不登校児の数が過去にないほど急増している。全国で30万人ほどと言われ、学校によっては全校生徒の1割が不登校というところもある。不登校児の数には、病気や経済的な理由による欠席が含まれないため、実際の数は公表されている数を大きく上回る可能性が高い。令和2年に文科省が行った調査によれば、小中学校における長期欠席者の不登校の理由の第一位は「無気力·不安」(46.9%)で、第二位の「生活リズムの乱れ、あそび、非行」(12%)を大きく切り離す。
不登校児たちを学校に戻したいのであれば、「無気力・不安」の傾向を子どもたちに克服してもらうしかないだろう。しかし現在の子どもたちが無気力や不安に陥る理由を学校や教育関係機関が十分把握しているかというと疑問である。インターネットで「不登校・無気力・原因」と検索すれば、教育機関や子ども支援センターなどが運営するウェブサイトが多数ヒットし、そこには無気力型の子どもたちの特徴として自己肯定感の低さや自信のなさが挙げられ、対処法として「彼らに強い言葉をかけない」、「子どもの自己肯定感を育てる努力をする」、「心と体を十分に休ませる」、「カウンセリングを利用してもらう」などが勧められている。ウェブサイトによっては子どもたちに「無気力症候群」などという病名を与え、治療を勧めるものもある。十分に原因を深掘りしないまま解決策を提示する性急な日本人の傾向が不登校問題にも現れているが、自己肯定感の低さや自信のなさが無気力の原因なのであれば、どうしてこれほど多くの子どもたちが自己肯定感も自信も持てずに育っているのかを追求する必要があるだろう。
自己肯定感や自信を持てない子どもたちに、持ってもらえるような肯定的な言葉をかけるよう助言するウェブサイトも多く見かけたが、そもそも自己肯定感や自信は誰かに高めてもらうものではなく、自ら養い育てていくものである。不登校問題を扱うにあたり、問題は学校に行かない子ども側にあるのか、子どもが行きたい場所を提供できない学校側にあるのかははっきりせず積極的な議論を期待するところである。しかし無気力に生きる子どもたちが決して幸福でないことは明らかであり、この問題は早急に対策が必要である。
無気力な子どもたちが増えている理由として、そこには基準の欠如が原因の一つとして挙げられるだろう。なぜ生きるのか、どう生きるべきかの堅固な軸を持たなければ、またはその軸を提供する頼り甲斐のある社会と大人たちがいなければ、子どもたちは人生に目標を持てず、いつも不安である。加えて、自虐的な言葉で溢れた自国の歴史を教えられれば日本人として生まれたことすら恨めしくなる。
そして国語力の低下もまた無気力を促す原因である。国語力とは言葉の力を指す。人は生きものの中でも唯一言葉を使いこなし、ゆえに言葉を通した他者との関係構築を求められる存在である。関係構築のためには相手への気遣いが不可欠であるが、相手の心を想像し感情を読み取るにはその材料として語彙が必要である。語彙があって初めて人は想像できるのであって、語彙が少なければ想像する力も弱い。思考も同様である。より深い思考には多くの語彙が必要になり、語彙を増やさずして複雑な物事を頭で理解し処理することはできない。何か問題に巻き込まれたり不愉快な出来事が起こったりしても、それがどうして起きたのか、どう対処すればいいのか、または他人に同じことが起きた時どのようなアドバイスができるのか、などについて考えることができない。つまり国語力は生きる力を支える土台として人間に不可欠な力と言える。
しかし学校の「国語」科目で高得点を取れるからといって国語力があるとも言えない。学校の成績は概ね試験の点数によって決められ、その試験の多くは授業で教えられたことを正確に暗記しているかを問うものである。他者の気持ちを推し量る力や物事の複雑さを理解し自分の生活を顧みる力などは試験で問えるものではなく、エリート大学の入学試験でも求められることはない。他人の心を慮ろうとする意識や道徳心がなくても政治家にも医者にも弁護士にも人気Youtuberにもなれる時代である。小学校から始まる学校教育が大学入学をゴールに設定している限り、つまり情報の暗記力を知能の基準とする限り、生命力を支える国語力は育たない。
