皆様、こんにちは。
『表現者クライテリオン』編集部です。
今回は、コロナ検証として非常に重要な鼎談であるという観点から、『表現者クライテリオン』2023年1月号(通巻106号)に掲載された、『【特別座談会】統計学・行動科学から問い直す、「コロナ専門家」の倫理観[前編]』を”全文特別公開”いたします!
【特別座談会】
統計学・行動科学から問い直す、「コロナ専門家」の倫理観[前編]
松原 望×竹村和久×藤井 聡
「四二万人死亡」。
統計に基づくというこの衝撃的な発表が、いかに人々の不安を煽り、社会に被害を与えたか──。
統計学と科学者倫理の視点からコロナ対策を検証する。
藤井▼今回は、統計学の権威である松原先生と、行動科学・行動的心理学の権威である竹村先生とともに、コロナ専門家と呼ばれる方々のコロナ感染症に関する科学的情報の提供行為に関しまして統計学ならびに科学者倫理の視点から検証する議論をいたしたいと思い、こうした機会を設けた次第です。
松原先生は統計の世界では大変に著名な先生で、私自身、先生のご著書を学生の頃から何度も読んで勉強してまいりましたし、竹村先生とは心理学や行動的意思決定などの研究を長年一緒に続けてきた同僚でもあると同時に、その分野で日本を代表する研究者のお一人です。今日は私も、編集長という立場よりもむしろ、行動科学者、心理学者、応用統計学者の一人としてこの座談会に参加させていただきたいと思っています。
松原先生、竹村先生と私は、二〇二〇年の秋に行動計量学会でシンポジウムを開催し、最大四二万人が死亡すると発言した西浦さんや、コロナ分科会会長の尾身さんらが行った情報提供や発言に関して、科学者倫理の視点からの問題点を論じましたが、あれから二年経ち、コロナに対する過剰反応に一定の落ち着きが見られ始めたこの段階でもう一度その議論を深めたいと考えています。本日はどうぞよろしくお願いします。
まずは松原先生から、彼ら科学者としての振る舞いの適正性、公正性についてどうご評価されるか、お伺いしたいと思います。
独善的・独断的なコロナ専門家
松原▼権威というべき者ではありませんで、一統計学者です。ただ、統計学者はデータの出所までを精査しますから、個人を超えて厳しい論調になるのはご容赦ください。
日本の政治と科学の関わりから見ると、藤井先生の発題は誠に重要だと思います。しかし、そういう声は打ち消されてしまうことが普通です。日本社会がお盆に乗せた小豆のように、こっちに傾けばこっちにという具合に、一つのところに止まってきちんと論を立てて警告を発する構造になっていないことが、今回のコロナ騒動で顕著に表れています。
私はこの問題は、科学者倫理のみならず道徳倫理、さらには社会や政治の倫理の問題だと思います。
藤井▼なるほど、科学者として、という科学者倫理以前の、人として、という道徳倫理の範疇の問題だ、ということですね。
松原▼国民に多大な影響を与えることを意識せずに、専門的見地から独断的なことを言う。そして、メディアはそれをほとんどきちんと検証しないで流したり、あえて煽ったりすることで、メディア各社の自社利益を貪る構造があります。
現在の日本は大幅な円安やエネルギー危機などに苦しんでいますが、この背後にコロナの影響があることは間違いありません。それが今や、無視されてしまっていることが大変残念です。
私が一番びっくりしたのは、朝日新聞などに載った例の図です。
藤井▼四二万人の死者数が出るという根拠となった、西浦氏が公表した、感染者数の推移のグラフですね。
松原▼新聞の第一面に載っていたのですが、解説も何もないので普通の人は理解できません。「偉い先生が言っているので問答無用、間違いない」となってしまいます。
しかも、当時の安倍元総理がそれに乗っかって自粛要請し、それ以降飲み屋など、「そういうところだから仕方ない」と思われやすい事業者を圧迫するという、社会として最もあってはならない形になったのが非常に残念です。これはぜひ、後世の記憶にとどめておかないといけません。
そういうわけで「尖っているこの点は何だろう」と思ったのですが、果たして出てきたものはSIRモデルでした。
