【藤井聡】防災における「善意の押し売り」は「凶器」たり得る ~「軽重」を忘れた愚かしき日本~

藤井 聡

藤井 聡 (表現者クライテリオン編集長・京都大学大学院教授)

何の危機もない平穏平和では、
何をやっても深刻な事態にはならない。

だから、人々は好き勝手やればいい。
優先すべきことも、後回しにすべきことも何もない。

つまり、そこに「軽重」を考える必要は一切ない。

ところが、危機に直面した時、
好き勝手やっては、命を落とす。

成すべきことを成さねば、
その危機に瞬く間に飲み込まれる。

つまり、危機対応には「軽重」が必須なのであり、
その軽重判断を導く「規準=クライテリオン」こそが
求められる。

ところが―――我が国では驚くほどに、
防災において「軽重」の感覚が蔑ろにされている

この度の豪雨災害後、
いくつかのTV番組に登壇したのだが
それぞれの番組で、
「ものごとの軽重」が軽視されている様を見て愕然とした。

もちろん、「今」、何よりも「重」要なのは、
激しく困窮している被災者たちの救護、救援だ。

しかし、「これからの対策」に話題が及んだ時、
驚くほどに、「災害情報の伝達の不備」が議論される一方、
「堤防」や「ダム」などのインフラ対策について、
ほとんど話題が及ばないのである。

つまり、いわゆる「ソフト対策」が重視され、
「ハード対策」が軽視されているのである。

もちろん「ソフト対策」は極めて重要だ。

しかし、それはあくまでも「ハード対策」ができない場合の
「次善の策」として求められているのであって、
本来ならダムや堤防などの「ハード対策」こそが必要なのだ。

なぜなら、避難を促すソフト対策は、
「命」しか守れないし、
かつ、その「命」すら、完璧に守り切ることができない。

一方で、ハード対策は、
全ての人の「命」を完璧に守り切ることができるのみならず、
ソフト対策では絶対に守ることができない
工場や住宅、インフラなどの「資産」を完璧に守り得るからである。

例えば、今回決壊し、
50名規模の犠牲者が出た小田川の氾濫は、
「高齢者の避難の在り方」が議論されているが、
今秋着工予定だった治水工事が終わっていれば、
誰一人死なずに済んだに違いないのだ。

さらに言うなら、
小田川氾濫で逃げ遅れ命を失った人々のみならず、
家族を失った人々も、
家や職場を失った人々も、
予定されていた「ハード対策」さえ終わっていれば、
何一つ失わずに済んだに違いないのである。

だから我々は、今回の悲劇を踏まえ、
ハード対策を完了できなかった「自らの不甲斐なさ」を「猛省」し、
迅速にハード対策を完了させるために何を成すべきなのかを考え、
それを実現させんと「決意」せねばならないはずなのだ。

そして、その猛省と決意の上にはじめて、
「次善の策」として、
災害情報の適切な伝達を成すというソフト対策も、
全力で改善せねばならぬとの認識が成立し得るなのだ。

―――にも拘わらず、ソフト対策の議論ばかりに汲々としていては、
「小田川の悲劇」が、これから何度も繰り返されることは必至だ。

もちろん、ソフト対策の議論に汲々とする論者の多くは
「純粋な善意」に基づいているのであろうとは思う。

しかし、危機管理において必要なのは
「善意の純粋」さなのではなく、
「軽重」判断の適正さなのだ。

善意について必要なのは、
人として最低限求められる水準で十分だ。

いわば防災、あるいは広く危機管理においては、
(例えば福沢諭吉が主張したように)
「徳」よりもむしろ「知」、さらに言うなら、
公的問題の構図を大局観を持って見て取る「公知」こそが
求められるのである。

「公知」無き、「善意の押し売り」は、
危機に際してはいたずらに被害を拡大させ、
人を殺める凶器そのものと化す。

クライテリオン=規準を語ることを放棄した現代の日本人は、
あらゆる「良きこと」を軽重無く並べ立て、
「これも大切だしこれも大切だよね」と嘯き続け、
災害による犠牲者数と経済被害を
天文学的な水準にまで拡大させようとしているのである。

その心情は、
「価値観の多様化を全肯定する現代日本の論調」
に通底すると共に、その振る舞いは、
「事なかれ主義」のなれの果てに他ならない。

そしてもちろん、こうした軽重無き議論は、
筆者が日々従事している
「国土強靱化」や「防災行政」の現場でも、
繰り返されていることは、
ここに正直に吐露せねばなるまい。

このままの論調が続けば、
首都直下地震や南海トラフ地震のみならず、
大都市圏での集中豪雨や巨大台風による高潮や大洪水によって、
我が国は「致命傷」を負い、
アジアの最貧国の一つへと凋落しかねぬであろう。

この度の災害で多くの方々が犠牲になったという現実を
しっかりと受け止めるためにも、
「善意の押し売り」に対して、
臆せずに否と唱える勇気を持たねばならない。

そして、ものごとの「軽重」の感覚を、
そしてそのためのクライテリオンを、
取り戻さねばならないのである。

PS1:「防災における軽重」の規準=クライテリオンが不在となれば、このような「政治犯罪」すら犯されることになります。下記ラジオ番組『「人の命」より「財政規律」を守るという政治犯罪』、是非、お聴き下さい。
https://the-criterion.jp/radio/20180716-2/

PS2:軽重無き政治家は「馬鹿」と言わざるを得ません。『防災に「国債」を発行しない政治家は、馬鹿の誹りを免れ得ない。』も是非、ご一読ください。
https://38news.jp/economy/12188

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