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【川端祐一郎】憲法とナショナル・アイデンティティ

川端 祐一郎

川端 祐一郎 (京都大学大学院准教授)

衆院憲法審査会の幹事懇談会が本日開催され、審査会に向けた準備が開始される予定だとの報道がありました。憲法改正に向けた議論や調整が具体的に進むのかどうか、実際のところは様々な政治的都合に左右されるでしょうからハッキリとは分かりませんが、本気で進めるのであれば何十年かに一度の大イベントとなります。

先日のメルマガでも紹介した『戦争、軍隊、この国の行方――9条問題の本質を論ずる』という本は、どちらかといえば護憲派に近い方(少なくとも戦後憲法の骨子について肯定的である方)が多く登壇したシンポジウムの模様を収めたものなのですが、なかなか興味深い内容でした。全員が「現状、自衛隊は違憲の存在である」との解釈を示し、その上で憲法9条をどのように変えるべきなのか(あるいは変えるべきではないのか)、自衛隊はどのような規範に服するべきなのか等について、幅のある議論が展開されています。

教条的な非武装主義をあくまで主張される方もおられましたが、それに対する厳しい批判も行われ、独自の改憲案を提示されている方もおられます。いわゆる「保守派」の改憲論の最先端が、仮に、安倍政権・自民党の示している「加憲」案(9条2項を残したまま自衛隊の存在を認める規定を加える案)なのだとしたら、リベラルの立場の方々の改憲論議の方がよほど先へ進んでいるのではないかとも思えました。(上述のシンポジウム登壇者の全てがリベラルを自認されてはいないと思いますが。)

ところで、その本の議論の後半で、「ガンジー主義」の話題が出ていました。原理主義的に9条護持を唱え、非暴力を貫くために日本が攻撃されたら「白旗を揚げる」のだとか、そもそも「日本が攻撃されることは想定していない」とか主張する論者に対し、ガンジー的な非暴力主義というのは生半可な覚悟で貫くことはできないものであって、それを国民全体に強いるのは現実的ではないという当然の反論が行われていたのですが、その文脈で『ハクソー・リッジ』という映画が紹介されていました。

昨年のアカデミー賞を複数部門で受賞しているのでご覧になった方も多いと思いますが、この映画は沖縄戦に参加したデズモンド・ドスというアメリカ兵の半生を描いた伝記(実話)です。彼は自ら入隊を志願しておきながら、信仰を理由に訓練においてさえ武器を持つことを拒否するという変わった人です。一時は除隊させられそうになるのですが、本人の希望通り衛生兵として最前線で(武器を持たずに)戦い、75名の兵士を救助した成果が讃えられて、良心的兵役拒否者として歴史上初めて名誉勲章を与えられたそうです。

彼は非暴力主義者なので戦争に前向きではありませんが、同胞が命賭けで戦っている時に銃後に留まることは自分の責任感から許すことができず、志願兵となりました。ところが訓練で銃を握ることを頑なに拒否するので、命令違反で軍法会議にかけられます。有罪の一歩手前まで行くのですが、元軍人である彼の父親が、現役将校に頼んで書いてもらった「軍法もまた憲法の制約下にある。良心的兵役拒否の権利は、いかなる時もこれの放棄を強いることができず、武器を持てとの命令に背くケースもそこに含まれるはずである」との手紙を届けます。

そのメッセージが受け入れられて、彼は一種の良心的兵役拒否者でありながら、晴れて衛生兵としての従軍が許可されます。この軍法会議のシーンが前半の見せ場になっていて、どこまで実話なのかは知りませんが、たしかに一つの美談として理解することはできます。ただ、私がこのシーンを観ていて強く感じたのは、アメリカ人と日本人の間にある大きな壁のようなものです。大雑把に言うと、彼らが戦争という命がけの行為をめぐる判断において、「キリスト教」と「憲法」という規範をこうまで重く見るのか、という印象を受けたのです。
(ドスが信仰していたのは、セブンスデイ・アドベンティスト教会という、新興宗教に近い宗派のようではありますが。)

憲法を遵守すること自体は法治国家だから当たり前ではあるのですが、それが感動を催す美談になり得るという感覚は、日本人の多くにはなかなか持てないものなのではないでしょうか。アメリカ人にとって合衆国憲法は「建国の理想」を明文化したものであって、ナショナル・アイデンティティの重要な礎の一つなのでしょう。しかし日本人において、人生の価値が大きく左右されるような重大な選択の局面で、「憲法」の掲げる理想が心の支えになるとはあまり思えません。

アメリカは独立「革命」によって誕生した一種の人工国家ですから、明文で書かれた理想主義と、国民の根本感情のようなもの間の距離が、比較的近いのでしょう(最近は国内のエスニシティが急速に多様化しているので、そう簡単ではないかも知れませんが)。それに対して日本の場合、根本感情に訴える規範というのは恐らくもっと曖昧な道徳ですから、憲法という明文の規定でそれを掬い取ることはなかなか難しいことだと思います。

本来憲法というものは、アメリカ人ぐらいのというのは言い過ぎであるとしても、ある程度の情熱を持って信奉できるものであったほうが良いのかも知れません。しかしそうだとすると、現行の日本国憲法はその前文からして、日本国民のナショナル・アイデンティティとはほとんど関係のない(天賦人権論をはじめとする)理想主義の文句が並べられたものですから、抜本的に書き換える必要があるということになるように思います。

私はそれが現実的だとは思わないのですが、日本国憲法というものが、日本国民の歴史的に共有してきた価値感覚とどの程度一致し、どの程度乖離しているのかを意識しておくこと自体は大事だと思います。そしてそういう観点で現行憲法の条文を眺めてみると、9条に(不整合を残しながら)多少の追記を行うという今の憲法改正論議そのものは、あまり重大な論点ではないような気すらしてきます。

憲法の専門家であれば、憲法というものは政府の行動を律するための抽象的な規範であって、国民の歴史・伝統・文化とは関係がないのだと言われるかも知れませんし、天賦人権論の立場からすればそんなものはむしろ有害であるという話になるのかも知れません。しかし果たして本当にそうなのかも含めて、長い時間をかけた議論が必要であると私は思います。

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