SIRモデルとは、三本の簡単な微分方程式で構成された数理モデルです。しかし、非常に複雑な現実を三本の方程式で描き切れるわけがありません。それをコンピューター上で動かしただけで、「八割減だ」と言ってしまう。
さらに、西浦氏が出したこの図には尖っている点(特異点)があるのですが、物事は普通、連続的(厳密には微分可能に)で、オリジナルのSIRモデルにさえこういう点は現れず、滑らかに動きます。
特に作為した場合は別として、この程度の非線形性なら特異点が出るわけはない。専門家がコンピューターで解き(ルンゲ・クッタ法)、現在までのものとこれから規制した場合のものを別々に計算して、実は、紙の上でくっつけただけの形になっているわけです。科学者倫理に触れませんか。西浦氏は国民を舐めてますね。
大学の演習問題なら構いませんが、一億二千万人の社会全体に当てはめて、色々な経済活動を抑えてしまっていいのでしょうか。
日本学術会議は沈黙で通し何をやっていましたか。専門家も政治家も、力を合わせて乗り切るために議論するのではなく、一方的に一私人の西浦モデルに乗っかって進んでしまう。非常に乱暴な進め方で、まさに放埓の極み、戦後政治でも類例を見ない。日本政治が衰弱し規律を失っていることの一つの現れでしょう。
もう一つ言うと、西浦氏が独断専行で話をしている感じがしました。私が厚労省の担当者に聞いたら「あれは私たちとは関係なく発表したんです」とおっしゃっていました。
藤井▼そのあたりの経緯は、文藝春秋の二〇二〇年七月号に詳述されているんですが、むしろ反対されていた方も多かったようで、最終的には個人で言うんだったら厚労省としてもそんな個人の発言を止めようがない、というスタンスだったようです。
西浦さんの同僚の押谷仁氏などは、これは首相が言うべき筋の重い数字であって君一人で責任が取れないんだから公表すべきでない、と強くおっしゃったようですが、それを押し切って発表したと報道されています。
松原▼そうですか。どう見てもおかしいですね。自分が属する会議とは別の場で発表して、後に「専門家会議は実は反対だった」という話を聞いた時、これはある種のスキャンダル(不祥事)ではないかと思いました。
西浦氏個人の責任、専門家会議の責任、それから政治の責任がそれぞれ追及されるべきだと思います。
それから藤井先生は、東京都が時短要請を行う際の根拠にした資料を非常に丹念に統計分析されていて、強い規制をかけても感染者数の抑制に成功しなかったことを実証されました。その実証は誠にお見事であり、敬意を表したいと思います。
それと、これは竹村先生のご専門ですが、大地震やパンデミックなどのリスクに日本がどう対応するか、各自の専門に基づき、かつ専門を超えて皆で議論する意味でのリスク対応のシステムが日本にはないのだろうと思います。
これは日本社会の構造的問題です。私は音楽が好きですが、ある分野の専門家が独奏をやってサッと消えていき、また次の専門家が独奏して去っていくように思えます。
そうではなくて、オーケストラで皆それぞれのパートをきちんと演奏する形にして、さらに外部の対話で出てきた指針をそこで奏でて、指揮者が全体を見ながら指揮するのが本来のあり方だと思います。
最後に、菅元首相と尾身さんが共同で出てきて議論していたことが、私にはショックでした。なぜなら、尾身さんは政府が設けた委員会の一員であって、最高の政治責任を負っている菅さんと同等であるはずがないからです。
お互いに同等の立場で出てきて議論して、菅さんが「ああ、そうですか」と同意するのは、一九四一年に総理大臣の近衛文麿と軍部大臣の東条英機が議論していた図とそっくりです。つまり、下の立場の者に押し切られる図です。
時代が変わったとはいえ、責任の取り方が無茶苦茶です。尾身さんは政治責任を取れませんが、菅さんは取らなくてはいけない。
もし学者が責任を取るのであれば、選挙に出ないといけません。学問の範囲内で「自分の言えることはこうだろう」「これは問題だから、自分の意見は修正しないといけない」という態度の取り方をすべきです。
