『カッサンドラの日記』8 共同体が壊れていく…  

橋本 由美

橋本 由美

 日本が海外から「日本株式会社」と揶揄された時代は、もう歴史の一ページになってしまった。嘲弄気味にそう陰口を叩かれたのは、それだけ「日本株式会社」がパワフルだったからだ。世界のどこに行っても、目障りなくらい日本の商社や企業が進出していた。よかったか悪かったかは別にして、「日本株式会社」などと言われたのは、日本企業が共同体として上手く機能していたということになる。共同体は団結心や協調性や仲間意識を強める。仲間意識というのは、それだけで無自覚の排他性を伴うものだから、外部から見ると面白くないこともあったであろう。それは、同時に強みでもあった。

 国民性によって「共同体」のイメージは違う。日本の共同体の特徴は、メンバー各自が自分の役割を真面目に完璧にこなそうとするところにある。個性や主体性に欠けると言われる所以だが、自分の持ち分に責任をもつという点での倫理観はあった。少し前の日本には「分相応」とか「身の丈に合った」とか「身の程を知る」という言葉がよく使われた。封建時代の序列に従う感覚が残っていた時代である。おそらく遠い「藩」の時代の記憶が行動規範の底流にあるのではないか。序列は、共同体の内部に存在する。異なる共同体との間にあるのは序列ではない。対等な共同体同士は競争相手であり、優位な立場にある共同体と常に不利な状況に置かれている共同体を分けるのは「格差」である。血筋で決まる大名家と弱小藩士の間には厳然たる格差があったし、代々の藩士と農民や町人の間にも格差はあった。これに対して、藩の役職や、職人の親方と兄弟子と見習いの間や、番頭と丁稚の間は序列である。共同体の間に越えられない格差があったとしても、内部の序列は仲間うちで承認され制度化されたものである。共同体内部の序列には大きな断絶はないということで、制度がうまく機能して各自が自分の役割に生甲斐を持って参加できれば、それを分相応と受け止めて納得することができたのだろう。日本企業が力強かった時代の、社員がお互いの役割を認め合い、それぞれの仕事に誇りを持って挑むのと似ている。

 初等中等教育の「学校」という場も小さな共同体である。日本の学校教育の独特な点に、教室の清掃や給食の給仕を生徒が行うという伝統がある。当番制の日直もある。修学旅行や遠足などの行事もある。国によっては「体育」の授業がないと聞いたことがある。教科外の「部活」も日本的なものらしい。現実の学校活動の実施状況には賛否両論があっても、その基本には、知識の伝達に留まらない「全人格的」な育成という理想がある。共同体に都合のいい従順な子供を育てるという批判もあるが、共同体を保つには何かしら内部規律が必要で、実施に当たって道徳や強制の問題が起こるのは、また別の議論になる。

 掃除当番や給食の係や日直は、家庭の経済状況や成績に関係なく、誰にでも回って来る。生徒同士が役割分担して協力する。駆けっこが苦手な子でも真面目に拭き掃除に励み、算数ができなくても給食の食器を要領よく片付ける子もいて、ちょっと見直される。困っている子を助ける仲間や部活でまとめ役の子も一目置かれる。成績以外に「あいつはいい奴だ」という発見の場を提供している(しようとしている)ことは評価できるだろう。生徒間には学年という序列があるが、同学年の生徒は平等である。この小さな共同体には仲間意識が生まれる。

 日本の共同体が軋み始めている。日本の共同体がいいか悪いかという視点ではなく、何が起こっているのかということを眺めてみる。

 いまの日本は、何ごともコスト削減という守りの体制になっている。企業のコスト削減は人件費の削減になって現れ、賃金は上がらなくなった。正規社員のコストが負担になって、非正規雇用者でやりくりするようになった。学校でも教員の勤務時間が過労死ラインを超えると言われて久しいが、人員増強を望める財政状況ではないらしく、教科を教えるだけの非常勤の教員を充てたり、部活を切り離して地域のスポーツクラブに委託したりしようとしている。大学の研究環境も悲惨である。不足する研究費、任期付きの若手研究者が問題になっても正規の教員ポストを増やさない(増やせない)、すぐに成果の出ない基礎研究や金儲けに無縁の文系学部は冷遇される、その結果、国際競争力はガタ落ちである。小学校から大学まで管理体制が強化されて、教員の書類作成の負担も昔の比ではない。おそらく財政支出を正当化するためにお役所が必要としているのだろう。多くの職場で女性の産休が取りにくいのも、女性差別以前に人員に余裕がないということがありそうだ。男性職員が病気で長期療養が必要になれば同じことが起こる。財政難とはいえ、すべての財布の口が締まれば、思い切った打開策も始められない。加えて、人口減少の不安から、当分はこんな状況が続くのだろう。

