今回は、『表現者クライテリオン』のバックナンバーをを特別に公開いたします。
公開するのは、仁平千香子先生の新連載「移動の文学」です。
第三回目の連載タイトルは「帰らなかった日本人妻たち」。その第二編をお届けします。
〇第一編
『表現者クライテリオン』では、毎号、様々な連載を掲載しています。
ご興味ありましたら、ぜひ最新号とあわせて、本誌を手に取ってみてください。
以下内容です。
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社会システムからあぶれた彼女たちを支えてきたのは共同体の力だった。
彼女たちは反日思想に苦しんだが、同時に助けを差し伸べてくれたのは自分たちと同じように、その日暮らしをする朝鮮の人々だった。
女性たちは言う。
「私たち母子が今日まで生きてこれたのは、こうして国籍に関係なく情けをかけてくれた人々のお陰だとつくづく思いますよ」
「日本を懐かしく思い出すことは一度もありません。血のつながりより苦労のつながりの方が私には大切です。
私にとっては、こちらへきて助け合った人たちが肉親ですよ。」
彼女たちにとっての「ナザレ」(偉大なる故郷)は、同じ境遇で苦労を共にした共同体によって与えられたと言えるだろう。それは危機を共有した共同体である。
どれほど悲惨な状況下でも人々は隣人とつながることを諦めない。そしてそれこそが社会が個人を救えなくなったときの唯一の救済である。
敗戦は日本人妻たちを朝鮮社会から分断したが、同じ苦労を共有する朝鮮の人々はつながりを許した。政治も国籍も言語も超えたつながりが社会の底辺を彷徨う人々を救った。
人間の生きる力を支えるのは危機であるとも言える。
ナザレ園に辿り着いた人々は生きることを諦めなかった。自ら行動することを諦めなかった。彼女たちは言う、
「どん底に落ちた以上、這い上がるしかなかった」、
「人間はぼんやりしてたら阿呆になる。いつでも何かに向かって努力せにゃいかん」。
人生の長い時間を生き延びることに費やしてきた彼女たちにとって、ぼんやりすることとは死を意味することだったのだろう。
「いつでも何かに向かって努力」してきたからこそ、彼女たちは危機を生き抜き、そしてナザレ園に辿り着けたのだ。
だからといって昨今の政治の「自助」任せを肯定するつもりはない。
しかし、どれほど政治や社会システムから支援があったとしても、生きる意欲に欠け、向上心を持たず、「息をしているだけ」の人間は救いきれない。
大学院を卒業し、現職に就いて間もないころ、筆者はナザレ園を訪れた。上坂氏の著書に感銘を受けたことが大きいが、ひと月前に祖母がなくなったことも関係していた。
共働きの両親に代わって私たち兄弟の面倒を長い間見てくれた祖母に対し、何一つ孝行をしてこなかった孫の愚かさに後悔したのは、死の知らせを聞いてからだった。
祖母は身寄りがなく幼少期より東北を転々とし、東京空襲を経験し、戦後は極貧の中、母を含めた四人の子供を育て上げたが、未熟な私は祖母の歴史に関心を持つこともなく、暫くぶりに帰省して祖母に会った時には、寝たきりで話ができなくなっていた。
祖母の昔話を聞いておかなかったことの後悔は筆者をナザレ園に向かわせた。おばあちゃんたちと話がしたかった。
突然の訪問にも現在の園長である宗美虎(ソン・ミホ)氏は暖かく迎え入れてくれ、おばあちゃんたちと話をさせてくれた。
しかしおばあちゃんたちの姿を見た瞬間、過去の戦争話を聞く意欲は薄れた。
これまで多くの訪問者を受け入れてきたおばあちゃんたちがそう何度も苦労話をしたいはずはなく、こちらも彼女たちの傷を抉りたいわけでもなかった。ただその姿を目にできたことが嬉しかった。
戦争と戦後の荒波を生き抜いてくれた日本人女性たちを見て、背負ってきてくれた歴史の重さを感じ、感謝が込み上げてきた。
私たちのために生きてきてくれてありがとう、そう言いたくてたまらなかったが、その意図がうまく伝えられるかわからず言えずじまいだった。
おばあちゃんたちが毎日歌うという歌を聞かせてくれた。「ふるさと」だった。
