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【特集座談会】インフラ論で日本は「明るく」なる  白水靖郎×藤井聡×浜崎洋介(1)

藤井 聡

藤井 聡 (表現者クライテリオン編集長・京都大学大学院教授)

世界はそこにそのままの形で

あり続けるべきものではなく、

我々が手を入れ、変えられるべきものとして

そこにあり続けている──

というインフラ論の基本思想なくして、

我々の精神が躍動し、

日本が再生する事などあり得ない。

 

 

なぜ「インフラ」を語るべきなのか?

 

藤井▼本日は編集委員の浜崎さんと建設コンサルタントの中央復建コンサルタンツにお勤めで、京都大学経営管理大学院の客員教授を務める白水靖郎さんをお招きして、インフラについて思想と実践の双方を見据えながら多面的に議論していきたいと思います。

 日本は一九九七年からデフレになり、二〇一〇年頃には中国にGDPにおいて追い抜かれ、今や先進国と言うのもおこがましいような状況になっています。その凋落の原因としてしばしば指摘されるのが緊縮思想が導いた消費税増税によるデフレーションですが、それと同等、あるいはそれ以上に巨大な影響を持つのが「インフラの劣化」の問題です。

 インフラというと、橋とか道路、鉄道、ダム、堤防というイメージがありますが、まちづくり全体、あるいは国土のあり方も含めて全部インフラだと言うことができます。というよりむしろ、インフラ論というのは本来的には「国土づくり」そのものであって、古くは大国主命(おおくにぬしのみこと)による「くにづくり」にまで遡ることができます。道をつくり橋を架ける、堤をつくって河川を整える、等のいわゆる普請、現代で言う「土木事業」を通して私たちの土地を我々が住める「国土」に変え、例えば現代なら近代的な経済社会活動ができる「都市」をつくり上げていくことを企図したあらゆる議論がインフラ論です。ですから、普通に考えればインフラ論は政治における一番大事な仕事であるはずです。実際に、世界各国の首脳はインフラの重要性を事あるごとに説いているのですが、残念なことに日本の歴代首脳の口からインフラの重要性が熱く語られることはほとんど、というか今日に至っては「全く」ありません。

 しかし例えばマルクスの唯物論は、国土の有り様が我々の経済活動を決め、そして我々の言語や文化、宗教なども規定する、ということを「科学的」に論じようとしたものですが、マルクスに限らず多くの著名な古典派経済学者はインフラ論を見据えた経済学を論じてきました。

 そもそもインフラとは、社会の「下部構造」を意味する「インフラストラクチャー」の略称ですが、その上にあるのが文化や言語、宗教などの「スープラストラクチャー」(上部構造)であり、実践的な社会科学は社会の土台たる下部構造=インフラを無視することなど到底できないのです。何と言っても我々人類は有史以来、というよりも「動物」だった頃から巣作り、住処作りという形のインフラとスープラの循環を通して歴史を織りなしてきたのですから。

 だから僕は今の日本を立て直すためにはマクロ経済政策の転換が大事だとずっと言っていますが、そのマクロ経済政策も「スープラ」に属するわけですから、それを転換するためにもその大本にある「インフラ論」の立て直しが求められているのです。

 にもかかわらず、日本の保守論壇ではインフラ論が正面から語られることがほとんどありませんでした。あの福田恆存や小林秀雄、そして西部邁先生ですら、十分に論じてはいない。つまりインフラを語る人間が思想的な議論を展開する際の重要なプレーヤーとして含まれてきたかというと、少なくとも戦後日本においてほぼなかったように思います。福田や小林、西部邁に至る日本の保守思想の精髄のような方々でもそうである以上、いわゆる「ホシュ」論壇ではインフラ論に対する軽視、無視は恐るべき水準にあったと言えるでしょう。

 一方で左翼の側は、インフラ論を短絡的に談合だとか業者と政治家の癒着だとかと結びつけ、無駄な箱物だとずっと批判してきました。もちろんそういう問題は問題で論ずべきではありますが、だからといって、私たちの国、社会の有り様を決定づける下部構造である「国土づくり」の議論、インフラ論を全てゴミ箱に捨てていいはずなどない。にもかかわらず日本の思想界、言論界においてはあまりにもインフラ論を真摯に語る言説が少なかったと言わざるを得ません。これは本当に深刻な問題だと思います。

 本日はこうした思想的な側面も含めたインフラ論を様々に議論できればと思っています。

 