そもそも生活を八割カットしないと何万人に死者が出るというなら、それは通常の政策ではない。それは政治の中で調整されるべきですが、それがスーッと通ってしまう。日本政治にはもうそういう力は残されていないのです。
この程度で迷走では今後大きな問題に対応することはとても無理でしょう。
藤井▼今ご発言いただいた内容の一つは、西浦さんの会見の正統性に重大な疑義があったということです。それを活用する政治家やメディアの問題もありますが、あの発言をしたこと自体の「道徳的問題」がある、ということですね。
また、統計分析のモデル自体の信憑性にも疑いがあり、それを発表することを鑑みるとさらに問題があったのではないかとのご指摘もいただきました。
自粛を誘発することの正当性や便益と、その経済的・社会的被害、さらに別種の想定される健康被害やコストとの総合的なトレードオフを考慮して、最適解を探る努力をするのがリスクマネジメントの要諦であるにもかかわらず、それが一切無視されたということですね。
そして、そのトレードオフがないことの反映として、尾身さんと菅さんがパブリックの場で議論し、あろうことか政治のリーダーが説得されてしまう。
本来トレードオフがあるならば、尾身さんが所見を申し述べて、あとは菅さんや内閣が判断すればいいのですが、感染症の専門家に感染症について公衆の面前でやり込められてしまうというのは、そのトレードオフを放棄していることになる、ということですね。
竹村先生はこの問題、どうお感じでしょうか。
リスク評価、リスク管理、リスクコミュニケーション上の問題
竹村▼時系列に沿ってリスク分析的立場で、どのようになっていったか最初にお話ししたいと思います。
二〇二〇年の年初に新型コロナウィルスのニュースが報じられ、感染が拡大してもう二年以上経ちます。二〇二〇年三月に安倍元総理が学校の休校宣言をしますが、当時は子供にはあまり感染しないだろうと言われていて、専門家にも話を聞かなかったので、マスメディアが「政治家が独断で宣言したのは専制主義的だ」と安倍さんを批判しました。
今から評価すると、安倍さんがやったことはあまり妥当ではなかったと思いますが、「予防原則」(編集部注:環境や人体に被害が生じる恐れがある場合、十分な科学的証明がなされていなくても速やかに対処すべきとする原則。事前警戒原則)に照らせば、政策的に間違いだとは言えないと思います。
その時に、「専門家の言うことを聞かないのはおかしい」とマスメディアや学者が言い出したことで、菅さんの時には専門家を横に置くようになったのだと思います。
その後、西浦先生や東京都の小池知事も発言し始めます。もともと、官邸は緊急事態宣言を出す気はそこまでなかったようですが、小池さんがロックダウンだと言って、マスコミもそれに乗っかったので、官邸も宣言を出すことにしたようです。
三月初めの段階ではエビデンスがすでにあり、藤井さんも自粛してもあまり効果がないのではないかという統計データを出しておられましたし、僕も統計データの検討からそのように思っていました。
しかし、だんだん「スウェーデンのような自粛しない国はひどい」というムードが作られ、初めは安倍さんの休校宣言を専制主義だと批判していたリベラル系の人たちも、「政府が緊急事態宣言を早く出さないのは、命より経済を大事にしているからだ」と言って、私権制限まで含めたロックダウンを求め始めました。
日本に限らず、世界中でリベラルの人たちが、憲法で守られている私権や自由権の制限まで言い出したのは驚きでした。
藤井▼「リベラル」を重視したのはスウェーデンくらいですよね。
竹村▼そうなんです。リスク分析の考え方では、リスク評価、リスク管理、リスクコミュニケーションの三つが大事だと言われています。
リスク評価とは、リスクがどの程度あるかということです。コロナの場合は、致死率などが統計として公表されていますが、厚労省のホームページを見ると、コロナの致死率しか載っていません。
普通はインフルエンザなど他の疾病と、致死率や人口当たりの死亡率などを比較して評価します。しかし、最近になるまで厚労省はそれをしておらず、そうした比較データをコロナのリスク情報として出さないようにしていたと考えられます。
