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【川端祐一郎】「簡便死」の思想が持つ幅について

From 川端 祐一郎(京都大学大学院助教) 

報道によると、西部邁先生の自殺の手助けをめぐって2人の逮捕者が出たそうです。しかし私の場合、このできごと自体については論評する強い動機を持てないというのが正直なところで、関心をお持ちの方も多いと思うのですが、そこはお赦しを願いたいと思います。

それは第一に、逮捕だけでは法に触れる行為があったのかどうかもハッキリしないからであり、第二に、それがハッキリしたところで道徳的評価は当事者同士の間柄によるところも多く、第三者が論ずるには様々な仮定を置く必要があって面倒だからでもあり、第三に、私は西部先生の人物像よりも思想の論理のほうに関心があって、個人的事件は酒の肴程度に留めたいと思っているからです。付け加えるなら第四に、私の筆力では、人物論とワイドショー的覗き見を綺麗に区別できる自信がなく、余計なことまで書いてしまいそうだからでもあります。

人物と思想が無関係でないのはもちろんなのですが、一方で、他人に向けて語られる思想というものに個人的文脈を超えた一般性がないのであれば、それは読むに値しない代物ということになるはずです。私は西部先生の著作の一読者であり、「発言者塾」という私塾の一塾生であったという程度の個人的関係しかないものですから、どうしても西部先生が語った思想を一般論としてどう受け止めるかのほうに注意が向きがちです。そこで今日は、西部先生の「簡便死」の思想についてここ数ヵ月で考えたことを述べようと思います。

私を含めて多くの読者や関係者が、これまで西部先生から「自殺」の意向や計画について聞かされたり読まされたりしてきました。そのイメージが強いこともあって、西部先生の死生論(を含めた各種の論考)には、柴山桂太さんが言われるように「魅力ある危険思想」という趣がたしかに漂っています。しかし一方で、例えば西部先生が55歳の時(1994年)に書かれた『死生論』を改めて読み返してみると、案外穏当で「幅」を持った思想であるという印象も受けます。

『死生論』の中で西部先生は、自分はおそらく自殺を選ぶであろうと語っています。ただしこの著作の中心的テーマは、特定の具体的な「死に方」についての良し悪しを論ずることではありません。私の理解では『死生論』の主要な問題提起は2点あって、1つは、「延命それ自体のみを目的とするような生」を肯定はできないのだということ。もう1つは、自分の「死に方」について繰り返し想像し、そのイメージについて親しい者たちと語り合うことによって、死にまつわる恐怖や不快感を飼い慣らす努力をすべきである、ということです。

特に1点目が重要で、たとえば「意識」を失って回復の見込みもない中でただ延命のための延命を続けるというような事態を、精神的動物としての人間は積極的には選択できないだろう、というのが西部先生の主張です。これ自体は、世間離れした議論ではないでしょう。西部先生自身は積極的な形の「自殺」を選択するつもりだと書いているのですが、その西部先生も一般論としては、世間でいう「安楽死」や「尊厳死」、つまり回復の見込みを失った段階での医師の手による薬物投与や、延命措置の不実施によって迎える死を考慮に含めてもいます。

日本の法律では、安楽死や尊厳死は認められていません。しかし随分前からその法制化の必要性が主張されてもいるように、死期を早めることの主体的選択を是とする考え方自体は、特に矯激なものとは言えません。西部先生は、「医師の手で延命装置を外してもらう」という形で迎える死のことを「現代社会においてはベストの選択」であるとも言っています(現行法下では不可能ですが)。ただ環境やタイミングによって様々な制約を受けるだろうから、服毒や入水のようなものも含めて、人それぞれの方法を検討すればよいのだとも言っています。

死ぬことが「安楽」なわけはないし、死の間際における苦痛や屈辱を減じるという程度の決意を「尊厳」と呼ぶのも大げさだという理由で、西部先生は主体的に死期を早める選択を「簡便死」と呼びました。延命のための延命を良しとせず、そのような事態に陥る前にあっさり死を迎えようということです。そしてその簡便死の具体的なあり方については、人それぞれに時間をかけて現実的な方法を検討すべきであり、さらにそのイメージについて親しい者との間で継続的なコミュニケーションを持つべきだと言います。

注意が必要だと思うのは、西部先生自身が望んだ「死の形」、そして最終的に選択した「死の形」は、それ自体は多数ある可能性のうちの一つに過ぎないということです。西部先生は多くの場合、死生に関する一般論と自分自身の美学的こだわりのようなものを、同時に語ってきました。また私の印象では、晩年になるにつれて美学的側面のほうに言及することが増えていったようにも思います。そこには書き手としての必然性もあっただろうし、魅力の一つでもあるのですが、読者としてはそれらを区別して理解したほうが良いと思っています。

これは平凡で当たり前のことではありますが、西部先生の死から間もない今の時点では、頭の整理のために強調しておく意味がなくはないと私は思います。というのも、たとえば「西部先生の死生観を首肯すること」はすなわち「自分も自殺するつもりであること」を意味するのか、といった疑問も生じ得るからです。西部先生は自殺を理想視するような書き方もしているのですが、その死生論の核心はあくまで「ただ生きるだけの生は良しとしない」という価値観にあって、窮屈な「自殺推奨論」として受け取る必要はないと私は思います。

一種の曲解かも知れませんが、そう捉えてみると色々なことに気づきます。例えば「延命のための延命を良しとはしない」という西部流死生観の貫き方のうちに、西部先生が嫌った「病院死」だって含まれ得るのではないか。人は環境条件との間に葛藤を抱えて生きるのが普通であって、「延命のための延命」に対する強い嫌悪感を持ちながら、回復の見込みの薄い闘病状態を継続せざるを得ない状況はあり得るでしょう。また、自殺する度胸がないからと言って、それがすなわち「ただ生きるだけの生」を肯定していることになるわけでもありません。

「生きることそれ自体」を礼賛するヒューマニズムには背を向けるという価値観に、信念を持って反対する人もいるでしょう。しかし、安楽死・尊厳死が法的に許容されている国が現に存在し、我が国においてもその法制化を求める声が目立った形で存在することを考えれば、それなりに広い支持があることも確かであると思って良いのでしょう。その上で、具体的にどのように生き、そして死ぬかについては多様な選択肢があると考えるべきで、特定の具体的な「死の形」に強いこだわりを持たなくても良いのだと思います。

日本の場合、安楽死や尊厳死は法制化されていないし、一部の国のように自殺幇助の違法性を阻却するという判断が定着しているわけでもありません。つまり今の日本で、自らの意思で死期を早めるというのは簡単な選択ではなく、その方法や環境やタイミングは自ずと限られます。法整備を進めるべきだと私は思いますが、現状では制約が多い中で、「自死の奨め」を強く語ることは混乱につながるとも思っています。これは西部流死生論の核心と矛盾する話ではないと私は思いますが、一種の補足や拡張解釈ではあるかもしれません。

私自身は、両親はおろか祖父母もまだ健在であるという年齢ですので、率直に言って死のリアリティに対する想像力は希薄です。「死を語るのはお前にはまだ早い」と叱りたくなる方も多いでしょうし、私もそう思います。ただこのタイミングで、西部先生の死生論は幅をもって解釈したほうがよいと確認しておくことには、若年者にとっても多少の意味があると思いました。これが曲解だとすれば、私は西部先生の死生論を今のところ受け入れていないということにもなりますが、その可能性も含めて考察に値するテーマだと思っています。

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