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【仁平千香子】「名誉」という生き方を忘れた日本人:個人の幸福を目指して人が幸福にならないわけ

仁平千香子

仁平千香子

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 「最後に勝つものは道義であり、誠であり、真心である。立身出世などどうでもいい」

 

 シベリアに抑留された日本人捕虜たちを描いた映画『ラーゲリより愛を込めて』(2022)で、収容所で癌を患った山本幡男(実在の人物)が子供たちに残した遺書の中の言葉である。ソ連に侵攻された満州で妻と子供と別れてから九年、山本は収容所で命を落とし、その二年後にようやく帰国の叶った日本軍捕虜たちによって遺書は届けられた。成長した我が子を想い託したメッセージが道義の大切さであったことは印象的だ。現代の日本で、立身出世より道義の大切さを子供に語れる大人がどれほどいるだろうか

 同様に、教育における道義の重要性を強調した先人に山本幡男の同世代の岡潔がいる。岡は戦後教育が個人の幸福、つまり「動物性の満足」ばかりを強調し、道義を教えなくなったことに危機感を覚え、繰り返し道義教育の重要性を訴えた人物だった。道義とは他人を思いやる利他の感情、特に他人の悲しみがわかるということを指し、それが「人たるゆえん」であると岡は言う。この道義が日本社会を支えてきた。人々が法律的な責任より道義的な責任を持つことで、近代以降の度重なる戦争から進駐軍の占領までの激動の時代にも日本の社会秩序は保たれてきたという。それが戦後では、道義より立身出世や個人の幸福が教育の第一目標になった。

 岡が道義同様、教育に必要なものとして挙げるのが日本的情緒の感覚である。日本人は少しも打算を伴わない行為を善行と呼び、橘媛命(たちばなひめのみこと)や楠木正行らの潔い散り去り方に美しさを見てきた。さらにはその歴史の宝をともになつかしむことで日本人同士の心のつながりを維持してきたという。

 岡は、この日本的「善行」は「大自然の純粋直感」を働かせることになり「これは決して誤ることがない」「真智」であるという(『春宵十話』)。この真智という光が刺さなければ己の存在感や肯定感はあやふやになり、こころなど目に見えないものの存在を否定する物質主義になる。この真智につく「垢」の一つが邪智といって、大衆の特徴であるという。それはものの欠点にばかり注目し、不公平を拒否し、こらえ性がなく、悪いのは自分ではなく他人だと思い込む。独自の見解が持てないため心細く、オウムのように他者に追随する。まさに現代の日本人である。直感への信頼を忘れ、物質主義的幸福を追求してきた民族の成果である。

 情緒という直感を岡は次のように説明する。すみれの花を見て、「あれはすみれの花だ」「むらさき色だ」と見るのは理性的な見方なのに対し、情緒は「すみれの花はいいなあ」と見る(『風蘭』)。日本人は直感を信頼する民族であり、己の感じる「いいなあ」に素直であった。直感は科学的根拠や客観的事実といった価値判断とは相反する。独自の価値判断というよりは、大いなる存在を通して降ろされた感覚と言ったほうが近いだろう。歴史上の偉人と呼ばれる人たちはこの直感に頼って行動した人が多いという印象がある。吉田松陰にしろ坂本龍馬にしろ、それまで学んだ兵学では黒船に太刀打ちできないと直感的に悟り行動に出た。科学的根拠や自我の欲求に縛られてはあれほど大胆な行動に出ることはできなかっただろう。同時にあれほど多くの周囲の人間たちを突き動かすこともなかっただろう。

 しかし現代は感情や本能を抑止することを教えないため情緒が出てこないと岡は言う。現代は直感の価値を軽視する時代となった。科学的根拠が重要性を増せば、己の幸福を目指せと促されたところで、幸福自体の定義に科学的根拠を探ってしまう。こんな生き方が「いいなあ」という直感ではなく、差し出される雛形に己を嵌め込んでいくことが人生の目的となる。こうして直感への信頼は非科学的で非文明的行為と見做されていった

 それでも直感に正直に生きる他者を見て「いいなあ」という直感を働かせてしまう現代人は少なくないだろう。「道義に生きろ、立身出世などどうでもいい」と確信できた先人の潔さにはっとさせられるのは、直感を通して真実を探した人間の生き方への憧れゆえではないか。「情緒中心の調和が損なわれると人の心は腐敗する」と岡が言うように、情緒という日本人を支え続けた精神の土台を失うことで、あらゆる病が日本社会に蔓延るようになったのだろう。

 

 もう一つ直感が導くものといえば名誉という価値観である。現代では名誉と言えば「地位と名誉」などと並べて使われ、他人からの評価と結びつく概念、または輝かしい才能や行動の結果を賞賛されることで感じる高揚感など、卑しい欲求感情に付随するものという印象すらある。しかしサミュエル・ジョンソンが18世紀に定義したように、「nobility of soul(魂の高潔さ)、magnanimity(度量の大きさ)、a scorn of meanness(卑しさへの軽蔑)」が本来の名誉の意味するところであった。高貴な生き方に欠かせない価値観として、名誉は日本だけでなく西洋でも重要な言動の指針であったことは古典文学を読めば明らかだ。しかし資本主義と物質主義によって支配された今の地球上で、経済的生産性に結びつかない名誉という伝統的価値を保持し続けている民族がどれほどいるだろうか。