風土的条件を忘れた「滞在する」日本人

 

浜崎▼私自身、『表現者クライテリオン』に携わってから六年になりますが、その間ずっと、藤井先生の議論に接しつつ、本誌の執筆陣である大石久和先生の著書を読んだり、白水先生の講演を聞いたりと、インフラ論について触れる機会を持ってきました。その意味で言えば、おそらく、日本で、最もインフラ論に触れてきた文芸批評家ではないかと(笑)。

 そこから発言させていただければ、確かに、この国の保守思想家で「インフラ」を正面から論じた人間はほぼいないのですが、ただ同時に、保守思想家たちの近代批判や戦後批判と、インフラ論とは構造が似ているようにも思えます。例えば、小林秀雄、福田恆存、江藤淳、西部邁などの近代批判や戦後批判の核心には、自分たちの歴史的・文化的条件を忘却したインテリたちの軽薄な理念に対する批判があったと言っていいでしょう。

 実際、今の若い学生、あるいは、一般の日本人で、正確に「戦前史」を語れる人はほぼいません。でも、だからこそ彼らは、それをイメージで語ってしまうわけです。「大東亜戦争は、軍部の暴走による狂気の戦争だった!」みたいな(笑)。さらに「戦後史」についての無知は言うまでもありませんが、そうなると、高度経済成長以前と、高度経済成長期と、安定成長期と、さらに一九九七年以降のデフレ期をちゃんと区別して語れる人なんてまずいない。つまり、歴史が忘却されていて、自分を支えている下部構造が見えていないわけです。しかし、そんな人間に、正確な自己把握と、それに基づいた政治ができるわけがない。

 そして、それをそのまま空間論に置き直せば、同じことがインフラについても言えるのではないかと。つまり、私たちの生活の空間的条件を考えれば、必ず、国土論、風土論、インフラ論に突き当たるはずなんですが、この国のインテリのほとんどは、そのことについて振り返ろうとはしない。だから「公共事業」についても安易なイメージで批判してしまうのです。

 例えば、大石先生も指摘するように、「高速道路の建設費は、ヨーロッパに比べて高すぎる、無駄な公共事業ではないのか」といった批判がよくありますが、それこそイメージの批判でしょう。彼らは、ヨーロッパにおいては耐震設計が不要であるというごく単純な事実さえ弁えていないのです。日本とヨーロッパを比較して何か言ったような気になっている連中は、たいていの場合、彼我の差、つまり、国土の特性を自覚できていません。

 ちなみに言えば、大阪万博問題も、そんなイメージ思考の裏返しでしょう。イメージで、「夢洲の広大な土地を使えばパビリオンが建設できる」と思ったものの、実際に建設に取りかかると、軟弱地盤の問題や耐震設計の問題が出てきて、予想以上に費用がかさみ、工期も遅れてしまうと。要するに、政治家が自分たちの「国土」とインフラについて何も理解していないわけです。

 ことほどさように、風土的条件を忘却した人間に、国土に適切に働きかけようとする政治はできません。インフラの敷設がいかにその国のストックになるのか、そのインフラによって、いかに国土が整備され、人々に安心感や公平感や一体感を与え、しかも需要を喚起し、それによって国民生活が豊かになるのかといった具体的な想像力が育っていないのです。

 のっけから結論を言うようで恐縮ですが(笑)、歴史的条件を忘却した人間が適切に将来、未来に関わることはできないのと同じように、自分たちの風土への適切な働きかけを忘却した人間が、自分たちが住み込んでいる空間、根づいている土地の中で適切な政治を営むことはできません。

 確か藤井先生は、『国土学──国民国家の現象学』(北樹出版)の中で、ハイデガーを引用しながら、〈私たちは住むことを忘れて、その場に滞在しているだけではないのか〉という非常に喚起的な言葉を書いてらっしゃいますが、まさに、今、日本人は「住むこと」を忘れています。そこに現れるのは、自分の風土的条件を忘却した「偽物の場所」であり、刹那的な消費を繰り返す「偽りの暮らし」です。結果、「ミッドタウン的なるもの」、あるいは、「東京的なるもの」が支配的になり、身体が消毒され、生活感や現実感が希薄化し、日本人は何が「薬」で何が「毒」なのかも分からなくなってしまった。その象徴が、日本人が岸田文雄を首相に選んでしまっているという事実です。

