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【仁平千香子】個人主義を問う―誹謗中傷大国の哀れな行く末

仁平千香子

仁平千香子

言葉は人を生かしも殺しもする。日本人は昔から言霊といって言葉の力を畏れ、不要な発言を慎む人種であった、だから今でも国際会議で日本人は主張が弱い、そんな話を耳にすることがある。しかし言霊信仰のある国であったことを疑うほど今の日本は攻撃的な言葉で溢れている。芸能人がSNS上に投稿される誹謗中傷を苦に命を絶つというニュース、日本の文化産業を支えてきたアイドルグループ会社の疑惑が黙殺から公開断罪に変わった瞬間に態度を急変させるマスコミ、そしてそれに同調する匿名の投稿者たち。言葉が鋭利な刃物となれば人の命も奪い、常識も転覆させ、昨日までの英雄を罪人にすることができる。東京五輪時に組織委員長を辞任に追い込んだのも、メディアによる意図的な言葉の切り取りであった。言葉は発した本人の意志に関係なく、受け取り側が自由に意味を操作し、望めば「キャンセル」し、大衆を追放運動や不買運動に誘導することもできる。言葉の切り取り合戦が日常となれば、発言することすら恐ろしくなる。言いたいことがあっても発言して面倒に巻き込まれるのならば、貝のように黙っていたほうが安全だ。最近の日本人は言霊を信じて発言を慎むのではなく、安全を好んで無関心を装っているのかもしれない。

といっても意見を匿名(本名を使用しない)で発信できるという空間であれば、彼らに遠慮はない。窪田順生氏の記事「誹謗中傷大国ニッポン」(ダイアモンド・オンライン)によると、日本人のTwitter(「X」)の利用時間は世界一で、米国ユーザーの3倍だそうだ。ユーザー名に匿名を使用する割合も世界一で、日本75.1%、米国35.7%、仏国45%、韓国31.5%というデータが報告されている。匿名利用が少ない国は誹謗中傷が少ない、ということにはならないだろうが、匿名であれば攻撃的な発言でも躊躇なくできることは容易に想像できる。自らの発言に責任を持つ必要もなく、発言が他者の意図で切り取られて、現実社会における社会的信用を失わされたりすることもない。匿名利用のユーザーがその狡猾さを自覚していないとは思えないが、リスクを極端に嫌う日本人の特徴がネット空間にも現れていることを示唆する一面であろう。

現代はこれまでになかったほど人が繋がりやすくなったが、これまでになかったほど孤独な時代でもある。ネット空間では距離を越えて関心を共有する者同士が繋がり、情報伝達も瞬時に可能だ。部屋に引きこもっていても遠くの誰かと連絡がとれるが、それが匿名同士の付き合いであれば信頼関係は薄く、アカウントを削除したり相手をブロックしたりすれば、関係を終わらせることもできる。相手のある発言が気に入らないとして、グループ内で公開断罪し、徹底的に追い込むこともできる。メディアの報道のように、一夜にして友が敵になる。学校のいじめもライングループなどネット空間で行われる現在、その閉鎖性ゆえに教師側の監視が届かず発見が遅れることが多い。現代の繋がりやすさはその壊れやすさと一体で、対面による関係構築をおろそかにしていかに人間は孤独に近づくかを如実に証明している

現代人の孤立傾向は、パンデミック騒動を通して加速した。人が対面で会うことが危険な行為と同一視され、それまでの社会的活動を継続しようとすれば「利己的」と見做された。あらゆる日常ができる限り自宅で行えるよう職場も教育現場も行政も新しいシステムを導入した。対面がやむを得ない場合は、顔をマスクで半分以上隠すことによって、安全性を高めた(ことにした)。鼻と口を隠した顔が実物の印象を大きく変えることは、ここ数年でだれもが実感したことだろう。対面によるコミュニケーションにおいても匿名性が高められたのだ。

他人と過ごす時間を極端に遮断する環境が人間にどのような影響を与えるかは、精神を患う人が急増した事実からも明らかであったが、そちらの病は感染症の病より軽視される傾向があるのもここ数年続く傾向である。

人々が孤立を高める社会とは個人主義社会の特徴である。個人主義とは個を集団から切り離すことで、どこにも属さない「自由で」「固有の私」を発見することに価値を置く見方を指す。人間とはそもそもどこかに帰属することによって自分が何者かに気づいていく生き物であるが、帰属自体を否定して根無し草になれば、独自の判断に頼って生きていくしかなくなる。基準のない環境で自らの判断に自信を持てる人間は多くはない。自信を持つには、持つに至るまでに内省的に思想を積み上げる経験が必要であり、思想とは概ね人間関係を通した感情の経験や気づきから深めていくものであるからだ。

個人主義とは民主主義によって加速する思想であるが、本誌で伊藤貫氏によって紹介された「トクヴィルの民主主義批判」(2023年5-7月号)を参考にさせていただくと、19世紀を生きたフランスの思想家アレクシ・ド・トクヴィルが民主主義体制に対して抱いた懸念には、人々が熟考能力を失い、無気力・無関心となり、利己的な損得勘定主義者となることが含まれていた。平等社会の権利としてだれもが地位、名声、権力を求められる社会は、人々を競争に駆り立てる。競争に時間がとられれば熟考する時間などなく、熟考という行為自体の価値を見下すようになる。熟考しなければ、人々はもっともらしく、短時間で成果の出るような、自分に都合のよい意見に飛びつきやすくなり、包括的に社会を眺め分析したり、長期的な視野で人生や未来を建設的に想像したりするということもない。つまりせっかちで、うすっぺらい人間たちで社会が溢れることをトクヴィルは190年近く前に予想し、それは的中した。

