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【浜崎洋介】「戦後家族」の運命ー私たちの不信と腐敗の起源をめぐって

浜崎洋介

浜崎洋介 (文芸批評家)

4月16日より発売中の、最新号『表現者クライテリオン2024年5月号』より一部を掲載します。

 人はどのようにして「不信」へと導かれ、いかにして「腐敗」していくのか。 それを「父」と「母」を喪った戦後文学の問題=戦後家族の問題として問い直す。 システム制覇と依存関係とを超えて、私たちの「常識」を蘇らせるための戦後家族論。

Ⅰ 「不信」と「腐敗」の構造──エーリッヒ・フロム『悪について』より
  

 「不信の構造」や「腐敗の正体」を考えようとしたとき、私には必ず思い出すエピソードが一つある。たった一つの選択が、その後の人生にどのような自己不信を齎すことになるのか、どのように人を腐敗させるのか、エーリッヒ・フロムが『悪について』のなかで紹介する人生の物語である。

「この物語は、自分や他人の発達を見ていれば日常的に 観察できるものを詩的に表現したにすぎない。一つの例を見てみよう。ある白人の八歳の男の子には友だちがいた。それは黒人のメイドの息子だった。男の子の母親は 息子が黒人の子供と遊ぶことを好まず、その子と会うのをやめるよう命じる。子供はそれを拒絶する。すると母親は、言うことをきけばサーカスへ連れて行くと約束 する。息子は折れた。この自分への裏切りと買収の受け入れは、この少年に何かしらの影響を与えた。彼は自分を恥じ、道義心は傷ついた。自分への信頼もなくしてし まった。」『悪について』渡会圭子訳、ちくま学芸文庫

 ここには、多かれ少なかれ誰もが一度は問われることになる「善」(能動性)と「悪」(受動性)のあいだにおける選択の問題が示されている。フロムは、この二者択一の問題を、 一人の子供における“友人と会うこと”と“サーカスに行くこと”とのあいだの選択の問題として描いているが、それは、自分のなかにあるバイオフィリア的傾向(生命愛)を守るのか、それとも、ネクロフィリア的傾向(物質愛)に躓くのかという問題でもあった。

 だが、「サーカス」を選んでしまった子供の場合、まだ 「取返しのつかないことは起こっていない」。決定的な事件が起こるのは、それからさらに十年後のことだった。

 成長した少年は、ある少女と恋に落ちることになるが、 この時も少年を「悪」の方に誘惑したのは両親だった。少女の階級の低さを嫌った両親は、今度は“半年間のヨーロッ パ旅行”で少年の気を引きつけ、結婚の意志が固いのなら婚約発表は旅行から帰って来てからでも遅くはないだろうと説得するのである。かくして、彼女に対する愛は変わらぬはずだと意識の上で考えた少年は、両親の言葉を受け入れ、その提案に従ってしまうのだった。

 が、それが彼の命取りになった。旅先で多くの女性に会い、虛栄心を刺激され、そこで人気者になった彼は、帰国するに際して、婚約解消の手紙を書くことになるのである。

 その後のことは、もう想像がつくだろう。両親からの「賄賂」を二度も受けとってしまった少年の心は、時間がたつに従って「物質」のように頑なになっていった。末梢神経の刺激に対して、生命の持続感を売ってしまった彼は、そ んな自分自身への裏切り行為によって、「自己卑下と内部の弱さと自信喪失」を招き寄せてしまうのである。

 結局、彼は得意の物理学の研究を辞めて父親の仕事を継ぎ、両親の勧めに従って裕福な家の娘と結婚し、実業家としての成功を収めた後に政治家となる。が、もちろんそのときにはすでに、周囲に逆らってもなお貫き通す「良心」などというものは残っていなかった。こうして、「おのれ自身の歴史を空にした人間、過去という内臓を持たず、『国際的』と呼ばれるあらゆる規律に従う者たち」が──、要するに、譲れぬ内面というものを持たぬ「スノッブ(俗物)」が生み 出されることになるのだ(オルテガ『大衆の反逆』佐々木孝訳)。

 こうしてスノッブは、彼自身の「生」を「物」と取り換える 度に、自己不信に陥り、自己不信に陥れば陥るほどに、他者への「仮面」を分厚くしていく。が、ここで重要なのは、 この悪循環が極まったところに現れるもの、それが、「不信」と「腐敗」の主題にほかならないということである。

 彼らは一方で、その自己「不信」から、人間の善(信頼に支えられた能動性)を問わなくても済むような、つまり、その背後に何もない「仮面」だけで回るようなシステムを──R・D・レインが言うところの「偽自己の体系」を──作り上げよう とする(「偽自己」の仮面だけで回り続ける岸田政権、およびポリコレとコンプラ支配の現代を想起せよ)。が、それゆえにこそ彼らは、他方で、他者への恐怖と不安を押し隠すことのできる「腐敗」した依存関係を、その裏に虛構せずにはいられない のである(ジャニー喜多川による取引きを介した従属関係、あるいは、松本人志による下品な依存関係を想起せよ)