 その点、私たちの下部構造(インフラ)である国土の「自然を自覚し、それに基づいて政治的「作為」を営むことは、思想的にも非常に重要な主題ではないかと思っています。

 

藤井▼ハイデガーは、人間存在(「現存在」)は「世界内存在」であると言います。世界と表裏一体で存在するのが人間であって、世界=環境から独立な人間だけが存在するということは原理的にあり得ない。世界と人間は完全に一体化して存在しているのであって不可分だということです。そして「人間」という存在は生命を維持し種を繁栄させていくためだけに存在するのではなく、宗教的な意味合いも含めながら「幸福」を追求するためにも存在します。それが「住む」ということです。ですが、「滞在する」人は単にホテルに泊まっているようなもので、そこを改築したり地域のコミュニティに根を下ろしたりしようとしません。それこそ「国に税金払っているんだから住んでもええやんけ」と思っているだけなのです。ハイデガーに言わせれば、そんな頽落した奴は「本来的」な人間ではなくて、腐れ外道の「大衆人」に他なりません。戦後日本人はハイデガーをいろいろと引用してきたくせに、この点を引用していないんです。建築業界の一部の人間が、建築の論文でちょこちょこと書いているだけで、保守論壇も含めた日本の思想界、言論界には全く届いていないですよね。これは戦後日本の病理だと思います。

 思想的に言うとそういうことですが、建設コンサルタントとして何十年もインフラのプロジェクトに携わってこられている白水さんからも、インフラをめぐる問題について思われていることを実践的な観点からお話ししていただけますか。

 

能登半島地震で明らかになったインフラの脆弱性

 

白水▼今年の正月に能登半島で地震がありました。あそこは本当に道路のインフラが弱い地域なので、復旧が非常に難航しています。道路が寸断されて集落が孤立し、沿岸部も隆起してしまったので港から支援に行くこともできない。だから国や自治体の支援部隊は金沢に滞在して、毎日五時間かけて被災地に行っているケースもあります。もし丈夫なインフラが残っていれば、地震が起きて被害が出ても早期に復旧できるわけで、インフラにはそういう基本的な役割があるということは、難しい話を抜きにしても分かりますよね。

 

藤井▼今回の震災では皆が「道路復旧が遅い」と言っています。なぜ道路復旧が遅いかというと、幹線道路が脆弱だったからです。幹線道路がちゃんと残っていたら重機がどんどん入れるから、細い道路を開けるための作業ができるんですよ。

 

白水▼東日本大震災の教訓から幹線道路の強化はやっていたはずなのですが、スピードが遅くて能登半島まで手が回っていませんでした。そもそも、道路は単に人の移動のためだけにあるのではなく、人々が暮らすためのモノを運ぶ役割もあるんです。

 

藤井▼「交通」というのは人間の動きのことですが、モノの動きは「物流」という別のラインですからね。

 

白水▼そうです。道路インフラ整備に対して批判的な人は意外とそういうことを忘れていて、「そんな道路、人は使うのか」みたいな感じで批判します。モノを運ぶという大事な役割はコロナ禍の時に皆さん実感されたはずなのですが。

 日本の産業全体で考えると、農業をどうにかしないといけない状況なのに、農業産出額一位の北海道と他の地域をどう繋ぐか、といった話になかなかならないですよね。

 

藤井▼四国や九州は本州と道路で繋がっているのですが、北海道と本州を結ぶ青函トンネルは鉄道しか通れないですからね。それ以外だとフェリーに乗っていくしかありません。トラックもそうだから、北海道の人は物流でめちゃくちゃ不利益を被っているんです。

 

白水▼食料問題に対してインフラが全然役に立っていないということです。

 

藤井▼普通の先進国なら道路を二本くらい通すはずですよ。

 

白水▼戦後に日本を何とか復活させようとしていた人たちは、そういうことを考えていたと思います。道路も鉄道も、整備新幹線も全国に張り巡らす計画を立てていたのに、それすらまだできていません。

 

藤井▼政府はもともと約束しているわけですからね。新幹線だって旭川まで伸ばすと昭和四十七年に約束しているし、鳥取、島根にも通すと言っています。大分と愛媛を新幹線で繋ぐことも正式決定していますからね。

 

白水▼四国や北海道に住んでいる人たちもちゃんと支えてあげるのがインフラなのであって、効率性だけでなく公平性の議論もしないといけないということです。もともとやると言っていて、世界情勢の変化もあってさらにインフラを整備する必要があるのにもかかわらず、なかなかできていないですよね。

