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【上野吉一】コスパ/タイパの追求がもたらす自己家畜化状態

啓文社(編集用)

啓文社(編集用)

表現者クライテリオン2023年7月号【特集】進化する”コスパ”至上主義  --タイパ管理された家畜たち
 
より特集記事を一部公開します。

本誌にて全編お読みいただけます。
https://the-criterion.jp/backnumber/109/

 


コスパ/タイパの追求がもたらす自己家畜化状態

 

◯筆者紹介

上野 吉一(うえの・よしかず)

60年岩手県生まれ。86年、北海道大学農学部卒業。同大学大学院文学研究科修了。博士(理学)。北海道大学実験生物センター助手を経て、00年より京都大学霊長類研究所附属人類進化モデル研究センター准教授。07年、大学を辞し、名古屋市東山動物園の企画官へ転身、新しいコンセプトの動物園作りに携わった。現在、中部大学中部高等学術研究所特任講師。著書に『グルメなサル香水をつけるサル ヒトの進化戦略』『動物園のつくり方 入門 動物園学』(共訳)『動物福祉の現在 動物とのより良い関係を築くために』(共著)など。

 

(承前)

効率至上主義が映し出す自己家畜化現象

 コスパ/タイパを考えることは、より経済的とか満足度を高めるとかといった場面においては自然なことであり、とりたてて批判されるものではない。投入する費用や時間に対し、より大きな成果や満足度を得られるように工夫することは、緻密な比較や計画が可能な人間にとっては至極当然の行為と言える。しかし、今回の特集において批判が向けられようとしているコスパ/タイパ至上主義は、効率的であるということに結び付く物事に対し無批判的であったり受動的に向き合ったりしていることにある。

 コスパ/タイパ至上主義においては、各人が自ら自覚的に選択しているように見える状況下でも、実際には無自覚的に与えられた状態になっている。つまり、コスパ/タイパという形式的な結果のみを求めるがために、それを選び取る本質的な自分自身の意志(目的)や状況を考慮せずに行動してしまう。結果として自己の主体性や批判的思考能力を発揮することなく、その姿勢は物事を選び取っているのではなくなっている。こうした行為は、実質的に人間を無批判的で受動的な存在に変えてしまう可能性をもたらす。

 家畜化された動物の生活は、安全で効率的であると同時に、それは強度に管理されたものとなっている。主体的であるようで、結局のところ与えられた物事の中で作り上げられた生活を送っている。その姿は、先のコスパ/タイパ至上主義者が無自覚的な物事の受容を行っている姿のアナロジーと捉えることができるのではないか。つまり、それは「自己家畜化」を起こした人間の姿を映し出しているように見える。

 人間に対する「自己家畜化」という概念は、二十世紀初頭にドイツの人類学者(たとえばEickstedt)によって人類進化の有効な説明原理として提唱された。家畜と人間との間の形態学的な類似性をもとに考えられたが、この考えそのものは現在ほとんど受け入れられていない。しかし、人為的な環境に自らの振る舞いなどを適応させているということを捉えるメタファーとしては意味のあるものと目されている(尾本、二〇〇二)。ここで言う「家畜化」とは動物が人間の管理のもとで効率化された生活が可能な状態に変容したこととしよう。したがって、「自己家畜化」とは人間自ら自身をそういう状態にすることとなる。

 人間がコスパ/タイパ至上主義に陥る背景として、先に記したように効率ないし要領良く物事にアクセスできる現代の社会環境がある。効率性ばかりを強く求めそこに目が行き過ぎてしまうと、物事を選択しているようであっても、実際には外部から与えられるという状態(自己家畜化)に陥ってしまっていると捉えられることは少なくないだろう。卑近な例で言えば、コスパ良く効率的に栄養摂取するためにインスタント食品やレトルト食品を利用するのは、食事が操作的に行われているに過ぎず、その姿は家畜的である。食べるという行為としては、非常に単純化されている。

 つまり、効率良く物事にアクセスできることに無批判的に満足しそれを過度に受容することで、意図や自覚をしっかりと持たないことにより人間自体が家畜化されるというアナロジーで捉えられる状態へ陥ることが懸念される。

 

家畜化による無批判的受容と社会的規範の歪み

 コスパ/タイパの行き過ぎた追求によって、自己家畜化現象とも呼べるような状態に至っているのではないかという考察を行った。次に、コスパ・タイパ至上主義が規範に欠ける行為となっているのではないかという批判に関し、自己家畜化による主体性や批判的姿勢の犠牲という観点から考えてみたい。

 自己家畜化とは、人間自身を人為的・文化的環境への適応を促し、その結果として物事を無批判的ないし受動的に受容する状態に陥ることが含まれることをメタファーとして表現したものだった。

 ヒト以外の動物に対する家畜化において見られる特徴として、幼児化(ネオテニー)という現象がある。形態のみならず行動においても、コドモ期の特性がオトナ期になっても見られるというものである。多くの動物においてコドモ期はオトナ期に比べはるかに周囲への配慮が希薄である。欲望に任せた振る舞いである。未熟であるがために社会的な“約束ごと”が身に付いていないためと考えられる。あるいは、自己を中心とした“狭い世界”に生きていることによるためとも言える。

 先述のように過剰な効率性追求が自己家畜化と言える状態に結び付いているとすれば、それは物事に対し無批判的姿勢を示すことである。また、それは効率性に結び付かないものを拒否したり受け入れたりしなくなることである。その結果として行われるのは、規範に欠け自己中心的な行為であって不思議ではない。また、それは物事に内包される道徳的理念への配慮やその価値を観照・吟味するといった能力を損なうことになるだろう。たとえばSNSでのやりとりが増加することで、非常に短いメッセージで意思疎通ができるようになった。しかし、これでは、相手の感情や状況を正確に理解できないことがあり、思いやりに欠けたコミュニケーションになる危険性がある。

 コスパ/タイパ至上主義が行き過ぎると行為の結果(成果)のみに執着し、その過程が持つ価値や結果による広がりへの関心は薄れる状態となる。それは与えられるものを無批判的に受容する家畜的なものとなる。そうした物事の関わりは、効率的であり要領の良いものであったとしても、極めて表層的な物事との関わりに留まると言える

 たとえば芸術を鑑賞しようとした場合、作品を効率的に聞きかじるかのように見聞きしようとすると、それは見たり聞いたりしたということにしか過ぎず観照にはつながらない。作品が内奥に持つ意味や価値に触れることは難しくなる。

 このようにコスパ/タイパ至上主義は、文化的・社会的存在である人間が持つ特性を変質させ、健全でないものにする可能性がある。このような考え方がますます浸透することは、社会全体の健全性までも脅かすリスクがあると考えられる。

 

(本誌に続く・・・)

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続きでは、自己家畜化状態からの脱却の処方箋が論じられます。
続きはぜひ本誌でお読みください。

 


『表現者クライテリオン2023年7月号【特集】進化する”コスパ”至上主義  --タイパ管理された家畜たち』より
https://the-criterion.jp/backnumber/109/

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