さらに、マスメディアも専門家も、当時そうしたデータを積極的に出していたとは言えません。厚労省では、十数年前に新型インフルエンザの分科会ができて色々な意見が出ており、客観的なリスク評価やリスクコミュニケーションの重要性が主張されていたのですが、今回、そうした議論が踏襲されることはありませんでした。
藤井▼そうですね。ただ、当方が代表を務める京都大学の「レジリエンス実践ユニット」という研究グループでは、リスク評価、リスク管理、リスクコミュニケーションについて研究しているのですが、二〇二〇年の三月下旬にかけて、そうした知見に基づいて、ユニットメンバーで議論を重ね、コロナ対策について適切なリスク管理(マネジメント)方法をまとめました。
そして世に公表すると同時に、インターネットの動画で解説し、何十万アクセスも獲得しました。その上で、テレビにも登壇する機会を得て、その際、「半自粛」という言葉を使いつつ、その概念の周知に努めました。
つまり、自粛しすぎるとよくないし、しなさすぎるのもよくないかもしれないので、情報を可能な限り集めて総合的に判断し、どこかにある最適なポイントを探ろう、と主張したわけです。
しかし、政府系からはこういった主張はなく、それどころか「人殺し」だとか「素人のくせに何を言っているんだ」という、いわゆる徹底自粛派からの徹底した批判・罵詈雑言を浴びました。
当時、コロナについての一定の科学的な意味のある情報が得られていたにもかかわらず、トレードオフを探る態度そのものがダメだ、と見なされたわけです。そして、それ以後、どれだけ科学的情報、統計学的に意義ある情報が蓄積されていっても、そうした風潮は長期にわたって変わることがありませんでした。
竹村▼リスク管理ではトレードオフを考えるのは当然で、スウェーデンではそういう認識で自粛をしなかったわけですよね。本来は政府がリスク管理の主体ですが、松原先生がおっしゃったように、どこに責任があるのか分からない点も問題です。
双方向的で透明性を求める民主的な社会では、リスクコミュニケーションも必要ですが、それも全然守られていません。厚労省も単に説得するだけで根拠を示していませんでした。これは一方向のコミュニケーションとしても説明責任を果たしておらず望ましくないと思います。
また、市民団体などが政府分科会の議事録を提出してほしいと要求しても公表せず、メディアもほとんど追及しませんでした。このあたりは、リスクコミュニケーション上非常に重大な問題です。
藤井▼我々はもう二十年ほど、リスク評価、リスク管理、リスクコミュニケーションの研究を重ねてきましたが、リスクコミュニケーションにおいては、基本的には事実に基づいて情報提供するのが出発点です。
リスクコミュニケーションの分野では、リスクアクセプタンス(受容)が重要だと見なされています。日常には様々なリスクが存在しますが、そうしたリスクが仮にゼロでなかったとしても、国民は、それらのリスクを許容しつつ日常生活を続けているのがこの現実です。
つまり、どのようなリスクについてもゼロリスクは達成困難、というより現実的に不可能であるわけですから、人々は一定のリスクを受け入れるということについて社会的コンセンサスを何らかの形で形成しているわけです。
そしてそのコンセンサスに基づいてリスク管理の政策を考える、すなわち、そのコンセンサスよりも危険な状況があるケース、すなわち許容できない状況について、その対応方法を(予防的なものも含めて)考えるのがリスクマネジメント(管理)の基本です。
つまり出発点としてはリスクを「工学的」「客観的」なものと考えるけれど、それを踏まえた上で、最終的には民主主義の中でどのようにその危険と付き合っていくかを皆で考える、というのがリスクコミュニケーションの王道だとして様々な研究と実践が積み重ねられてきたわけです。
つまり、リスクと付き合うにあたり、それが何であれ、「客観的事実の提供」と「共考」の二つが重要だと我々は散々議論してきたのです。
