【川端祐一郎】「平成の改革」の政治的側面

川端 祐一郎

川端 祐一郎 (京都大学大学院准教授)

 平成に入ってから立て続けに行われてきた各種「改革」が、新自由主義的な性質のものであるという話はよく聞かれると思います。小さな政府の下で民間の自由競争を促すことによって経済は力強く成長するはずであるとか、民間企業においては株主の立場を重んじることで活動が健全なものになるとか、国境を低くしてグローバルな貿易を拡大することが世界全体を豊かにするとかいう信念に基づいて、経済システムの変革が試みられてきたわけですね。

 ところで最近、先週のメルマガでも森友学園問題に触れながら少し述べたように、政策を決定し実行する政治・行政機構の全体が何か地に足の着かないフワフワしたものになっているように感じられ、平成の改革の政治的側面、つまり選挙制度や行政機構の改革がもたらした弊害のようなものについてもよく考えなければならないのではないかという気がしてきます。

 森友学園のようなスキャンダルに限らず、最近で言えば「子育て支援」や「働き方改革」のような場当たり的な盛り上がりもそうですし、憲法や外交・安全保障をめぐる論議でもそうなのですが、どうも重みのある討議が着実に積み重ねられていくというよりも、思いつきに近い話がいつの間にか既定路線として方針化しているという印象があります。そんなのは昔からだとも言えますが、年々酷くなっているようにも思えます。

 本当に政治の質が昔に比べて下がっているのかとか、その原因としては何がどれぐらい寄与しているのかといった厳密な検証は、専門家が時間をかけて行うべきものと思いますが、私の大雑把なイメージを申し上げると、平成に入ってからの政治改革・行政改革の方向性が、日本人の組織運営スタイルに合っていない面がかなりあるのではないかという気がします。

 かつての日本では官僚の権限の幅がきわめて広く、しかも各省庁の個別の発言力が強かったために、政治家が全体を統制することが難しかったのだと言われます。また「政府・与党二元体制」とも言われるように、首相を中心とする内閣だけではなく、自民党の中でも綿密な政策審議を行う慣行が続いてきました。選挙では自民党の一党優位が長く続いたものの、その自民党内に派閥間の勢力争いがありましたし、官僚の力も強く、また社会党に対しても慎重な配慮が払われてきたので、独裁的というよりは調整型の政治が続けられてきました。

 こういう日本の古い政治のあり方は近年ずっと批判されてきました。どう批判されたのかというと、たとえば政治学者の飯尾潤氏が十年ほど前に出された『日本の統治構造』という本では、第一に「権力核」が不在なので責任の所在が明確でなく、第二に政権交代が起きていないので「民主的統制」が甘く、第三に各方面の利害を総合的に調整しているから政策に「首尾一貫性」が足りないのだとされます。

 それで実際に平成に入ってからの改革がどうだったかを振り返ると、明確な継続性があったのかという疑問もあるものの、たしかに上述のような問題意識が薄く広く共有された上で行われたものであったようには思います。

 たとえば小選挙区制の導入の議論は、直接的には、「政治とカネ」をめぐる腐敗の解消を謳うものでした(中選挙区制においては自民党候補同士が争うので、カネがかかる選挙となってしまう)。しかし一方で、小選挙区制によって二大政党制が実現し、「政権交代」も可能になるといったイメージも繰り返し語られました。また、小選挙区制では政治家個人よりも「党対党」の争いが際立つので、党首の求心力が増して「権力核」が明確化することになるとも言えます。

 なお、小選挙区制にすれば政党数が絞られていくというのは、デュヴェルジェという政治学者が唱えた説で、日本の場合でいえば「野党が統合されて二大政党制に近づく」というイメージだったのだと思います。が、この説には強力な反対論があって、サルトーリという政治学者は、「それは英米のように社会に根を張った政党が存在する場合に限られる話だ」と指摘しました。実際、日本で小選挙区制が何をもたらしたかといえば、たしかに政権交代は起きたものの二大政党制になったわけでもなく、単に自民党内において首相に力が集中し、党内の多様性が失われただけのように思えます。

 十数年前に省庁再編がありましたが、あの頃に行われた改革も、省庁の数を減らすとともに首相の地位や内閣機能を強化する(内閣府の創設や内閣官房の強化等)という側面がありました。そして小泉政権では自民党内の慣行も次々に打ち破られ、「官邸主導」の政治スタイルが定着していきました。また、この間行われた規制緩和や、郵政民営化や特殊法人改革も、要するに官僚が持っている仕事を削減するわけですから、相対的に内閣の力が増すことを意味するともいえますね。

 しかしこうした改革が行われた結果、過去30年間で日本の政治・行政の質が向上したのかというと、そう感じている人はあまりいないでしょう。むしろ、学芸会やままごとのような政治が続いている、という批判の声がよく聞かれます。で、恐らく多くの人が、「だからもっと改革を進めなければ!」と考えるのでしょうが、上記のような改革の方向性が、日本人の肌に合っていないせいでチグハグになっている、という可能性も考えておいたほうがいいのではないでしょうか。

 「権力と責任を首相周辺に集中させて、それを民主的にチェックすればよい」というイメージは、確かに一つの理想モデルとして理解はできるのですが、机上論として美しいというレベルに留まるような気がしてしまいます。政治家における権力の振るい方と責任のとり方、そして市民やメディアにおける権力監視の仕方が、成熟して板についたものになっていれば良いのかもしれませんが、明確な「権力核」を持たずに様々な調整を積み重ねていく組織運営が日本式なのだとすれば、その枠内での改善を考えるほうが賢明なのかもしれません。

 上述の飯尾氏の研究でも、権力分散型で積み上げ式の日本的な意思決定方式が、歴史的には上手く機能してきた面もあるとされています。官僚が幅広い仕事を持っている(言い換えれば実社会と多くの接点を持っている)のも、自民党内で派閥ごとに異なる見解を時間をかけて調整するのも、それはそれで民主主義の日本的なあり方として重要な役割を果たしてきたのだというわけです。飯尾氏は、かつての官僚が、幅広い権限とあわせて「自分たちこそが民意の代弁者なのだ」という自負を持った「国士的官僚」であったことも、一定程度評価しています。

 で、それが90年代以降は通用しなくなったから改革が必要だと述べられるのですが、私にはどうもその反対の可能性を考えておいたほうが良いように思えてなりません。少なくとも、改革してみたは良いものの頭に身体がついていっていないのが現状で、だから権力の「変な振るい方」やメディアの「変な騒ぎ方」が目立つのであって、性急な改革がもたらす弊害の方のほうをもう少し気にしたほうがいいのではと思えます。

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