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【浜崎洋介】「思想と実生活」の関係について―オカダタケシさんの質問を受けて

浜崎洋介

浜崎洋介 (文芸批評家)

 こんにちは、浜崎洋介です。
 「西部邁自殺幇助者の逮捕」に対する編集委員の態度に対しては、賛意や励ましの言葉から、厳しい批判の言葉まで実に様々な意見を頂きました。様々な反応があるだろうことについては、既に覚悟していたことなので、それ自体はいいのですが、そのなかにオカダタケシさん(50代、サラリーマン)という方から、私に対するこんな質問がありました。

 先週の私のメルマガのなかに、西部先生の一面を描写する言葉として「人を焼き尽くすようなその「力」」とか「あの強靭な精神力」とか「精神の振幅」とかいう言葉があったが、それが本当なのだとしたら、果たして西部邁の「保守思想」などというものは、現代の日本に本当に必要なものなのか、というものです(他にも質問は2つありましたが、最も重要なのは最初の質問だと思うので、それのみを最後に掲載しておきます)。

 実は、西部先生の「精神の振幅」と「保守思想」との関係については、『現者クライテリオン』5月号に発表した「『他者』への信仰―西部邁の〈コンヴァージョン=回心〉」のなかに書いていることなので、ここでその内容を繰り返そうとは思いません。が、オカダタケシさんの質問は、「思想と実生活」との関係を考えようとする際に、興味深い論点を用意することができるかもしれないと思い、少しだけ触れておきたいと考えました。

 というのも、この質問を読んだ時、私が思い出したのが、小林秀雄と正宗白鳥との間で取り交わされた、文字通りの「思想と実生活論争」(昭和十一年)だったからです。

 トルストイの晩年の日記が刊行されたのを機に勃発したこの論争は、まず正宗白鳥が、老妻のヒステリーに耐えられなくなって家出をし、最期は小さな駅舎の駅長室で死んでしまったトルストイの「実生活」に比して、彼の世界救済の「思想」などは何ほどのものでもなかったのではないかと言ったのに対して、小林秀雄は、逆に、老妻のヒステリーに悩まされながらも作品を書き続け、家出の後に横死までしてみせるには、トルストイの「思想」こそが絶対に必要だったのだと反論する、という構図を持っていました。

 つまり、正宗白鳥は「思想」を凌駕してしまう「実生活」の力を重視し、小林は「実生活」を否定し得る「思想」の力を重視しているとでも言えましょうか。

 ただし、この論争が面白いのは、最初対立していたかに見える二人が、論争が進めば進むほど、言っていることが重なっていく様に見えることです。
 どういうことか。
 つまり、二人は、元から「思想が大事なのか、実生活が大事なのか」といった二者択一の問いを提示してはいなかったということです。むしろ、二人が見つめていたのは、「思想はいかにして実生活と関係し得るのか」という、その「関係の仕方」だったのです。その限りで言えば」、二人は登山口(議論の切っ掛け)こそ違えても、その目指している頂上(問いたいこと)は同じだったと考えることもできるのかもしれません。

 たとえば、「思想」と「実生活」という言葉が分かり難いのなら、それを一度「理想」と「現実」と言い直してみてもいい。

 そのうえで、自分の「現実」を「理想」通りに生きている人などいるのだろうかと問い直してみてください。おそらく、そんな人は一人もいないはずです。いや、もしそんなことが可能なら、その人のなかで「理想」という言葉は意味を失なっています。なぜなら、自分が既に生きてしまっている「現実」そのものが「理想」なのですから――ちなみに言えば、この〈理想=現実〉を政治体制において強弁したのが全体主義です。

 しかし、まさしく私たちの「現実」はそうなっていない。だからこそ私たちは「理想」を必要とすることができるのです。そして、その「理想」という支点によって、私たちの「現実」を支え、「現実」を「現実」として見ているのだということです。

 それを踏まえて言えば、正宗白鳥と小林秀雄の論点の差は、白鳥が「理想」を必要としてしまう「現実」の方を強調していたのだとすれば、小林は「現実」に形を与えることのできる「理想」の方を強調していたのだということができるでしょう。が、いずれにしても、両者が共に見つめていたのは、トルストイの「理想」や「現実」そのものでもなく、その「理想」が、いかにして「現実」と関係していたのかという一点だったと言うことができます。

 さて、ここで最初の質問に戻れば、「西部邁」の「思想と実生活」においても同じことが言えるのではないでしょうか。つまり、「西部邁」のアンバランスな「現実」こそが自らの「理想」としての「保守思想」を呼び出していたのであり、逆に、その「保守思想」によってこそ、自らのアンバランスな「現実」を規矩していたのだと。そして、この逆説に満ちた綱渡りのなかに「精神の振幅」が孕まれざるを得なかったのだと。

 ここに「理想と現実」の複雑な循環性が立ち現れることになるのですが、おそらく、私たちが「思想」を生きるというのは、多かれ少なかれ、このような逆説的な二元性を前提にしているものと思われます。しかし、だからこそ、実現できない「理想」など捨ててしまえという話にはならないはずなのです。いや逆に、実現できないからこそ、その「理想」は、私たちが「現実」を見つめようとしたときにどうしても必要な支点となるのです。

 果たして、オカダタケシさんの質問に上手く答えられたかは分かりませんが、少なくとも、人間における「思想と実生活」の矛盾に満ちた関係についてはご理解いただければと思っています。
 「保守思想」の意味については、また機会を改めて書くこともあるかと思います。

50代のサラリーマン オカダタケシさんからの質問の一部

今日受け取ったメルマガに対して感想と質問(3つ)を送ります。
まず、人を焼き尽くすようなその「力」 とか、 あの強靭な精神力 とか、 精神の振幅 とか説明されていますが
西部氏が問うていた保守思想というものは今の日本に何か役に立っているのでしょうか?
専門的過ぎて人気がないとかではなく、本質的に日本に必要な考え方だったんでしょうか?
であれば簡単にご説明下さい。
私の感触だと、そのようなものが出来ないから精神の振幅をしていた、強靭な精神をもってしても成し遂げられないので、
人を焼き尽くすようなその「力」を見せつけることによって自分に酔っていたとでもいえるのではないでしょうか?

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