一番、二番、三番と歌は進み、私も朧げながら一緒に歌っていたが、
「こころざしをはたして いつの日にか帰らん」
の部分に差し掛かったとき、おばあちゃんたちの声にかすれが混じり、自分には一緒に歌う資格のないことを悟った。
私にはどれほどの資料を漁っても、おばあちゃんたちの「ふるさと」を歌う痛みを共有することはできないのだと教えられた。
ナザレ園には他にも韓国人用の福祉施設が併設されており、園長の宗氏は毎朝の朝礼を仕切る。スタッフ全員で朝の簡単な運動を済ませ、連絡事項を伝えると、「今日も感謝しましょう」と日本語で声掛けをする。
不思議な思いだった。感謝されるべきは、二十代よりナザレ園のために尽力してきた宗氏の方ではないのか。その宗氏は誰に感謝しようと心がけているのか。
敬虔なキリスト教信者として、食事前に十分な時間をかけて祈る宗氏を見て、この人は今叶えられた平和を神のおかげと感謝しているのだと感じた。
自助ではなく他力に感謝しているのだ。その謙虛さと聡明さに頭が下がった。
ナザレ園を後にした筆者は近くの広大な仏国寺を訪れた。遠くまで響き渡る僧侶たちの低い経に聞き入っていると、涙が溢れてきた。彼らは祈り続けていた。誰かのために祈り続けていた。
誰かが自分たちのために祈りを捧げてくれている。気づかないところで誰かが自分のために力を貸してくれている。それに気づこうともしてこなかった自分の無知さにまた情けなさを感じた。
そしてただ彼らの祈りに感謝した。ナザレ園に来ることができたことに感謝した。ここに向かわせてくれた祖母に感謝した。そして今できる恩返しは感謝なのだと教えられた。
生まれたときにはすでに用意されていた日本の豊かさと平和に、そしてそれを実現してくれた先人たちに、我々戦後世代はどれほど感謝してきたのだろうか。
それが自然発生的に生じたものではなく、誰かの命をかけた行動と労働によるものであったことをどれほど理解できているのだろうか。
そして先人たちが残してくれた遺産をどれほど未来のために受け継ぎ、発展させられているだろうか。
旧を知る、それは感謝を知ることを意味する。感謝の矛先を正しく見定めることを意味する。
我々は恋ふべきの旧を知らない、そして知ろうとしないつまらない者に成り下がってはいないだろうか。
日本に帰らなかった日本人女性たちにとっての「ふるさと」とは日本と韓国のどちらなのか。
上坂氏の質問に、ある女性は「どっちでもいいや」と答えた。
故郷からの絶対的な距離に絶望を感じたり翻弄されたりするような次元は既に通り過ぎたとでも言っているようだ。彼女たちに生を与え続けた忍耐力は、それくらいの問題を問題としないのだろう。
過去と比べれば格段と平和な時代に生まれた私たちには、それほど過酷な経験を容易に想像することは難しく、また先人たちほど危機感を持てと言うのも現実的ではない。
しかし、同じくらい深刻な危機が目の前に展開した際に、現代の私たちは先人たちと同じくらいの底力を発揮できるのだろうか。
危機を目の当たりにしながらも、微笑を持って成り行きを眺めるだけ、という恐ろしいことになりはしないであろうか(実際、筆者が大学の授業で問いかけをするとき、この通りに答える学生は珍しくない)。
政治家すら自国の領土が他国のものだと主張されて微笑で返す国で、一般国民にそれ以上の底力(レジリエンス)があると信じるものがどれほどいるのだろうか。
小林秀雄は言う、「何に還れ、彼に還れといわれてみたところで、僕等の還るところは現在しかない」。
現在を生きるしかないのだから、現在の危機を正確に理解する必要があるが、これほどの情報社会においてもそれは十分に行われていない。
目の前に実際に混乱が繰り広げられて手遅れになる前に、過去から少しでも多くを学び、自らの無知を改め、危機に備えるべきであろう。
(『表現者クライテリオン』2021年5月号より)
他の連載は『表現者クライテリオン』2021年5月号にて。
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