 

日本に顕著な「土木嫌い」という現象

 

藤井▼実践的な現場からもそういう声が上がっているわけですが、浜崎さんはいかがですか。

 

浜崎▼今の話は、「国」とか「ナショナリズム」というものを考えた時に当然出てくる話ですよね。  例えば、これは大石先生の指摘だったと思いますが、隣り合っている県であるにもかかわらず、宮崎県と熊本県では、その農産物の売上げが全く違うそうですね。その主要な要因が道路です。熊本は九州縦貫道で阪神・京浜の都市圏まで直通で繋がっていますが、宮崎は繋がっていない。そうなると首都圏での農産品の売上げが、熊本と宮崎で一〇九一対一(スイカ)とか、一〇〇対一・五(トマト)とかになる。地域振興とか言うのなら、まず道路を通せという話なんですが、そういうことは一切議論にならないし、マスメディアにも出てこない。

 でも、こういう誰でも分かる話が議論されない現状を見ると、私なんかは、マスメディアも含めこの国のインテリたちのメンタリティの問題を考えてしまいます。

 今の話に絡めて、大石先生は、「道路は後世にツケ・闘争続ける」、「行政の暴力屈しない」などの新聞記事を紹介していましたが、この国のマスメディアは、道路事業に用地提供を拒む人を、ただそれだけの理由で「国家に抵抗する主体」として祭り上げているんです。つまり、戦後の「国家アレルギー」のメンタリティがここでも大きく影響しているのではないかと。

 

藤井▼「原発嫌い」や「自衛隊嫌い」と同じように「土木嫌い」があるということですね。

 

浜崎▼その通りです。「土木嫌い」の問題は、実は「自衛隊嫌い」の問題と同根で、最終的には「憲法九条」の問題──つまり、戦後の「国家主権の抑圧」の問題にまで繋がっているのではないかと私は睨んでいます。そう考えれば、インフラ論の抑圧は、そのまま積極財政論の抑圧、そして「財政法四条」と「平和憲法」の問題とも重なってきますよね。

 

白水▼土木嫌いは日本だけの現象で、海外ではそんなに嫌われていないですよね。

 

藤井▼僕は若い頃からずっと「土木嫌い」が日本を駄目にしているという認識があったので、積極財政への思想的転換を図ると同時に、「コンクリートから人へ」に象徴されるような土木バッシングの世論を変えることをライフワークにしています。

 「なぜインフラが嫌われるのか」というのは非常に重要テーマです。僕の研究室出身の中尾聡史君という京都大学の助教がいるのですが、彼は学位論文で民俗学の視点から日本人の土木嫌いの原因を明らかにしました。彼の研究を少しご紹介すると、日本には平安時代の頃から「犯土(ぼんど)」という概念があります。これは何かというと、だいたい一メートル以上の土を掘ることは犯罪というか、やってはいけないという考えのことです。民俗学で言うところの「常民」である農民は、せいぜい一メートルくらいしか掘りませんが、それ以上掘る奴はあかんということです。

 仏教には「草木国土悉皆成仏」という言葉があります。草や木や国土も皆生き物であって、成仏するという意味です。この考えが日本にはあるので、いわば「国土様」を犯したらあかんわけです。ところが、「土木の奴ら」は一メートル以上掘ってしまう。日本人の根底にある「犯土」意識からすると、土木の人間は民俗学的には「犯罪者」になるんです。でも土木は必要なので、いわゆる「非人」(被差別民)にやらせるようになります。それで土木をやる人は「鬼」とか「河童」と呼ばれるようになるんです。要するに怪物扱いですよ。

 さらには、行基や空海といった聖職者を連れてきて、彼らに土木をやらせました。彼らは宗教的なスーパーパワーを持っているから、土を犯してもすぐ成仏させることができるというわけです。坊主もある意味では「常民」ではないですからね。つまり、坊主というプラスの意味での「非常民」と、鬼とか河童というマイナスの意味での「非常民」が長い間土木をやっていたということです。だから僕らは「怪物」なんです(笑)。

 自衛隊や原発も嫌われますが、自衛隊は「ホシュ」層が強烈にサポートしているし、原発も「原発ムラ」をはじめ強力なバックがついています。しかし、「土木」だけは右からも左からも嫌われる理由はこういうところにあるのかな、という仮説を中尾君は提示したわけで、たぶんそういう側面は濃密にあるのだろうと思います。

浜崎▼歴史的に言うと、これがヨーロッパでは逆なんですよね。石工の連合組合、つまり土木の連合組合がフリーメイソンになったという話がありますが、十八世紀には、彼らが媒介になって、自由主義や合理主義などの近代的な啓蒙運動の源流になっていくんです…

(明日の配信に続く..)