 非正規や非常勤やパート・アルバイトというのは、共同体の仲間になれない人たちである。共同体の仲間を守るために、使い捨てで利用されている人たちである。共同体の排他性という面が強くなり、同じ共同体で仕事をしていても、正規と非正規の間は分断されている。ここには序列ではなく「格差」がある。日本人は共同体の一員として序列による不平等は受け入れるが、共同体から追い出されて、格差による絶対的な不平等の壁の外で戸惑う者が増えてきた。それが少子化の一因にもなっている。共同体は収縮している

 企業も教育機関も日本の国家全体が苦しんでいるのは、結局、グローバリズムという強烈な外圧に晒されたことが大きい。共同体は常に外圧と戦わねばならない。明治以来、近代日本の歴史は外圧との戦いそのものだ。日本だけでなく、非西欧諸国にとっての近代は、外圧とどう戦い、どう適応するか、という困難な課題を押し付けられて来た。近代の西欧勢力からの圧力は、テクノロジーとセットで襲って来た。技術力は圧倒的な経済力・軍事力と結びついているから、共同体が生き残るためには無視できるものではない。歴史を見れば、政治や社会の体制が大きく変化するとき、その少し前に新しいテクノロジーの勃興があり、富の配分に変化が起こっている。経済と共同体が両立できなくなって来るのだ。現代の情報革命は、金融と人の移動をセットに加えた。共同体の価値観と相容れないものであっても、なんとか折り合いをつけなければ根こそぎ共同体が潰されてしまうほどの力がある。自国の優良企業も、儲かると見ればTOBや敵対的買収が仕掛けられ、企業という共同体の価値観は蹂躙される。彼らは高等教育を受けた集団である。特に、情報産業には高度な専門知識が必要になる。中間層を形成していたホワイトカラーはDXによって不要になり、対抗するためには、自分たちも高度な知識を身に付けなければならないが、全員に高等教育を受けられる能力があるわけではない。少数の能力の高い者が優遇され、共同体(国家)の内部に分断ができる脱落した者の競争相手は、途上国の安い労働力や移民である

 移民の数が増えれば民主制を壊す。ある土地に住み続ける人々には共通の祖先や歴史がある。同じ言葉を話すから「議論」ができる。みんなで議論ができる共同体だから、民主制も可能である。外部から来た者は言葉が通じない。土地の歴史を知らない。共通の基盤がないから議論ができない。議論ができないと仲間になれない。人数が少なければ彼らが生きていくために同化しようと努めるが、外部から群れになって来た者は自分たちの群れの中で生きなくてはならないから彼らの常識を優先し、その結果、その土地の文化を破壊することがある。人の移動は「頭脳」や「資格保持者」の移動から、労働者、移民、難民までの各階層で起こっている。無制限な資金と人の移動は共同体内部の文化と民主制を破壊するグローバル経済はあらゆる角度から共同体を攻撃して、企業(株式会社)も中央銀行も国民国家も機能不全に陥らせた

 外資も移民も限界を超えると共同体を壊す。共同体内部の価値観は、多くの場合外圧によって否定され、外圧は普遍性という価値観を押し付けて来る。それは共同体内部の不平等となって現れる。共同体内部の平等性を保障するには、外部に対してある程度は排他的にならざるを得ない。それは「排外」でも「拒絶」でも「差別」でもない。普遍性をすべて受け入れていたら、自分たちの共同体を守れないからだ。民主制は、普遍的ではありえないのだ。多くの人たちが既にそのことに気づいている。但し、グローバリズムの否定は、経済を直撃するだろう。どうにかしたいと思いながら、巨大な経済パワーに翻弄されて、共同体が崩れる方向に進んでいるのを止められない。私たちは、そんな時代を生きている。

 共同体を維持したければ、国民の一人ひとりが賢くなるために自己を鍛えるしかない。それは、学歴でも資格でもない。学歴や資格はその時代の支配層にとって都合のいいように与えられるもので、社会体制が崩れたら通用しない。必要なのは、生き抜くための読解力と表現力と身体能力で、初等中等教育の「全人格的」な教育が見直されてもいい。若手研究者を救うことも大切だ。学歴のためではない本物の「知」を育てることが、回り道のようでいて、最も確かな共同体再生の道ではないだろうか。

 


《編集部より》

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