 以下では石井希尚氏が史実に基づいて書き上げた歴史小説『逢瀬』(2019)を取り上げ、ある幕末の遊女の生き様を追いながら日本にもかつて深く根付いていた名誉という生き方に触れてみたい。

 舞台は開国から間もない江戸。尊皇攘夷派の町医者である箕作周庵の下には毎晩のように攘夷に燃える浪士たちが集まっていた。その娘である十七歳の喜佐は町内で噂になる程の美人であった。攘夷派の動きが活発になり、幕府の諸外国からの信用も傾きかけると、浪士たちの拠点として周庵宅にも取り調べが入り、周庵は医業を禁止され江戸払いの沙汰を受ける。その後品川に移り住むも収入の道を失った父娘は極貧生活を強いられ、ついに喜佐は遊女としての人生を選ぶ。

 当時幕府は、横浜に外国人居住地を築くことで横浜に外国人を封じ込め、爆発寸前の攘夷派をできるだけ刺激しないよう画策していた。しかし過疎地であった横浜に押し込められると知った諸外国は異議を唱え、それは外交問題に発展しようとしていた。そこで幕府は横浜に吉原に匹敵する遊郭を建設し、遊女外交を始めることになる。喜佐は、横浜に新設される遊郭の経営を幕府より命じられた佐吉によって拾われた。といっても、外国人の客は一切取らない日本人館での仕事を約束されていた。

 喜遊という源氏名をもらった喜佐は、その美しさから早々に花魁として遇され、信用ある客のみ与えられるという破格の扱いを受けた。しかしラッセル商会のアメリカ武器商人であるアビエル・アボット・ローが喜遊の客である豪商中居屋重兵衛に圧力をかけ、日本人館での宴を見学させるよう強いたため、喜遊はアボットに姿を晒すことになる。喜遊を気に入ったアボットは喜遊を買いたいと執拗に要求するようになり、それが叶わないと知ると幕府に対する武器供給を拒否すると言い出す。権力を失いつつある幕府にとって武器の調達は死活問題であり、結局幕府から喜遊をアボットに差し出すよう命令が下る。異人に身を捧げることを決して許さなかった喜遊は自害の道を選ぶ。

 喜遊の死に様は見るものを絶句させた。

 

まるで気高い武家の女であるかのように、喉頸に短刀を突き刺し、身体を微塵も崩さず死んでいたのだ。

それは、名誉を重んじ、誇りを守ることを選ぶ女の「自決」の作法だった。

およそ、人生を悲観した遊女の自殺には似つかわしくない。

血染めの座敷に遺されていたその手跡は、死ぬこと以外に名誉を守る道がないと悟った喜遊が、強いられた運命を悲観するのではなく、むしろ内に秘めた気高い誇りをあらわす機会として「美しく死ぬ」ことを選んだ決然とした意思を伝えていた。

 

そこには辞世の句も遺されていた。「露をだに 厭うやまとの女郎花(おみなえし) ふる亜米利加に 袖はぬらさじ」(露に濡れることさえ厭うやまとの女は、たとえ遊女であっても、アメリカ人の客となって身を汚すよりは死を選ぶ)。この句はあまりの美しさから長い間久坂玄瑞の偽作だと信じられていたと作者の「あとがき」に注釈されている。「散りゆく己は卑しい遊女ではなく、たとえ散っても、命に代えて守った誇りは、必ず人々の心に美しく乱れ咲くだろう」という喜遊の信念が込められた句であった。

 名誉を守る女は「運命を悲観するのではなく」「気高い誇りをあらわす機会」として死を選ぶ。そしてその死に様の美しさは見る者から言葉を奪う(岡の文脈で言えば、「いいなあ」という直感を働かせてしまう)。「命に代えて守った誇り」が遊女という身分の卑しさを凌駕するほど「人々の心に美しく乱れ咲く」からである。

 名誉を守る者は、命が身体の寿命で終わらないことを知っている。死に様は生き様を表し、それが魂に刻まれて、後世の者たちの心の中で生き続けることを知っている。喜遊は廓の中で身体的自由を奪われてもなお、魂のあり方は誰にも制限できないことを知っていたのだろう。また自分の命が自分固有の所有物なのではなく、日本人という民族の魂を引き継ぐという崇高な責任を引き受けた一人として自覚していたのだろう。その命(魂)の重みを知っていたからこそ選んだ死だった。決して命を軽んじたのではない。日本人として恥ずかしくない痕跡を残すことが日本人として生まれた使命であることを知っていたのだろう。命を絶つのは一瞬だが、死生観(どう生きるか)は時代を超えて残る。命が個人の所有物だと唯物論的に捉えれば、名誉に価値などない。魂という永遠の存在を授かった責任を引き受けようとするから名誉が重要になるのだ。

 