 

◯座談会参加者紹介

 

白水靖郎(しろみず・やすお)

京都大学工学部卒業。京都大学経営管理大学院修了(MBA)。中央復建コンサルタンツ株式会社専務取締役(現職)。一般社団法人日本モビリティ・マネジメント会議監事、NPO法人持続可能なまちと交通をめざす再生塾理事等を兼務。公益社団法人土木学会「レジリエンスの確保に関する技術検討委員会」「コロナ後の土木のビッグピクチャー特別委員会」、一般社団法人日本プロジェクト産業協議会「国土・未来プロジェクト研究会」、三条通エリアマネジメント検討会議等で活動。技術士(総合技術監理部門-都市及び地方計画)。

 

浜崎洋介(はまさき・ようすけ)

78年埼玉生まれ。日本大学芸術学部卒業、東京工業大学大学院社会理工学研究科価値システム専攻博士課程修了、博士(学術)。文芸批評家、京都大学大学院特定准教授。著書に『福田恆存 思想の〈かたち〉 イロニー・演戯・言葉』『反戦後論』『三島由紀夫 なぜ、死んでみせねばならなかったのか』『小林秀雄の「人生」論』。共著に『西部邁 最後の思索「日本人とは、そも何者ぞ」』など。編著に福田恆存アンソロジー三部作『保守とは何か』『国家とは何か』『人間とは何か』。近著に『ぼんやりとした不安の近代日本』(ビジネス社)。

 

藤井 聡(ふじい・さとし)

68年奈良県生まれ。京都大学卒業。同大学助教授、東京工業大学教授などを経て、京都大学大学院教授。京都大学レジリエンス実践ユニット長、2012年から2018年までの安倍内閣・内閣官房参与を務める。専門は公共政策論。文部科学大臣表彰など受賞多数。著書に『大衆社会の処方箋』『〈凡庸〉という悪魔』『プラグマティズムの作法』『維新・改革の正体』『強靭化の思想』『プライマリーバランス亡国論』など多数。共著に『デモクラシーの毒』『ブラック・デモクラシー』『国土学』など。「表現者塾」出身。「表現者クライテリオン」編集長。

 

 


〈編集部より〉

本記事は2/16発売、最新号『表現者クライテリオン2024年3月号』の特集座談会より一部お届けしております。

全文は本誌に掲載されておりますのでご一読ください。

特集タイトルは、

日本を救うインフラ論

今、真に必要な思想

です。

巻頭言と目次を公開しています。

インフラを実践的、思想的に幅広く論じた特集となっています。なぜ知識人はインフラを論じないのか、なぜ日本人はインフラに関心がないのか、先人たちはどのような思想をもって国土を作ってきたのか等々、ご関心を持たれましたら是非ご購入の方をお願いいたします。

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第6期表現者塾、開講決定!

表現者塾は毎回ゲストの講師より幅広いテーマのご講義をいただき、浜崎洋介先生が司会、対談役を務める会員制セミナーです。
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◯来年度講義スケジュール

4月 藤井聡
講義テーマ:国土と国民

5月 浜崎洋介
講義テーマ:ハイデガーとウィトゲンシュタイン —20世紀的保守思想の基盤

6月 古田徹也
講義テーマ:謝罪の言葉を哲学する

7月 川端祐一郎
講義テーマ:保守は反体制派に何を学び得るか? ―カルト、テロ、レジスタンス

8月 片山杜秀
講義テーマ:未定

9月 施光恒
講義テーマ:保守の世界秩序構想

10月 小泉悠
講義テーマ:ユーラシアの地政学と安全保障 ー癒着する地理とアイデンティティ

11月 苅部直
講義テーマ:小林秀雄と「伝統」

12月 大場一央
講義テーマ:選択された「忠誠」―『靖献遺言』に見る人生を無駄にしない生き方

1月 小川さやか
講義テーマ:文化人類学の方法とビジネスとの新しいかたち

2月 富岡幸一郎
講義テーマ:未定

3月 柴山桂太
講義テーマ:未定

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