さらにトクヴィルの予想通り、考える力のない、考える力に価値を見出さない大衆は、その幼稚化した判断力ゆえに、多数派の意見を正しいと信じ同調する。それはひとりが吊し上げられるやいなや嬉々として賛同する現代のネット住人たちを思い出させる。多数派に支持されることを理由に真理とされる主張は、慎重に議論を重ねて練り上げた意見や、時間をかけた考察をもとに築き上げた仮説とは程遠い。思考しない人間は支配者にとっては好都合である。それらしく彼らにとって都合のよい政策でも掲げておけば、長期的に見れば退廃につながるような政策でもそこまで思考を巡らせることもない。今この瞬間の利益を優先する彼らには、国の未来や孫世代の幸福になど関心はない、またはそこまでの想像力もない。

井上ひさしの作品に『腹鼓記』という長編小説がある。狸の恩返しともいえる内容で、主人公の狸はある時、人間に捕らえられ狸汁にされかけたところを、不憫に思った客の男によって助けられ、その恩返しのために人間に化けて男の商売を手伝いにくるという話である。狸がいれば狐がいるのは自然なことで、支配する土地を巡って狸の一族と狐の一族は互いに競い合っている。領地に狸と狐が住み着いていると知った人間の殿様は、ある日双方に化かし合い合戦を命じ、優劣の判定は自らがすると高札を立たせた。狸と狐の化かし方にはそれぞれ特徴があり、狸は道徳から逸れずとんちを効かせた芸をするが、狐といえば下品な芸にも躊躇いがない。狐との合戦に苦戦する狸は、こうつぶやく。

人間という生きものは、高貴なところと卑劣で卑猥なところとが渾然と混り合った矛盾の魂なのですね。われわれ狸は、人間を信じておりますし、また敬ってもいますから、同じ化かすにしても、彼らの高貴な部分に働きかけることで化かそうとします。あるいは、高貴さを忘れた人間を化かして目覚めさせ彼に自分の内部に眠っていた高貴さを思い出させてやろうとします。だが、狐のやり方はそうではない。狐たちは人間の卑劣卑猥な部分に働きかけることでせっせと点数を稼いでおります。しかも悲しいことに、人間は狐に化かされるほうを喜ぶもののようです。卑劣卑猥なところを擽(くすぐ)られて嬉しがっているわけですね。人間は自分たちの心の中で眠っているあの高貴な魂を忘れてしまっているのでしょうか

高貴な部分に働きかける芸より、卑劣卑猥な部分に働きかける芸の方を好む人間というのは、匿名という安全地帯で他人の不幸に興奮する日本人の姿だろう。作品が書かれたのは1985年。経済至上主義を邁進し、競争社会を激化させ、少しでも短期間で成果の出る経済活動を優先して人間の活動の基準が作られていた時代、人々は生き方について熟考する時間などに価値を見出さなかったのだろう。80年代といえば不登校児童が激増した時代であり、行き過ぎた競争主義に対する反省を社会が求められる時代であった。そんな高貴な生を忘れた日本人を、それでも止まずに敬い内部に眠る高貴さを思い出させようとする狸の慈悲深さには、情けなさと悔しさが込み上げる。

狸たちの鋭い人間分析は、加速する個人主義にも及ぶ。

生物というものは進化すればするほど、いわゆる高級な生きものになればなるほど、個というものを重んじるようになる。逆に言えば、個というものを発見した生物が高級なわけです。そうして個を重んじれば重んじるほど、種族のことを考えなくなる。個が大事ということになれば、利他性だの協同性だのは厄介ものになるばかりです。人間はひょっとしたら個を発見しすぎた哀れな生物なのかもしれません。個人個人の個にしがみつくあまり種そのものが滅びようと構わないというふうに考え方が逆立ちをはじめていますね。

個人のことしか考えない種族は滅びに最も近い。悲しいのは、人間は個を重んじることが高級な生きものの在り方と捉え、他者や共同体への愛着を捨て、自分の生存にしか関心を持てなくなってしまったこと、結果「哀れな生物」と化してしまったことである。狸たちの分析は正しい。孤独という「自由」の価値を信じ(もちろんそれは真の自由ではない)、束の間の関係がゆるすぬるま湯の心地よさに甘んじる日本人は、ひとつひとつの人間関係に心を込めることを忘れてしまった。安価なプラスチック製品のように、他者との関わりすら使い捨て可能な代物と捉えているのかもしれない。狸が懸念するように、それは滅びへの道である。

言葉が人間以外の生き物に与えられなかったということは、人間は言葉を通してこそ他者との関係構築を求められる生き物であると理解して差し支えないだろう。新約聖書には「初めに、ことばがあった」と書かれている。神のことばが世界を作ったのだと。言葉の創造的な力が天地創造の原動力であったのだ。それが本来の言葉の役割であるならば、傷つけ合い破壊に向かう手段として言葉が利用される状況は、この世界の存在条件に反することになる。いわば不自然な在り方と言えるだろう。

民主主義、個人主義、競争社会、ネット上のコミュニケーション、これらをすぐに一層することは難しく、それこそ暴力的な革命を誘発してしまう。「個を発見しすぎた」ことが問題であれば、過度な歩みを調整することで改善の余地はあるのかもしれない。さらに血も流れずお金もかからずできること、それは一つ一つの言葉に、行動に、人間関係に心を込める「面倒」の価値を知ることである。そこに人間としての高貴さを思い出すきっかけがあるだろう。

(仁平千香子)


《編集部より》

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