【浜崎洋介】「言葉」の耐えられない軽さ――翼賛保守とナルシシズム

浜崎洋介

浜崎洋介 (文芸批評家)

 先週のメルマガでは、映画『ザ・スクエア―思いやりの聖域』をネタに、「リベラル空間」に囚われた文化エリートたちのナルシシズムについて論じておきました。が、それを言うのなら、やはり、「反サヨク」に囚われた「保守派」のナルシシズムについても触れないわけにはいきません。「保守派」の欺瞞に触れなければ、フェアでないというより以上に、おそらく、戦後日本における最大の堕落現象を見逃してしまうことになります。

 私自身は、ずいぶん前から安倍政権には愛想をつかしていますが(私が政権に対する部分的批判を公表し始めたのは2013年の末のことです)、しかし、全面的批判を公表し始めたのは、ようやく去年の『文藝春秋』誌上の座談会(9月号)や、『週刊ポスト』のインタヴュー記事(8月18日)などにおいてでした。その引き金は、もちろんモリ・カケ問題などではなく(ただ、それはそれでヒドイものですが…)、まさしく政権の「言っていることとやっていることのズレ」が私の許容量を超えたという点にあります。

 たとえば、第二次安倍政権が成立する際に増補・再刊された『新しい国へ』(文春新書、2013年)を繙いてみてください。そこで言われていることは――靖国問題にしろ、TPP問題にしろ、財政問題にしろ、対米関係にしろ、憲法問題にしろ――総じて、今の安倍政権がやっていることとは、ほとんど正反対の内容ばかりであることに気づくはずです。

 なるほど、政治が「理想」通りにいかないというのが「現実」なのだとしたら、すぐに「安倍政治を許さない」とやるのも幼稚な話であることに違いありません。特に、かつてほどに支持基盤(農村部)が堅固でもない現在、常に世論(メディアと支持率)を味方につけておく必要のある政権が、多くの「妥協」を強いられてしまうというのも分からぬ話ではない。

 が、「妥協」にも限界(譲れぬ一線)はあります。その「一線」を譲ってしまえば、もはや政治は、〈線を引く仕事=秩序形成の営み〉とは言い難い。それは、ただ単に「長いものに巻かれている」だけの奴隷的営みへと堕してしまいます。

 では、私は、どこに安倍政権の一線を見ていたのか。

 それは「憲法論」です。歴史認識問題での妥協も、慰安婦問題での妥協も、対米関係での妥協も、財政政策での(国民ではなく、財務省に対する)妥協も、それら全ての妥協は、「改憲」に向けて世論を味方につけておくために採った「戦略的妥協」、つまり、しぶしぶの譲歩なのかもしれないと考えていた私は(今から考えれば、相当に甘い見方でしたが)、居酒屋でならともかく、公の場での全面的政権批判は控えていたのです。

 しかし、安倍政権が「改憲論」ではなく、「加憲論」(自衛隊の憲法明記)を語り始めたのであれば話はちがいます。それを聞いた時は、さすがに耳を疑いましたが、それもそのはず、「九条二項の改憲」ならぬ「九条二項に対する加憲」というアイデアは、ほかならぬ安倍首相自身が批判し続けてきた「戦後レジーム」の完成をこそ意味しているからです。

 「憲法九条」それ自体が、言っていること(平和主義)と、やっていること(自衛隊)のズレ(欺瞞)の放置としてありますが、さらに九条が言う「交戦権の放棄」が、「日米安保」の枠組みを、「日米同盟」ではなく「対米従属」の形に歪ませているのだとすれば、それを変えないというのは、どんなに威勢のいいことを言ったところで――「自分の国は自分で守る」(『新しい国へ』)―――、実質的には「自立」の放棄をしか意味していません。

 しかし、だとすれば、「保守派」は、今こそ怒るべき時なのではないでしょうか。「何を寝ぼけたことを言っているのだ、安倍は!」と。にもかかわらず、この国の「保守派」は、自分の頭の中に描かれた〈救国の宰相=安倍〉の幻想を崩すまいとするあまり、その理念を裏切って存在する「現実」を認めることができません。あるいは、自分たちの「保守派」イメージを裏切って示される首相の振舞いを無意識のうちに抑圧してしまうのです。

 なるほど、「現実」が「理想」通りに行かないというのは分かります。が、直接の利害を超えて「筋」を通すべき言論までが政権に「忖度」しているのだとしたら、一体私たちは何を手掛かりに「政治」の可否を判断すればいいのでしょうか。いや、もうここまで来れば、そもそも日本の「保守論壇」などに「筋」を期待した私がバカだったと言うべきなのかもしれません。実際、私の感触で言えば、保守派の書き手の多くが恐れているのは、単に権力から遠ざかること、あるいは、業界から「干されてしまうこと」でしかありません。

 ここでも幅を利かせているのは、臆病と自意識(劣等感)だということになりますが、こうして「保守派」は、「リアリズム」を気取りながら、不都合な「現実」に対しては眼を塞ぐことを覚えました。言い換えれば、気に入らない「現実」の責任は、全て〈自分=安倍〉ではなく、「サヨク」の側にあるということになったのです(ちなみに、ある保守系雑誌で「安倍叩きならなんでもOK!―朝日新聞と言論犯罪」という題を眼にした瞬間、私の脳裏をよぎったのは「反朝日なら何でもOK!―翼賛保守と反左翼ルサンチマン」でした)。

 果たして、「保守派」が「保守の復活」、「安倍しかいない」、「他に誰がいる」と叫びながら、自らのナルシシズム(翼賛体制)に酔っている間に、あるいは、「敵は朝日とNHKにあり!」と言って幻の風車に突進している間に、この国は確実に滅びつつあります。

 ところで、早くも70年代の終り、この国の「保守派」に愛想をつかせはじめていた福田恆存は、自身最後の単行本の「あとがき」に、次のように書いていました。

「私は小利口な要領のいい人間は嫌ひである。私は何々派だの何々主義者だのであつたことは一度もない。私は何を書いても、ただ人間について、常識的に論じてゐるだけである。小説でも評論でも、人間が人間について人間らしく論じてゐるのでなければ、保守的現実主義者と革新的理想主義者の別は無い、私としてはそれを「斬ら」ざるを得なかつたまでのことである」(『問い質したき事ども』、1981年)と。

 今、どこを探しても見当たらないのが、「人間」の「常識」です。もはや問題は右でも左でもありません。ただ、この国に「常識」がなくなってしまったことが危機的なのです。

※たとえば「憲法論」については、今回『表現者クライテリオン』の第三号の特集座談会(施光恒氏&編集部)、及び拙論「失われた『ナショナリズム』を求めて」の中でも触れています。手に取っていただければ幸いです。よろしくお願いします!

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