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【藤井聡】西部邁氏の自殺幇助者の逮捕に思う ~「言葉」からズレた「振る舞い」~

藤井 聡

藤井 聡 (表現者クライテリオン編集長・京都大学大学院教授)

コメント : 1件

こんにちは、表現者クライテリオンの編集長、京都大学の藤井聡です。

本年一月の西部邁氏の自殺にショックを受けた方も多かろうと思いますが、
この度、その自殺を手伝った男性が二名、逮捕されました。

この報道には、さらに大きな衝撃を受けた―――というか、
ただただ驚き、唖然としてしまった方も多いのではないかと思います。

もしその「容疑」が真実だとするなら、
これまで散々言ってきた事と、実際やってたことが全然違うじゃないか
ということになるからです。

そもそも西部先生は自殺する理由として、次のように公言しておられました。

「生の周囲への貢献がそれへの迷惑を下回ること確実となるなら、死すべき時期がやってきたということなのだ。」(「保守の神髄」より)

この言葉は、要するに、人に迷惑をかけたくない、
あるいは、かけるべきじゃない、という趣旨のものです。
同様の言葉に、次のようなものもあります。

(自殺するにしても)「社会にかける迷惑はできるだけ少なくせねばならぬ」(「保守の神髄」より)

誠に立派なお言葉です。

しかし実際は、自分のプライベートな自殺に、
わざわざ二人の一般男性を巻き込んだわけです。

しかもこの男性二人には、奥様もお子様もおられます。

つまり、このご家族にしてみれば、
西部先生のせいで旦那さんやお父さんが逮捕されてしまったわけですが、
それは、「迷惑」なぞという悠長な言葉では
表現し難いほどに巨大な「迷惑」だと言えるのではないでしょうか。

さらに言うと、同書には次のような言葉も遺されています。

「たとえば自分の娘に自分の死にゆく際の身体的な苦しみを、いわんや精神的な苦しみなどは、つまりすでにその顛末を母親において十分にみているのに、それに輪をかけてみせる、というようなことは、できるだけしたくない、そんなことをするのは羞恥心に悖る、と考える方向での生き方をする者がいて、術者はそうした種類の人間なのである。」

持って回った言い方ですが、
これは要するに、自分のお嬢様には、
父親が苦しんでいる姿を見せたくない、
そんな恥ずかしいことはしたくない、という趣旨です。

これもまた立派なお言葉ですが、
自身の父の(いわば、「我が儘」な)振るまいで、結果的に、
「二つの一般家庭の大黒柱を一挙に二人とも逮捕させてしまった」わけです。

それを知ってしまった時のお嬢様の「苦しみ」はいかばかりのものか―――
想像するに忍びないものがあります。
https://www.sankei.com/affairs/news/180406/afr1804060002-n1.html

しかも、西部先生は上記の言葉で「羞恥心に悖る」という言葉を使いながら、
恥を曝すべきではないという趣旨の美学を語っておいでですがーーー
実際は、「人様には迷惑をかけず自裁する」と公言し続けた挙げ句に、
周りに激しい迷惑をかけて自殺させてもらったということが
日本中に報道されているわけですから、
これほど「恥ずかしいこと」などない、とも言えます。

あるいは、西部先生が出演された最後のTV番組の最後に、
次のような一言を残しておられます。

「最後に一言ーーーーー人間は、一人で生まれて・・・一人で生きて・・・最後は一人で死んでいくのである」
https://www.youtube.com/watch?v=xILjS_eTDXs→現在、この動画は非公開です。

誠に立派なお言葉です。

無論、死んだのは西部先生お一人で、
幇助者二名は死んでいませんから
「一人で死んでいく」という言葉自身は間違ってはいません。

しかし、芝居がかった口調での「一人で死んでいく」というセリフと、
二人の男性に幇助させて自殺させてもらったという最期の振る舞いとの間には、
埋めがたい巨大な「ズレ」があると言わざるを得ません。

・・・・

この様に西部先生のお言葉を一つ一つ振り返ってみると、
最後の振る舞いと、それらお言葉の間には、
巨大な矛盾が横たわっており、
どうにもこうにもツジツマが合わなくなってしまっている様子が、
浮かび上がって参ります。

無論,自殺は、西部先生の長い長い波乱万丈の人生の最後の一幕に過ぎず、
その西部先生の偉大なる人生の評価を何ら変えるものではない、
という考え方はあり得ると思います。

しかし、そうした考え方を最も強く否定したのは、
誰あろう、西部邁、その人でした。

何と言っても西部先生は、遺稿「保守の神髄」の中で、
次のように断定しておいでだったのです。

「死に方は生き方の総仕上げだ」(『保守の真髄』261ページ)

・・・・ということは、西部邁の生き方は結局は、

「立派な事を言い続けてはいたが、
実際の生涯は、その言葉とはあまり関係のないものだった」

ということになってしまうのではないでしょうか。

いかがでしょうか、西部先生。

・・・・

とはいえ「偉大なる言葉」を残した人々は、
実は多くの場合、そういうものだったのかもしれません。

ルソーやウィトゲンシュタインは言うまでもなく、
ひょっとするとイエスキリストや孔子にしても、
実際には相当にメチャクチャな方々だったのかも―――しれないのですから。

・・・・

おそらくは西部邁の自殺、あるいは、その幇助については、
これからも様々な方々が、様々な言説を吐露されるものと思います。

しかし、ここで指摘した事実解釈は、
おそらくはほとんど誰も否定し得ない事実の提示とも言いうる
水準にあるものと思われます。

ついては本件を肯定的に語ろうと否定的に語ろうと、
感情的に語ろうと理論的に語ろうと、
ここで指摘した諸事実は是非、
前提的事実として受け止めて頂けると、
当方としては大変有り難く存じます。

いずれにせよ、本件がどういう顛末になろうとも、
そして西部邁氏が一体如何なる人物であろうとも、
「危機と対峙する保守思想誌」である『表現者criterion』は、
今、そこにある本物の危機を乗り越えるための「振る舞い」
考え続けるための「言葉」を紡ぎ続けて参ります。

https://the-criterion.jp/

 

是非とも、一人でも多くの方に、
本誌『表現者criterion』をご購読頂きたいと思います。

https://the-criterion.jp/category/backnumber/

今後とも、何卒、よろしく御願い申し上げます。

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コメント

  1. 五嶋節 より:

    藤井先生。初めまして、私は40年前に大阪から娘と渡米し、今では私の人生逃避先の大都会NYと、東京をベースに暮らしています。ふとしたことからユーチューブで「西辺進ゼミナール」を観てから、西部先生の番組が心の支えとなっていました。二人の子供たちがそれぞれが職業を持った今も、あちこちの国を回る仕事?に携わっているので、日本の立ち位置、大阪の現状に憂いていたからかも知れません。先生の没後、藤井先生が後継者になられたとのこと。)興味津々で藤井教授の話を聞いていましたら、”与那国島”に行ったと。で、先生の目的は全く知らずに、私は娘と石垣島で待ち合わせて行きました。”きっと何かある。”と思いまして、、。(のちに理由を知りました。)遅ればせながら、今度の藤井先生の記事を読み、父と鑑賞した”Angels with Dirty Faces”のendingを又思い出しました。これからも週刊クライテリオンを楽しみにしています。思いつくままに。五嶋節

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