ところが今回のコロナでは、専門家側からも十分な客観的事実が提示されず、思考停止に陥ったまま特に根拠も示さず、何のトレードオフも考えずに、つまり、どれだけpの経済的、健康的、精神的、社会的、文化的被害が生じるのかに頓着せず、ひたすらリスクをゼロに近づける対策を推奨し続ける、という振る舞いが西浦さんや尾身さんたちのいわゆる「専門家」らによって繰り返され、そして世間もそれに煽られるようにしてその推奨にひたすら従っていった。
これは野蛮国家そのものであり、日本が文明国家でないことの証左であると非常に強く感じました。
松原▼私もそれに近い状態だと感じています。経済的な圧迫をかければ、失業や自殺する人もいますが、コロナ対策の推奨者においてもそれに追従する政治や人々の側にもそれが見えていなかったわけです。
その典型例が「八割規制」するところにバッと向かってしまった、という社会現象です。自粛により見えないところで失われる命もあることを思い出して、どのあたりの中道を探るのかという「知恵」を持つことが、リスクコミュニケーションの本質にもかかわらず、です。
コロナ死のみに向かった「アテンション(注意)」
松原▼もう一つ、統計学や心理学で「パブリケーションバイアス」(公表バイアス)と呼ばれるものがあります。
つまり、テレビに出てくる人の意見だけが支配的な意見になるということです。実際には、メディアに出てくる人たち以外に、立派な学者たちがたくさんいて、スペイン風邪との比較とか重症患者の人数とか、検査の感度とかのデータを出して議論していたのです。
藤井▼実際、二〇二〇年には、竹村先生が中心となり、松原先生と我々が行動計量学の観点から、当時の専門家会議の差配の問題点を指摘する学会議論を行いましたが、マスメディアは全く取り上げることはありませんでしたね。
松原▼そうですね。こうした「公表バイアス」が濃密に存在していたわけですが、そうしたバイアスの下では、人々の耳目に触れる事実自体が極端に偏ってしまいます。正直申しまして、そうした色々なデータを出させない、何らかの「意図」があったとすら感じてしまいます。
藤井▼日本社会が一つの意思決定主体だとすると、その主体にも認知心理学で言うところの「アテンション(注意)」というものがあると解釈することもできます。アテンションとは、処理する情報を選択し、そこから漏れた情報は捨てるということです。
日本全体のアテンションはコロナで死ぬ人のリスクだけに向けられて、それ以外のリスクには差し向けられず、その情報プロセスに基づいて色々なことが決められたので八割自粛、緊急事態宣言になったわけです。
先生がおっしゃったように、様々な専門家が自粛に伴うコロナ死以外のダメージリスクについて警鐘を鳴らしてきました。自殺が増える、高齢者がうつ病になり、外出しないことで足腰が立たなくなり、それ以外の疾患も拡大するといったリスクですが、それらは注目されず、日本社会全体におけるマクロな情報処理がなされなかったのです。
こうした構造を誰が導いたのかという問題があります。これは日本という集団の意思決定問題なので、簡単に責任の所在を明らかにすることは難しいですが、少なくとも西浦さんはそうなることを「意図」していたことは、「八割おじさん」という科学的情報に全く慣れ親しんでいない人々でも誰もが親近感を持ちやすいネーミングを意図的に自称していたことからも明白です。
そして、経済については分からないと公言していた尾身さんの諸発言からも、そして、自身の実態的な世論に対する影響力の大きさを自認していたことは確実であるという点からも、そういう「意図」を持っていたことは否定し難いと思われます。
つまり、彼らの発言によって、コロナに怯える社会状況が生まれることを想定しつつ、発言していたと考えざるを得ないわけです。
このように考えると、コロナ死のリスクのみにアテンションが向くような社会状況を作り上げたという意味で、西浦氏や尾身氏ら「専門家」は極めて重大な責任を担っていると言わざるを得ないと思います。
もちろん、政治家もマスメディアも加担していますが、どれだけ控えめに言っても尾身・西浦両氏の責任が僅少だとは絶対に言えないわけです。
