今回は、『表現者クライテリオン』のバックナンバーを三編に分けて公開いたします。
公開するのは、仁平千香子先生の連載「移動の文学」、
第四回目の連載タイトル:「伝統の価値」です。
『表現者クライテリオン』では、毎号、様々な連載を掲載しています。
ご興味ありましたら、ぜひ最新号の2021年11月号とあわせて、本誌を手に取ってみてください。
以下内容です。
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かつて「サンボの神様」と呼ばれた日本人がいた。
ロシアの国技であるサンボの世界大会で三回優勝し、四十一連勝無敗という世界記録を打ち立てたビクトル古賀(古賀正一)である。遠征先のソ連邦で数々の賞を受賞し、柔道の五輪選手の指導もこなした。
その「サンボの神様」が人生で一番輝いていたと語るのが、満州から引揚げを体験した少年時代である。
十一歳の古賀はたった独りで千キロを超える道のりを歩き、日本に辿り着くのであるが、その孤立無援の少年を支え、生きる力を与え続けたものは彼が身につけていた伝統であった。
十一歳少年の勇敢な記録は、伝統の価値とは何かを考えるにわかりやすい具体例を示してくれている。
古賀正一、ロシア名でビクトル・ニキートヴィチ・ラーバルジンは、一九三五年満州国の軍都ハイラルで生まれた。ソ満国境から約二百キロに位置し、ソ連軍の侵入に備える一大防衛基地の街であった。
毛皮商人である日本人の父と亡命コサックである母の長男として生まれる。コサックといえば日露戦争で秋山好古率いる騎兵隊が破ったことで有名だが、その際出征していた古賀の祖父が捕虜として日本に送られている。
捕虜に対する日本人の丁重な扱いに感銘を受けた祖父は日本贔屓となり、その後娘の結婚相手が日本人だと知ると、「サムライの一族になれる」と喜んで結婚を受け入れる。
ソ連邦成立後解体させられるコサックであるが、出自を隠して多くのコサックが満州に逃げ込んだ。その後満州に入った関東軍は対ソ戦略としてコサックを丁重に扱った。
彼らの生産物を積極的に購入し、農耕地への税を低く抑え、学校も作った。五千人ほどの日本人が住む街で、古賀は日本人学校に通っていたが、学校よりもコサックの子供たちと遊ぶことの方が熱心だった。
一九四五年八月九日未明、ソ連の侵攻が始まったとき、何も知らない古賀はいつものようにコサックの少年たちと近くの草原で馬を走らせていた。
朝食に戻ると、自宅はもぬけの殻で、母親はすでに弟たちを連れて逃げていた。父親が不在の中、母親はソ連軍の大規模な爆撃と街中を包む黒煙を見て、長男の不在を知りながらも泣く泣く逃げることを決めたのだった。
独りになった古賀はとりあえず、別宅のあるハルビンへ馬を走らせる。
到着したハルビンでは、ソ連の囚人兵が片っ端から略奪と暴行の限りを尽くし、多くの日本人が無惨な目に遭わされていた。そんな街で古賀は日本人の親戚とともに暮らすことになる。
翌年、引揚げの目処がたち日本人が準備を進めるなか、古賀も日本への「帰国」を待ち侘びる。
しかし息子と再会後、毛沢東の肖像画を描くという新しいビジネスに成功していた父親は、ハルビンに留まることを決めており、古賀は父親の反対を押し切って独りで引揚げ列車に乗ることになった。
父親の計らいで日本まで同行してくれるという一隊を見つけるが、出発して早々、「ロスケ(ロシア人の蔑称)の面倒は見れない」と同行者に毛布も食料も取られ、列車から降ろされてしまう。
ここから十一歳少年の引揚げの旅が始まるのである。
突然列車を降ろされた古賀は、残された布袋一つを手に歩くしかなかった。水筒もマッチもなかった。
絶望的な状況にも拘らず、少年はこれから待ち受ける長旅を覚悟し、計画的に行動した。
炎天下を歩きながら、体力が消耗しないよう適宜休憩を心がけた。決して無茶はしない。すれば危険なときに身を守れないことを知っていた。
外地からの引揚げに関しては様々な体験者の記録が残っているが、多くの引揚者がしなかったことがこの無茶をせず、体力を温存しながら歩くということだった。
少年は途中、荷物に潰されそうになりながら、必死で列についていく引揚者を多く見た。体力を失うものは遅れをとり、取り残された。荷物と赤ん坊を抱えた母親は、座り込んで泣きじゃくる子供の頰を叩き、がむしゃらに腕を引きずっていた。
少年は線路の周辺は物盗りや匪賊が横行していると知っていたから、かなり離れたところを歩いたが、案の定、線路沿いを歩いて殺されたり、凌辱される日本人や、その死体を度々見た。
古賀は荒野を生き延びる術を身につけていた。
植物が伸びる方向や樹皮の色の濃淡を見れば方角がわかった。川では飲める水の見分け方を知っていた。食べ物を探すには、良い木を探した。
良い木の根本には小川が流れ、そうした場所には食べられる草が生えている。その近くの林には木の実がたっぷりある。
寝場所は天候によって決めた。風が当たらない窪みや岩陰で、水を吸収しやすい砂地を探し、夜中に体が冷えるのを防いだ(これで行き倒れた人は多かった)。首には布を巻いて体の熱を逃さないようにした…(続く)
〈参照〉
石村博子『たった独りの引き揚げ隊』角川文庫、二〇一二
(『表現者クライテリオン』2021年7月号より)
続きは近日公開の第二編で!または、『表現者クライテリオン』2021年7月号にて。
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