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【柴山桂太】オリンピックとナショナリズム

柴山桂太

柴山桂太 (京都大学大学院准教授)

平昌オリンピックが閉幕しました。日本勢が過去最高のメダル数を獲得するなど、期間中の報道はオリンピック一色でした。

とはいえ、この手の「メディア・イベント」は一瞬の興奮の後に、すぐに忘れられるのが世の習いです。あと一週間もすれば、誰もオリンピックの話題をしなくなるのでしょう。

オリンピックが始まると必ず、ナショナリズムと批判的に結びつけて語る議論が出てきます。今回も(これは川端祐一郎さんに聞いた話ですが)、「選手個人の活躍を褒めるべきで、日本人の手柄のように喜ぶべきではない」というジャーナリストの発言が、一部で話題になったそうです。

少し前には、サッカーのワールドカップで無邪気に日の丸を振る若者を「ぷちナショナリズム」と揶揄する議論が流行しました。強いニッポンに同化して優越感を感じる若者たちは、それによって日々の鬱憤を解消しているという議論だったと記憶しています。

私は、オリンピックやワールドカップのような「メディア・イベント」が作り出す一時的な興奮を、ナショナリズムとただちに同一視する議論には賛成しかねます。第一、この手のイベントで批判されるべきは、ナショナリズム以前にまずは商業主義であるべきでしょう。今回の平昌大会でも、放映権の関係でスキーやスケートの人気種目の競技時間が、欧米のプライムタイムに合うように調整されていた、と報じられています。
古代のオリンピックはゼウス神への奉献行事として始まったそうですが、現代のオリンピックはマモン神(金銭の象徴)に奉献でもしてるのか。オリンピックを論じるなら、まずはそこから始めるのが筋でしょう。

なぜ不透明な運営がなされるかと言えば、IOC(国際オリンピック連盟)に組織的な腐敗があるからだとも聞きます。これも重要な論点です。日本では(ナショナリズムを嫌うあまり)国際機関に過大な期待を抱く向きが少なくないのですが、国内機関と違い国際機関の場合には内外の厳しいチェックを受けにくいという構造的問題があるのは自明です。

国連であれIOCであれFIFA(国際サッカー連盟)であれ、そしておそらくはEUでさえも、超国家的機関は内部にさまざまな問題を抱えていると考えるのが自然です。オリンピックを話題にするのなら、人々の素朴な愛国心にいちいち目くじらを立てるより、超国家的機関をまともに機能させることの難しさを論じた方が、よほど生産的であるように思えます。

また、ナショナリズムというとすぐに若者が槍玉にあげられ、「若者の右傾化」などと言われることが多いのですが、この風潮もそろそろいい加減にしてもらいたいところです。

心理学の研究では、ナショナリズム(ここでは自らの帰属する国家への愛着や忠誠という意味で使っています)は若者より年長者の方が一般的に強く出る傾向にあることが分かっています。年長者の方が長く生きている分、その国に愛着を覚えやすいのは当たり前のことです。
身の回りを見ても、口ではナショナリズムを批判するが、体はどっぷり日本文化に漬かっている年長者が(特に知識人層で)少なくありません。むしろ、素直に心情を表明できない分、何かを「こじらせて」いるように見える。若者も、その層に「右傾化している」などとお説教されたくはないでしょう。

そもそもナショナリズムを、「強いニッポンと自己を同一視する現象」と理解してもよいものなのでしょうか。再びオリンピックを例にとると、たしかに視聴者の大多数は日本人選手が活躍するシーンを見たがっています。しかし、人々が期待しているのは、勝利という結果である以上に、戦いに挑もうとする代表選手の物語であるようにも思えます。

国家を背負う重圧やある種の苦しみを、テレビ画面に映される選手の表情や仕草を通じて、見ている側も追体験する。だからこそ視聴者は、勝利で喜びを爆発させる選手と一緒に歓喜したり、失敗を悔いて涙を流す選手に自分を重ねて落ち込んだりしているわけです。代表選手の喜びや痛みをわが事のように引き受ける「受苦」の体験(正確にはメディアを通じた疑似体験)をしているわけで、こちらの方が現代のナショナリズムを考える重要な論点になりうるのではないでしょうか。

…などなど、ナショナリズムの問題には複雑な論点がいくつも含まれています。『表現者criterion』でも、この問題を継続的に取り上げていけたらと考えています。

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