今回は、『表現者クライテリオン』のバックナンバーを特別に公開いたします。
公開するのは、仁平千香子先生の連載「移動の文学」、
第四回目の連載タイトル:「伝統の価値」第三編。
以下内容です。
孤立無援の古賀少年を救ったのは、福田恆存の言うところの文化と教養である。
文化とは、人の生き方、その血肉であって、それを切り離せば自分が自分でなくなるものであるという。それは意識的に追求したり合理的に説明したりできないものであり、その土地と共同体に身を根付かせて初めて知りうるものである。
福田は自然に文化を実行できる人が教養のある人であり、教育を受けているものが必ずしも実行できるわけではないという。
そして近代人であるほど教養に欠け、現代ほど文化が薄っぺらになり、教養ある階級を失った時代はないと指摘する。
また教養(文化)とは、過去の生き方に自分を忍び込ませることで得られるものだと福田はいう。
親代々の生活に備わった智慧を自分の内部に染み込ませることで初めて実践できるものであり、このようにして人は生き方を習得するのである。
つまり基準は過去にあるのであり、現在しか見ないものには生を支え成熟の手段となる生き方は得られない。
古賀少年にはコサックが亡命後も大切に残してくれた文化と伝統が継承されており、先人たちの智慧を受け継いでいたからこそ、危機の際に自然にそれを実行できた。
古賀少年は勉学にはあまり興味がなく、学校にも熱心に通っていなかったが、家族や共同体や仲間が教えた教養が古賀の血肉となり、少年の命を救い、日本に辿り着かせた。
これほど「文化とは生き方であり、なければ生きられない」という福田の思想をわかりやすく説明する具体例はないのではないだろうか。
一方で、「大人たちのやることをちゃんと見ておくんだよ」と子供たちに自信を持って言える大人たちが現代にどれだけいるかという問題もある。
直近の大人たちが戦後左翼教育の賜物であるという障害は大きい。早々に正しい歴史教育が必要であろう。
古賀少年の道中における聡明さは、オルテガ・イ・ガセットの大衆論と比較するとさらに興味深い。奇しくも古賀はオルテガが『大衆の反逆』を上梓した二年後に生まれている。
つまり欧州で大衆の特徴がすでに表面化していた時代に、少年は時代に背いて伝統という生き方を訓練されていたのだ。
オルテガが指摘する大衆の特徴は、欲の際限ない膨張と、過去への徹底的な忘恩である。
今与えられた生活の快適さや利便性が過去の人々の努力と創意工夫の遺産であることに気付こうとせず、その場の享楽に没頭し、貪欲に権利を主張する。己の無知を知らず、今ある生活は自らの能力によるものと自負する。なぜ生きるのか、どう生きるのかを思案することもない。
オルテガは、元来庶民にとって生きるとは制限、義務、依存を意味するものであったという。
生きるには常に障害や危険があり、それらに自らを適合させ、生き延びるために必要な知識の習得と訓練を義務とし、そのために家族や共同体に依存した。
しかし現在の「自由」に慣れきってしまった大衆はいかなる制限も要請も、抑圧であり非民主主義的であるとして受け入れようとしない。オルテガは自らを律する規範を失った社会は、文化レベルの低下した野蛮な社会であり、これほど不幸な時代はないという。
一方で、オルテガは自ら奉仕する対象を見定め、規律を与える義務という抑圧を自らに課す生き方を「高貴な生」と呼ぶ。
高貴な人間であるほど己の不完全さを熟知しているため、超越的な存在に依拠し(過去の智慧を頼り)、自らの責任を果たそうとする。
コサックは古賀少年に荒野での障害と危険を見極め生き延びる術を教えた。少年もコサックの伝統に身を寄せ、自らの義務を理解し熱心に吸収した。結果、多くの人が命を落とした引揚げで、食料も水も毛布すら持たない少年が生き延びられたのだ。
教養とは生を支える理に適ったものであり、それを通して自らに課された使命と義務を認識し実践させるものである。そうした実践の積み重ねによって人は時間をかけて成熟するのである。
また教養の習得を通じて、過去と自分のつながりを知り、先人に感謝する(「お陰様」を知る)のである。現代には、過去ほど明確な障害や危険がないからこそ、人は欲を抑制できず忘恩になってしまう。
しかしそれを環境のせいにして、愚かさを露呈し続けるのではなく、今だからこそ魂の研磨に何が必要かを考える時代なのであろう。
古賀はサンボ世界チャンピオンという偉業を成してもなお、満州から歩いた数か月が人生で一番輝いていたと語る。
オルテガが引用したセルバンテスの「道中の方が常に旅籠屋よりいい」(生の充実は、到着地点よりその過程にある)ということだろう。
自ら使命と義務を認識し、それに向かって努力をしている道中こそ命は輝くのだ。
ロシア語で故郷を「ロージア」という。故郷喪失の経験に関しては、政治の動乱に度々巻き込まれてきたロシア人は日本人と比べ物にならない。
故郷喪失の経験が深いからこそ、伝統という先人の智慧と記憶をたやさず次世代へ伝えようという意欲も強いのだろう。
本誌の連載(「『常識』を考える」)で柴山桂太氏は、自然に身につく「習慣」に対し、「伝統」は自覚的に見つけ出さなければ失われてしまうものであると指摘する。
伝統は過去と現在の非連続性が前提となっており、その断絶を意識した時に初めて見出されるものだからである。失われる運命にあるものだからこそ、人々の意志がなければ存続できないものなのである。
しかしその儚い伝統は非力な子供の命をも救う力を秘めていることを忘れてはならない。
〈参照〉
石村博子『たった独りの引き揚げ隊』角川文庫、二〇一二
オルデガ・イ・ガセット『大衆の反逆』佐々木孝訳、岩波文庫、二〇二〇
福田恆存『保守とは何か』浜崎洋介編、文春学藝ライブラリー、二〇一三
(『表現者クライテリオン』2021年7月号より)
前編も読む
第一編:【仁平千香子】伝統の価値①ーたった独りで千キロを超える道のりを歩いた少年
第二編:【仁平千香子】伝統の価値②ー下を向いたら大人の様に死んでしまう
他の連載は『表現者クライテリオン』2021年7月号にて。
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