先日、オウム真理教教祖・麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚を含めた、教団幹部7人の死刑が一斉に執行されました。死刑の一斉執行に関しては法務省の意図がどこにあったのかなど、様々に報道されていますが、私が気になるのはその点ではありません。この度のことで、改めて考えたいのは、90年代に起こった一連のオウム事件の戦後史的な意味です。
よく知られている議論ですが、社会学者の見田宗介は、戦後史に対して三つの時代区分を設けました。「平和と民主主義」という政治的「理想」が大手を振った敗戦から60年安保闘争までの「理想の時代」(1945~1960年)と、高度成長の実現によって次第に幸福な私生活の「夢」が全面化していった「夢の時代」(1961~1974年)、そして、高度成長の終りと共に、生活的リアリティが脱臭されて、社会そのものが「演技されている」という感覚に覆われはじめる「虚構の時代」(1975~1995年)という三つの時代区分です。
が、注意したいのは、この時代区分の前提にあるのが「敗戦」による日本人の茫然自失だという事実です。アメリカとの戦争に負けた日本人の前には、空っぽの「現実」が残されました。が、その「現実」に耐え得るほどの内在的価値規準を持っていなかった(あるいは文明開化以降の近代化でそれを失ってしまっていた)日本人は、眼の前の「現実」を否定することのできる理念を次第に探しはじめます。そして、それが「現実」に対する三つの対義語、つまり、「理想」と「夢」と「虚構」の三つの時代を呼び出していったというわけです。
そして、おそらく、この自分の外部に設えられた理念が呼び起こした最もグロテスクな事件、それが連合赤軍事件(なかでも、あさま山荘事件)と、オウム事件でした。
前者は、「夢の時代」の末期に起こっていますが、それは戦後直後の日本共産党を含む反米ナショナリズムの政治的「理想」が、私生活の「夢」(物質的豊かさ)によって食い破られて行ってしまうことに対する焦燥、その焦燥による「理想」の暴発といった性格を持っています。だから、彼らの語った〈革命=理想〉の言葉は観念的であるほかはなかったのであり、その観念性こそが、歯止めのない「総括」(リンチ)を加速していったのでした。
それに対して、後者のオウム事件は「虚構の時代」の末期に起こっています。それは言ってみれば、「夢の時代」(物質的豊かさ)からあぶれ出した「心の問題」の受け皿を、ある宗教的枠組みを「虚構」することで受け止めようとしながら、それが「虚構」であることに耐えきれなくなったとき、そこに溜め込まれてきたルサンチマンが「現実」の側へと溢れ出してしまった結果として起きた事件でした。その意味で、90年代のオウム事件とは、まさに「虚構」が、「虚構」それ自体の限界を露呈した事件だったと言えます。
が、それは何もオウム事件に限った話ではありません。
たとえば、もはやモダニズムの時代(物質的・社会的進歩の時代)は終わったのだと嘯きながら、これからはセンスやスタイルの時代(心の時代)なのだと喧伝していたポストもダニスト(浅田彰・中沢新一etc…)たちが、しかし、その後に自らの虚構性に耐えきれなくなるように急激な「左旋回」(あるいはモダニズム回帰)を遂げながら、今や、そのなかの一部が反原発デモに集う知識人集団と化していったこととも、それは軌を一にしています。
しかし、だからといって私は、自らの「虚構」に開き直るようにして、「終わりなき日常」の中で「まったり」と生きるべきだ(宮台真司)などと言うつもりも、もはや「大きな物語」(理想と夢)などは機能しないのだから、その日常の空白を、サブカルチャーのオタク的想像力で埋め合わせるしかないのだ(東浩紀)などと言うつもりも全くありません。
いや、「虚構」は、ついに自らの虚構性に耐えられないからこそ「現実」に溢れ出してしまうのだということこそが、オウム事件の教訓だったのではないでしょうか。とすれば問題は、政治的「理想」や社会的「夢」、あるいは個人的「虚構」にあるのではなく、そんな「理想」や「夢」や「虚構」によってしか自らを吊り支えることのできない戦後日本人の「ニヒリズム」、その内発性(生き甲斐)の欠如にこそあると言うべきではないでしょうか。
なるほど、最近では「ネット空間」という、新たな〈虚構=ルサンチマンの捌け口〉のお蔭で、オウムのような大規模な集団テロ事件は起こっていません。が、その反対に、個人的「虚構」を媒介にした事件、酒鬼薔薇聖斗による神戸連続児童殺傷事件(1997年)、光市母子殺害事件(1999年)、佐賀バスジャック事件(2000年)池田小事件(2001年)、秋葉原通り魔事件(2008年)、相模原障害者施設殺傷事件(2016年)、座間9遺体事件(2017年)などの若者による暴発的な事件はむしろ頻発しています。つまり、私たちの〈精神の空白=ニヒリズム〉の問題は、解決されるどころかますます深まっているのだということです。
そして、私が、この国が、その内部から崩壊しつつあるのではないかと考えているのも、まさに、この内発性を見失った「ニヒリズム」の昂進が、もはや止め処がないように見えるからにこそほかなりません(政治・経済領域での不如意も、その結果の一つです)。
とはいえ、誰も自らの内発性(生き甲斐)を一朝一夕に調達できないというのも事実なら、私たちにできることは限られています。少なくとも、自らの内発性を守り得るシェルター(家族、恋人、友人、自然との交わり)を是が非でも担保しておくこと。そして、時機を待って、このニヒリズムに撃って出ていくことです。もちろん、それが成功するかどうかは分かりません。が、倒れたとて、それが何でしょう。全てが廃墟に帰したとしても、人が人を信頼することができたという記憶、人が人を愛し得たという記憶だけは確実に残ります。その記憶さえあれば、「内発性」の芽は、また次のつぼみをつくりはじめることができるのです。
オウム真理教に向かった若者たちが持っておらず、それ故に、ほしくてほしくて仕方がなかったもの、にもかかわらず絶対に手に入らなかったもの、それこそは、この他者との繋がりだったのではないでしょうか。そして、その繋がりから齎される内発性の手触りだったのではないでしょうか。
おそらく、そこに、オウム事件が戦後日本の「悲劇」だということの真の意味があります。
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