『ルポ 誰が国語力を殺すのか』(文藝春秋2022)で、作者の石井光太氏は日本中の小中学校と高校を周り、子どもたちの国語力が低下する現状を詳らかにしている。石井氏が見学したある小学校の国語の授業では、四年生のクラスで新美南吉の『ごんぎつね』が取り上げられていた。狐のごんは、いつも村人にいたずらをして楽しんでいる。ある時いつものように村人が獲った魚を逃して喜ぶが、数日後にその男の家で母親の葬儀が行われていることを知る。自分が逃した魚を食べられなかった病気の母親が亡くなったと知ると、ごんは罪滅ぼしのために毎日こっそり栗や松茸を届け始める。葬儀の準備で女たちが鍋で煮炊きをしている場面を教員が取り上げ、班に分けて話し合わせたとき、子どもたちの発言に石井氏は耳を疑った。八班のうち五班が「鍋で死体を煮ている」と答えたのだ。彼らはみな真剣でふざけている様子はなかったという。そして石井氏が全国の学校を周りながら同様の光景に出くわすのは一度だけではなかった。
葬儀が自宅で行われなくなった現代において、葬儀で女たちが料理をする理由を想像するのは難しいのかもしれないが、だからといって子どもたちが躊躇いもなく死体を鍋で煮る場面を思いつくという状況には危機感を覚える。読解力や想像力の低さを問う前に、彼らが普段触れている情報や物語がどのような質のものなのかを問う必要があるだろう。
いずれにせよ、葬儀で人々が故人の死を悲しむ様子を想像する前に、死体の処理方法を考えてしまう子どもたちには、明らかに想像力が欠けており、それを支える語彙力が欠けている。語彙の足りない子どもたちは、戦争について学んでも渦中にいる人々の苦しみを汲み取ることができず、クラスメイトに「死ね」と言ってはいけないと話しても「なぜ?」と聞き返してしまうと、石井氏は言う。その原因の一つには、情報社会の加速化があるという。彼らは情報の取捨選択能力には長けるが、一つの物事にじっくりと向き合って深く考え想像し自分の考えを形にするという建設的な作業ができず、またその力を磨く機会も与えられていない。
学校ではゆとり教育への反省から、授業時間を伸ばし、国際化やデジタル化に遅れないようにと英語やプログラミングやキャリア教育など新しいカリキュラムが追加されている。多くの子どもにとっては、一つ一つの授業内容を身に落とし込むことができないまま、次から次へと情報を詰め込まれる。試験前だけは暗記できても、そこで得た学びを人生にどう活かすかまで想像し思考する余裕などない。しかし人は目の前の問いに時間をかけて向き合い、想像し思考を巡らす作業を通して言葉を探しにいく。まず自分の目で観察し、自分の頭で考え、自分の心で感じよう、という主体性が言葉を増やしていく作業に不可欠であるが、試験で正解を答えるという訓練に慣れてしまうと、主体的に意見を持つ必要性がわからなくなる。結果、成績は良くてもクラスメイトに「死ね」と言ってはいけない理由すら思いつけない子どもが育つ。さらには、動画や映像作品に触れる機会が拡大し、小学生でも24時間暴力的な映像や年齢不相応の映像にアクセスすることも可能になった。インターネットが利用できる空間であれば手持ちのディバイスで視聴可能なため、両親も学校側も子どもたちがどのような映像に触れているのか把握しきれない。誹謗中傷で溢れるSNSや不特定多数の他人と繋がってプレイするゲームにまでアクセスが可能と考えると、子どもたちが日頃晒されている情報の量は大人たちの想像を超える。基準の欠落した世の中で、浴びせられる情報の良し悪しを適切に判断する能力が彼らに十分に備わっているはずもない。映画やゲームで死体を何度も見たことはあっても、命の尊さについてじっくり考える機会が日頃与えられていなければ、人の死は「死体」への変化でしかなく、戦争のニュースを聞いても戦争映画や戦闘ゲームと同じくらい他人事でしかなくなる。
想像力の欠如が深刻なのは、それが自己肯定感の低さの原因となり、自虐的な行動に導きやすいからである。三重苦を抱えながらハーバード大学(当時のラドクリフ·カレッジ)に入学し盲ろう者として初めて学位を取得したヘレン·ケラーは、家庭教師のサリバン先生を通して文字を知るまで暴力的な癇癪持ちだった。幼い頃は身振りでなんとか気持ちを伝えようとするも、それが叶わないと怒りを爆発させて大暴れし、その度くたくたになるまで泣き続けたという。サリバン先生を通して指文字という方法で文字を覚え、言葉を覚えたヘレンは読書に没頭するようになり、複数の外国語まで習得する。言葉の獲得が彼女の暴れやすい傾向を改善させ、人生を自ら切り開いていく手段を与え、生きる喜びを与えたのだった。
