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【柴山桂太】「学政一致」と「実学」の理想

柴山桂太

柴山桂太 (京都大学大学院准教授)

小浜逸郎さんの『福澤諭吉 しなやかな日本精神』(PHP新書)を読みました。激情的な攘夷思想でも新しがり屋の西洋かぶれでもない。福澤諭吉の「きわめて柔軟な、それでいて頑固なほど芯の通った精神の構え」を現代に甦らせようとする本格評論です。

同時に、グローバリズムを無批判に受け入れて国家の独立自尊を忘れた、現代日本への警世の書でもあります。

福澤諭吉は、一九世紀グローバリズムの本質が、「蒸気電信」の絶えざる技術革新と、軍事力の優位を背景に進められる西欧諸国の世界支配にある点を知り抜いていました。一方で、技術革新がもたらす社会秩序の紊乱にも敏感で、人々の「狼狽」が、やがてこのグローバリズムを内側から食い破ることになる未来をも的確に見通していたようにも思えます。

現代にも似た、こうした時代にあって真の「文明」とは何かを考えようとしたところに、福澤諭吉の現代性があると言えるでしょう。福澤は、現行のグローバリズムが「文明」のあるべき姿などとは考えませんでした。一方で、より高次の「公」から見れば立国もまた「私」であるとして、単純な愛国主義を退けてもいます。

本書は前半と後半に分かれています。前半では、幕末の思想家・政治家(吉田松陰、横井小楠、勝海舟、西郷隆盛)と福澤が対比され、後半では福澤の中心思想が政治論、学問論、脱亜論、経済論の四つの側面から論評されています。

印象に残ったのは、横井小楠を、福澤諭吉の先行者として高く評価している点です。

例えば経済論。小楠は、紙幣発行による信用緩和と産業振興を説きましたが、これは福澤の通貨論を先取りするものでした。政治論でも、「万国を該談するの器量ありて始めて日本国を治べく、日本国と統摂する器量有りて始めて一国を治むべく、一国を管轄する器量ありて一職を治むべきは道理の当然なり」(「国是三論」)とする小楠の思想は、国際社会・国内社会を「公」と「私」の入れ子状の関係で説明しようとした福澤の思想と通底するものです。

小楠は、政治家が学問を軽視し、学者が具体的な政治経済の問題に関心を持たない「学政不一致」を嘆きました。これは「学問の要は活用に在るのみ」と喝破した福澤の「腐儒」批判を先取りするものです。小楠は「学政一致」を、福澤は「実学」を説きました。二人の間には世代の違いや洋行体験の違いがあるので、イメージする「学」の内容は違うところもありますが(福澤の方が洋学寄りです)、それでも、二人の理念は重なり合うと考えて良いでしょう。

とはいえ、「学政一致」も「実学」も、言葉の字面だけを捉えると危うい部分があります。政治に役立つ学問、目先の仕事に役立つ知識という具合に理解してしまうと、本質を取り逃がすことになるからです。

『学校問答書』の中で小楠は、「学政一致」がいかに難しい理想であるかを説いています。章句文字をもてはやす「俗儒」が無用であるのは云うまでもないが、かといって実社会に役立つことを教えよとなると、末梢的な技術知にばかり目を奪われて学問の本道が忘れられてしまう。小楠は、すぐに役立つものを教えようとするのは「人材の利政」であって、人材を育成するつもりがかえって人材を損なっているのだ、と批判しています。

福澤が「もっぱら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり」(『学問のすすめ』)と述べたのはよく知られていますが、これは、いわゆる算盤勘定を習えばいいという話ではありません。福澤が挙げている「実学」のリストには、地理学、究理学(物理学)、歴史学、経済学、修身学(倫理学)と、われわれが生きている世界を深く知るための学問すべてが入っています。

なぜ、「実学」を学ばなければならないのか。小浜さんはこれを次のように解釈しています。福澤は、世にはびこる「道徳主義」(むしろ「小道徳」主義と呼びたいところです)に辟易していたのだ、と。

私なりに言い直すと次のようになります。人間には誰しも素朴な道徳心が備わっている。古来宗教はそれを「貞実、潔白、謙遜、律儀」などの徳目として教えてきた。もちろん、徳目(福澤の言葉でいえば「私徳」)は大事である。しかし、複雑化していく文明社会にあって、徳目を守れということだけを教育の柱にできるだろうか。

社会が複雑化していくということは、他人との接触が増えるということである。他人と接触しながら生きるということは、少々の悪徳めいた振る舞いが社会の至るところに見られるということでもある。道学者はその悪徳を糾弾するが、世の中の悪人を少なくしようとか、全員が善人であるべきだなどというのは実に子供っぽい、狭量な考えである。

それよりも、少々の悪を含んだ社会の中で、それでも秩序を守るために必要な高次の徳を身につけるべきではないか。これが福澤の云う「公徳」(「廉恥、公平、正中、勇強」)で、これを身につけるには単なる自然な道徳感情にとどまるのではなく「智」の働きが、すなわち世の中を広く見渡すことのできる見識と、物事の是非を判断する知性が必要だ。そのために必要なものこそ学問であり、生きた学問としての「実学」である。

つまり「実学」は、ただ学問を生活感覚に基礎づけることを意味するのではなく、生活感覚が「私徳」に流れる危うさを自覚し、「公徳」に向けて自らをひらいていくために必要なのです。

福澤の考える文明社会とは、そのような意味での「公徳」(や「公智」)に満ちた社会でした。反対に、「私徳」だらけの社会、小道徳主義がはびこる社会は文明の名に値しないということです。福澤は、同時代の日本がその段階にとどまっていると考えていましたが、現代の日本はどこまでその状態を脱しているでしょう。

芸能人の不倫だの、アメフトの悪質タックルだの、大して面白くもない話題を一週間も二週間も取り上げて、「私徳」を振りかざして悦に入る。アメリカと北朝鮮、ロシアと中国を巻き込んだ複雑な東アジアの国際情勢を、トランプや金正恩、プーチンや習近平といった指導者の振る舞いに単純化し、「私徳」の範囲であれこれ断罪するだけ。

福澤が現代に甦って今の世論状況を眺めたら、大いに慨嘆することでしょう。そんな現状にウンザリしている向きは、『福澤諭吉 しなやかな日本精神』を手に取り、幕末明治の偉人たちの精神の高みに触れることをお勧めします。

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