 「不信」によって回る偽自己の体系と、その裏に虛構される「腐敗」した相互依存の関係、両者は悪循環をなしながら、ますます私たちの心を「不信」と「腐敗」で満たしていく。では、どうしてこんなことになってしまったのか。何が問題の起源にあるのか。

 しかし、そのヒントはすでにフロムが引くエピソードのなかに示されていたはずだ。いまだ「善」と「悪」の選択を曖昧にしか引き受けることのできない幼い心を取り囲む環境、つまり、子供の心を取り囲む家族の存在、その主題がここで浮かび上がってくるのである。

 

Ⅱ 「戦後家族」の行方──江藤淳から村上龍へ

 

 一人の人間の「常識」を作り出す上で、「家族」が決定的な役割を果たしていることは、言うまでもない。そこは、まだ意識を持たない幼い心が、初めて他者と出会う場所であり、その他者経験(去勢)によって自己の輪郭(意識)を描きだす場所である。それゆえに、家族が壊れるということは、そこに生活している人間が壊れるということであり、 その意味で言えば、病は個々人のものではなく、多くの場 合、家族(関係)のものなのである。

 そう考えたとき、戦後の高度経済成長下、江藤淳によって書かれた『成熟と喪失─“母”の崩壊─』(昭和四十二年=一九六七年)は、今だに、私たちの「不信と腐敗」の起源を確 かめる上で重要な意味を持っている。それは、単に「第三 の新人」と呼ばれる文学者たち(安岡章太郎、小島信夫、遠藤周作、吉行淳之介、庄野潤三)をめぐる文芸批評であるというよ り以上に、彼らが描く「家族小説」を通じて、戦後社会の病を描き出そうとした仕事でもあった。

 江藤淳は、安岡章太郎の『海辺の光景』や、小島信夫の 『抱擁家族』などが描く「家族の崩壊」を見つめながら、そこに戦後社会のイメージを重ね合わせていた。

「占領時代に彼ら〔アメリカの占領軍 マッカーサー〕が「父」 であり、彼らが「天」であった。〔…〕しかし占領が法的に 終結したとき、日本人にはもう「父」はどこにもいなかった。そこには超越的なもの、「天」にかわるべきものはまったく不在であった。もしもその残像〔儒教の超越的父性原理=戦前日本の天皇像・国家像〕があれば、それは「恥ずかしい」敗北の記憶として躍起になって否定された。この過程はまさしく農耕社会の「自然」=「母性」が「置き去りにされた」者の不安と恥辱感から懸命に破壊されたのと表裏一体をなしている。先ほど言ったように、今や日本人には「父」もいなければ「母」もいない。そこでは人工的な環境だけが日に日に拡大されて、人々を生きながら枯死させて行くだけである。」〔 〕内引用者補足、『成熟と喪 失─“母”の崩壊─』講談社文芸文庫

 では、この「父」(天)もいなければ「母」(自然)もいなくなった場所で、日々拡大していく「人工的な環境」とは何な のか。それを江藤淳は端的に物理的な「家」に見ていた。

 占領時代の〈父=アメリカ〉が去ってからというもの、日本人は、その影を追うように、アメリカ人が暮らす「白い郊外の家」(三浦展『「家族」と「幸福」の戦後史──郊外の夢と現実』) を求め続けた。日本住宅公団(昭和三十年=一九五五年設立)の 提供する鉄筋コンクリートの団地は、農業社会から工業社会へと移行していく高度経済成長期の象徴であると同時に、それは都市化し、核家族化していく日本人の理想の生活モデルにもなっていく。かくして、地域社会から切り離された「家族」は、郊外へと膨張しながら、次第にニュータウンという人工都市を作り出していったが、それはま るで、失くしてしまった「父」や「母」に対する信頼感を、そ して、そこに育った自分自身に対する不信の穴を、「家」というモノによって埋め合わせようとしているかのようだった。

 実際、『成熟と喪失』のなかで江藤淳が論じた小島信夫の 『抱擁家族』(一九六五年)は、妻に浮気をされた英文学者の大学教師が、不浄なものでも祓うように、浮気相手(アメ リカ人将校)が出入りしていた家を手放し、小田急線沿いの郊外に土地を買い、アメリカ式のセントラルヒーティング の家を建てようとする話なのである。が、もちろん、そんなことでは「父」も「母」も蘇りはしない。戦後の個人主義と自由主義のなかで、自然な家族のあり方が分からなくなっ てしまった「家長」は、それゆえに、無理やりにでも、自分 の理想の家族を立て直そうと、必死に父親役を演じることになるのだが、それを演じようとすればするほどに、その 行為は滑稽に上滑り、かえって妻や娘や息子の「不信」を招 いてしまうのである。かくして、乳癌によって〈妻=母〉を 失ったとき、彼の手元に残されたのは、家族の残骸と、それを囲うアメリカ式の「家」だけだった。