言葉の力の欠如が本人の暴力性を高めるという傾向は、現代の子どもたちにも表れている。石井氏は教員への聞き取りを通して、教室内で子どもたちは同レベルの国語力を持つ子どもとグループを作りやすいと知る。言葉を豊富に持つ子どもたちのグループは豊富な語彙で複雑な内容についても議論ができ、またトラブルに巻き込まれた際はまず言葉を通しての解決を試みる。一方で言葉を多く持たない子どもたちは普段から粗雑で乱暴な言葉でのやりとりが多く、問題を抱えた時、なぜそうなったかを言葉を通して考えることをせず、感情に訴え暴力に走りやすいという。引っ込み思案な子どもの場合は、暴力を自分に向けリストカットする場合もある。
言葉の力なしに子どもたちは自らを支える力を養うことはできず、その無力さは他人か自分への暴力と化す。ゆとり教育への反省が、子どもたちの頭を飽和状態にし、じっくり物事を考え言葉を増やす機会を与えられていないのであれば、改善は必須である。といっても問題は複雑だ。母語が「母の語」と綴られる通り、子どもの言語力は母親や家庭内の大人との充実した時間と切り離せない。しかし現代では外国籍で日本語が十分に話せない母親を持つ子どもや、ヤングケアラー、貧困や母子家庭により働き詰めの母親を持つ子ども、または薬物中毒や精神疾患を持つ親の子どもなど、複雑な家庭環境ゆえに母親や父親との十分な意思疎通の機会を奪われた子どもたちも増えている。そこにネット空間から溢れる情報のシャワーに晒される日常が加わる。子どもたちの国語力を阻害する要因が現代にはあまりに多い。
課題は山積みだが、まずは問題の根を把握することから始める必要がある。言葉を持てば人は強くなり、持たなければ人は弱くなる。国語力(語彙力=想像力、思考力)が子どもたちに主体的に生きる手段を与えるのであって、情報の暗記力を知能と見做す教育では、真に人間力のある子どもは育てられない。主体性を持てば自己肯定感は自ずと養われ、無気力に陥ることもない。不登校という道を選択したとしても、学校に行かずにどう人生を豊かにしていきたいのかについて意欲的に考えようとする。
明治時代に同志社英学校を創設した新島襄は、近代化を目指す日本が教育を実学中心に切り替え、道徳教育を軽視するようになった現状を鋭く批判し、「新しい近代の知識はよく切れるナイフと同じである。徳育をともなわなければ人も己れも傷つけてしまう」と言った。封建身分制社会が終わり、庶民でも「立身出世」が叶うと謳われた時代、教育には競争の原理が導入され、人格を育てる教育からエリートを育てる教育に移行した。教育が競争を軸とすれば、試験で他に勝つために必要な知識の量が価値を持つ。近代教育の型は現代にまで受け継がれ、新島が予想した未来は現実となった。競争を軸とした教育は、子どもたちを「育てる」どころか、「ナイフ」に変えて他人や自分を傷つけている。血を流さずとも、無気力に陥ることで人生を放棄し、自分という存在の価値を否定している。
不登校児の急増は、子どもたちが発信する大人へのメッセージである。子どもたちの悲鳴である。何かが間違っているという問題提起である。いいかげん気づいてくれという懇願である。不登校児が増えることを問題と捉える前に、彼らの抵抗が示唆する社会の歪みに向き合うほうが賢明であろう。近代以降の反省から始めると途方もない作業に思えるが、言葉を与えられた人間という生きものは、言葉を豊かにすることで幸福を目指す生きものなのだと理解するところから始めればいいのではないだろうか。コミュニケーション·ツールが進化し続ける時代、より一層私たちは言葉の力を意識することを求められている。
〈編集部より〉
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コメント
>無気力な子どもたちが増えている理由として、そこには基準の欠如が原因の一つとして挙げられるだろう。なぜ生きるのか、どう生きるべきかの堅固な軸を持たなければ、またはその軸を提供する頼り甲斐のある社会と大人たちがいなければ、子どもたちは人生に目標を持てず、いつも不安である。加えて、自虐的な言葉で溢れた自国の歴史を教えられれば日本人として生まれたことすら恨めしくなる。
>読解力や想像力の低さを問う前に、彼らが普段触れている情報や物語がどのような質のものなのかを問う必要があるだろう。
>基準の欠落した世の中で、浴びせられる情報の良し悪しを適切に判断する能力が彼らに十分に備わっているはずもない。
なるほど、まったくそうだよなぁ…と。
こうした問題提起からして、生活する中でただなんとなく感じていることについて、正確に言語化していただけるのは、浅ハカな私にも理解が大いに深まるところです。
ありがとうございます。
仁平先生の論考、いつもさまざまに啓発され、楽しみに拝読しております。
引き続きのご活躍をお祈りいたします。
ご感想、大変励みになります。どうもありがとうございます!