話題では持ちませんから、あらゆることを論じるしかなかったという次第です(笑)

その後、東京で民間企業に10年ほど勤めたのですが、色々縁があって昨年夏から京都大学大学院で教員をやることになり、併せて『表現者criterion』の編集委員にも誘われて、今このメルマガを書いています。ついこの間までは単なるサラリーマンでしたので、どちらかと言えば読者に近い立場でこの雑誌・メルマガに関わっていければと思っております。

さて、このメルマガでは政治・経済・文化・技術など様々な話題を取り上げていきたいと思っていますが、今週は他の執筆メンバーの皆さんが『表現者criterion』への意気込みを語るモードだったので、私も今回はこの雑誌の出版について思うところを述べようと思います。少しカタいというか仰々しい話になりますが、最初ということでご勘弁いただければと思います。

もともと自分が『発言者』の熱心な読者となったのは何故だったかなと振り返ってみると、恐らくこの雑誌が、新聞やテレビに表れるような世間一般の風潮・論調に対して遠慮なく異を唱えていたからです。
グローバリゼーションは平和をもたらすどころか世界を混乱に陥れるであろうと論じ、構造改革は経済も文化も疲弊させるであろうと予想し、IT革命なんかに踊らされるなと警告を発し、9.11テロを受けてはアメリカに同情するどころか、むしろアメリカニズムに象徴される近代主義の一つの帰結がこのテロであると指摘し、道義のないイラク戦争には絶対に加担するなと声を挙げていたのでした。
しかもこうしたオピニオンが、単なる反主流派気取りや冷笑主義としてではなく、「確かな前提と一貫した論理」に基づき、「庶民の常識」との繋がりを絶えず確認しながら、大胆であると同時に慎重な姿勢で表現されていたのです。

残念ながら世間の多数派がその主張に耳を傾けることはほとんどなかったように思いますが、先週末に東京で開催した創刊シンポジウムで柴山桂太さんが指摘されていた通り、国内においても国際社会においても、概ね『発言者』『表現者』の懸念が的中するかたちで情勢が推移し、さまざまな危機が押し寄せてきているのが今の状況でしょう。
何も前身誌を称賛したくて言っているのではなく、200号近くあるバックナンバーの何冊かを手にとって答え合わせをしてみれば、誰にでも分かることです。

『表現者criterion』は「思想誌」を謳っていますが、「思想」という言葉が並ぶ他の雑誌とは、かなり趣を異にするものになるだろうと思います。
「思想」というと一般には、ギリシア古典だのスコラ哲学だの、近代啓蒙思想だのフランス現代思想だのといった、小難しい観念の世界に深入りしていく営みがイメージされるのではないかと思います。また、他の思想誌がそうだと言いたいわけでは決してないのですが、「思想」には単なる読書好きが知識の量を競い合っているだけといったイメージすらあるかもしれません。

しかし我々は、観念の世界に立派な思想作品を構築したいわけではなく、ましてや趣味としての思想を語りたいのでもなく、現実の問題に立ち向かうのに思想が「必要」であると思うからこそ、この「思想誌」を出版するのです。
『発言者』や『表現者』を読み返していて改めて感じるのは、人間や社会というものがいかなる存在であるかについての原理的な理解や、道徳的・倫理的な価値判断の規準を、しっかりと意識にのぼらせた上で、政治や経済といったアクチュアルな問題を論ずることがいかに大事かということです。そして、それがまさに我々の(少なくとも私の)考える「思想」という営みです。
小難しい思想書に言及することもあるでしょうが、それは現実の問題を前にして頭を整理するために、どうしても「必要」だからです。

歌人の石川啄木が明治40年代に書いた評論に、『食(くら)うべき詩』というものがあります。
高尚な教養を身に着けた気になって、虚飾と虚栄にまみれた詩を生み出し続けているいわゆる「詩人」の連中から、本来の詩の営みを奪い返さねばならないのだ、と啄木は言います。

彼は、人間が生きていく上で欠くことができないと思われるような、生活必需品のようなものとしての「詩」を生み出すことこそが、詩人の役割だと考えていました。
「食うべき」というのは、日々の食事のようなという意味で、「珍味ないしは御馳走ではなく、我々の日常の食事の香の物の如く、然(しか)く我々に『必要』な詩」というものを書かねばならないのだと言っています。そして、これは教養主義者の目には、詩の地位を高みから低みへと引きずり下ろしたかのように見えるかもしれないが、生活にあってもなくても困らない知的遊戯としての詩を、「生活に必要な物」にまで引き上げるということなのだ、とも。

・・・ここまで書いてみて、やはり少し大げさに語り過ぎた気がします(笑)。私自身もまだまだ勉強の足りない身で、偉そうなことを書きましたが、そう簡単に必需品と言えるような水準の「食うべき思想」を語り得るとはもちろん思っていません。
しかし、刻々と変化する現実社会が待ってくれないのも事実で、未熟であろうが全力で語ってみるしかないだろうとも思います。

最後になりますが、思想誌の出版にあたっては、読者の皆さまの多大なお力添えが必要となります。『表現者criterion』の定期購読を通じた財政的ご支援が必要であるのももちろんですが(当誌はほんとうにおカネが足りません…)、シンポジウムの開催は関東以外の地域にも広げつつ今後も継続する予定ですし、読者投稿も受け付けています。
読者の皆さまからご意見を頂戴しながら、ともに考え、現代の危機に立ち向かっていかねばならないと思っています。

今後とも、『表現者criterion』のご支援を宜しくお願いいたします。

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