 岡潔の著書に戻るが、著者は理性的な世界と宗教的な世界の違いについて触れ、前者は自他の対立する世界、後者は自他対立のない世界であると説明する。自他の対立は人生の悲しみやさびしさを引き起こし、対立がなければ自と他は同一になり悲しみは解消するという(『春宵十話』)。

 名誉が他人の評価によって与えられるものとして定着したのは、自他の対立する世界を象徴している。自他対立のない世界では、「私」の生き方が他者の生き方に影響を与えることが意識される。「私」の生き方は「私」のためだけに実行するのではなく、他者にも影響を与えると知っているから「私」をしっかり生きるのだ。名誉は自分のために得るものではなく、他への慈愛を実践するためのものであった。自分の人生は自分のために存在するという現代的利己心が悲しみやさびしさで人々を縛る。その悲しみやさびしさを現代人は物質社会で解決しようとするから、なお苦しみは深くなる。物欲を満たせば満たすほど、それは他者の評価を求めてしまう。他者はいつまでも競争相手であり、「私」は自分を評価し続ける他者という異物に怯え続ける。「私」は「私」の悲しみにばかりに意識が行き、他者の悲しみを理解しようという慈愛には向かわない。よって自他の対立は深まり続ける。

 そう考えれば、現代の生きにくさの原因の一つは名誉の形が変わったことにあるとも言えるだろう。個人の幸福が人生の目標になった時代に不幸な人間が増え続けるという矛盾は、このように論理的に説明できる。

 喜遊はかわいそうだったのだろうか。命が身体的寿命によるものと理解するものにとっては喜遊はかわいそうな遊女でしかないであろう。しかし命が魂として継続すると知るものにとっては偉人の一人に映るだろう。生き延びることを人生の軸とするか、どう生きるかを軸にするかによって、目に入る世界は姿を変える。幸福の捉え方もまた然りである。

 橘媛命(喜遊は最期、橘媛命と自分を重ねている)も特攻隊も、その行為によって死んだのではなく、その行為によって生き続けていると岡は言う。そう考えれば、唯物論的に命を捉え、死を絶対的不幸として生命至上主義に走る現代人は、人間というものについてあまりに無知である。そして歴史小説の役割は現代人の無知という罪を自覚させることにあるのだろう。

 

(いつも記事を読んでくださってありがとうございます。出産予定日が近づいてまいりましたので、しばらくお休みをいただきます。再開できる日を楽しみにしております。)

 

 


〈編集部より〉

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コメント

  1. 田尻潤子 より:

    山本幡男氏については、映画「ラーゲリより愛を込めて」も原作小説「収容所から来た遺書」も観ました/読みました。地獄のような収容所や作業場で、山本氏の存在は「闇を照らす光」のようだったと思います。そんな灯は早くに燃え尽きてしまう運命なのでしょうか(現代における「燃え尽き症候群」という言葉の「燃え尽き」の意味で言っているのではありません)。悲しいですが、今もなおこのような映画や小説を通じて彼の思いが多くの人にふれられていると考えれば、山本氏の早すぎる死には意味も意義もあったのだろうと信じます。彼の死を伝えられたとき「畳の上に倒れてのたうち回って悲しんだ」(長男・山本顕一さん談/Newsweekでの対談にて※これは映画では再現されませんでした)というモジミさんのお気持ちを考えるとつらいですけどね。

    「打算を伴わない行為」を美徳とするのは日本特有ではありません。ヒンドゥー教の経典の一つ「バガヴァッド・ギーター」には、「結果に執着せず、見返りを期待せず、あなたが成すべきことを成しなさい。自分の義務を果たしなさい。それが神への献身(バクティ)になるのです」と繰り返し書かれています。

    「幸福」について、自分はクリスチャンなのですが、こんなふうに考えます。知人のヒンドゥー教徒や友人の牧師たち、そして私自身もそうですが、「『わたし』の幸せ」を「先に」願うのはちょっと違う、といったところです。「神は私に何をお望みなのか、何をしてほしいのか」(クリスチャンはそれを「運命」ではなく「御心(みこころ)」と表現します)をまず考えます。日常の(シンクロニシティ的な)出来事で示されたり、直観的にわかったりすることもありますが、迷ったときはお祈りのときに神に問います。要するに自分ではなく神様優先です。そうすると、自分の幸せは(結果的に)「後からついてくる」のです。全くもって「非科学的」思考です。

    「死」については、イザヤ書57章1~2節にはこう書いてあります:「正しい者が滅びても、心にとめる人がなく、神を敬う人々が取り去られても、悟る者はない。正しい者は災の前に取り去られて、平安に入るからである。すべて正直に歩む者は、その床に休むことができる」。私はこの聖句が大好きですが、生きながらえている人が「正しくない」のではなく、生きている人はこの世でやらねばならないことが(まだ)あるから「生かされている」ということになります。この部分に関してはキリスト教に限った考えではなく、ヒンドゥー教徒も同じように考えます。日本人のあいだにこうした死生観があまり浸透していないのは残念ですね。

    最後になりますが、ご出産の無事をお祈りいたします。

    • 田尻潤子 より:

      訂正箇所がありました。3つめのパラグラフの「直観的」は「直感的」です

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