竹村▼リスク評価に関して客観的状況を見ると、死亡率や致命率はある程度スパンを取ればだいたい分かります。ですので、コロナのリスク評価自体は他のリスクと比べてそれほど難しくはありません。
むしろ、原発事故の時の低線量放射線被曝、電磁波の問題、遺伝子組み換え食品などのリスク評価の方が専門家によって意見も分かれ、科学的なリスク評価が難しいと思います。それにもかかわらず、「コロナは未知のウィルスで、リスクは分からない」と流行からかなり時間が経った後でも言っていたのが不思議でしょうがなかったです。
藤井▼二〇二〇年四月の時点で、ダイヤモンド・プリンセス号の事例がありました。ダイヤモンド・プリンセス号はかなり理想的な実験室に近い現実的空間となっていて、閉ざされた空間の中での感染率や重症化率といったデータが好むと好まざるとにかかわらず取れたんです。
かつ、三月の時点で国内にも感染者がいて、致死率などについての情報も一定程度ありました。三月上旬から四月上旬の間に、リスクマネジメントするための最低限の情報は入手できていたということです。
だからこそ、一回目の緊急事態宣言の時ですらその客観的データが反映されていないことに対して、私は厳しく批判したんです。ましてや、第三波、第四波になると相当量の情報の蓄積がありました。
それを踏まえてリスク管理を行うことはリスク管理における常識なのに、専門家会議がそれをやった形跡はほぼありません。これは極めて不埒で不道徳な振る舞いだと思います。
そもそも、西浦氏も含めた徹底自粛派の唯一の根拠は「予防原則」なわけですが、それとて「分からない場合」に限られた原則です。
様々な客観的データの蓄積があるケースにおいては、予防原則に則って自粛を主張する、つまり、未知なものなんだから徹底的に自粛すべきだ、なんていう主張を正当化する理性的根拠は喪失されているのです。だから彼らの主張が理性がある主張だとは到底見なされ得ないわけです。
(『表現者クライテリオン』3月号に続く)
鼎談者プロフィール
◯松原 望
42年東京市生まれ。66年、東京大学教養学部卒業。同年、文部省統計数理研究所第一研究部第一研究室研究員。68年、スタンフォード大学大学院統計学博士課程に留学。72年統計学博士号(Ph.D)取得。筑波大学助教授、イェール大学政治学部フルブライト客員研究員、東京大学教養学部社会科学科教授、同大学院総合文化研究所教授、上智大学外国語学部教授などを歴任。現在、東京大学名誉教授、(株)ヘイズ総合研究所代表取締役。著書に『はじめよう!統計学超入門』『わかりやすい統計学 データサイエンス基礎』『統計学入門』など多数。
◯竹村和久
60年生まれ。同志社大学文学部心理学専攻卒業。東京工業大学大学院総合理工学研究科博士(学術)、北里大学大学院医療系研究博士(医学)。光華女子短期大学、筑波大学大学院システム情報工学研究科助教授、カーネギーメロン大学社会意思決定学部フルブライト上級研究員などを経て、02年より早稲田大学教授、同大学意思決定研究所所長。著書に『Behavioral decision theory』(Springer)、『Foundations of economic psycology』(Springer)、『Escaping from bad decisions』(Academic Press)、『行動意思決定論』(日本評論社)、『意思決定の行方』(共著、朝倉書店)など。
◯藤井聡
本誌『表現者クライテリオン』編集長。68年奈良県生まれ。京都大学卒業。同大学助教授、東京工業大学教授などを経て、京都大学大学院教授。京都大学レジリエンス実践ユニット長、12年から18年までの安倍内閣・内閣官房参与を務める。専門は公共政策論。文部科学大臣表彰、日本行動計量学会林知己夫賞等受賞多数。著書に『大衆社会の処方箋』『<凡庸>という悪魔』『プラグマティズムの作法』『維新・改革の正体』『強靱科の思想』『プライマリー亡国論』、共著に『デモクラシーの毒』『ブラック・デモクラシー』『国土学』など多数。新共著に『対論「炎上」日本のメカニズム』(文春新書)。表現者塾出身。
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