 その後、この「自然を喪った家族」、あるいは、それを埋め合わせるための「家」という主題は、小林信彦「決壊」(一九七五年)、山田太一『岸辺のアルバム』(一九七六年~七七 年)、円地文子『食卓のない家』(一九七八年)、本間洋平『家族ゲーム』(一九八一年)、富岡多恵子『波うつ土地』(一九八三年) などの小説で繰り返し描かれることになるが──『岸辺のアルバム』はTBSのテレビドラマとして、『家族ゲーム』 は森田芳光監督の映画としても有名だろう──、いずれにしろ、それらの戦後文学は、「おのずから」なる家族の喪失 と、そこに兆した日本人の自己不信を主題として描いていた──ちなみに、岸田文雄首相が成人したのは、まさに、 これらの小説が書かれた一九七〇年代の終わりだった──。

 そして一九八七年、バブル経済の絶頂期に、その「人工的な環境」の臨界値を抉り出すかのような小説が現れる。 村上龍の「サムデイ」(『トパーズ』一九八八年所収)である。

 村上龍のデビュー作である『限りなく透明に近いブルー』 (一九七六年)自体、故郷を抜け出したヒッピーたちが、か つてアメリカ軍人が暮らしていたハウスで疑似家族を作 り、乱交パーティーを繰り返すという、「父」も「母」も失くしてしまった、要するに、限りなく透明になってしまった 日本人の戯画のような小説だった。が、それでも最後に、 内面の悲しみ(ブルー)を告白することで、デビュー当時の村上龍が、その「人工的な環境」への辛うじての抵抗を描い ていたのだとすれば──しかし、おそらく、『アメリカの影』のなかで加藤典洋が指摘するように、その〈感傷的な抵 抗〉の姿勢が江藤淳の不評を買いもしたのだったが──、 その約十年後に発表された「サムデイ」は、そんな感傷が入 り込む余地もないほどの荒廃ぶりを示していた。

 主人公の「あたし」は、もはや家族の「虛構」を維持する気 さえない女子高生、単なる同居人と化した四人家族の長女である。「パパ」は残業から帰宅すると、怒っているのか悲しんでいるのか分からない顔で娘を見つめ、身寄りのない老人のように一人パン屑をボロボロとこぼしながらホットサンドを汚く食べる中年男性であり、「ママ」は出前寿司で夕食を済ませた後、そそくさと近くのスナックに恋人と出かけていく中年女性であり、八つ下の弟の「ケイイチ」は、 テレビゲームの画面から眼を離さずに好みの寿司ネタを母に伝える小学三年生である。そんななか、家族のなかに居場所を見つけられない「あたし」は、ひたすらに、その家族 の「外」を夢想し、そこに「幸福」の観念を描き出していた。

「〔…鏡の中の自分を見て〕どういうふうに手を加えてもあたしはガキなんだと思い、死にそうな顔でホットサンドを 食べてたパパと皺の多かったママの顔も同時に頭に浮かんできて幸福は全部その中間にあるのだろうという気 がしてきた。〔…〕あたしが憧れていることはこの家の外に、あたしとママの中間にある。美しく細い指でタイプを打ち観葉植物と野生動物の剝製のあるオフィスで足を 組み国際電話をかけ株とか債権を持っててスケベなおじさんから胸とか触られても相手が傷つかないように笑顔でごまかし外にはきょう会ったライトマンやそういうようなサラリーマンじゃないアーチストっぽい恋人がいて普通では考えられないような格好でお互いを舐め合ったりするけどどんなにお腹が減っていてもホットサンドなんか食べないし食べてもパン屑をこぼしたりしない、そんな幸福そうな女はたくさんいてそれはあたしじゃない しママでもないし、あたしはそんな女にはなれないだろうし、ママもなれないまま素通りしてカルカッタのスラムの年寄りになった。」「サムデイ」一九八七年一月初出、『ト パーズ』角川文庫

 ここで目を引くのは、その背後には何もない、パパやママの「仮面」だけで回っているような偽自己の体系であり、 そして、その「外」に描かれた「幸福」のイメージの驚くほど の陳腐さであり、さらには、その陳腐なイメージにさえ、 自分自身の力では手が届かないだろうと諦めている少女の圧倒的な無力感と、その自己不信である。

 いや、だからこそ少女は、そのシステムの「外」へと「あたし」を連れ出してくれるかもしれない「そいつ」が、バイブレーターの入った女友達の尻をビデオカメラで撮るような鬼畜変態野郎でも、「他人に優しくできないんじゃなく て、他人に優しくしなくても生きていける人が僕の周りに は多いんだ」と語るサイコパス野郎でも、キラキラと輝く 芸能関係の仕事に就いている彼が、「君は全然きれいだ、 みたいな感じで笑いかけてくれ」るだけで、もう、そのそばを離れることができないのである。

 ここには、偽自己の体系と化した家族の形骸、言い換えれば、法律と金銭という外的なものだけで繋がっている同居人たちの「不信」と、その孤独の捌け口を求めて現れる 「腐敗」した相互依存への欲望が同時に描かれている。文字通り、そこは、「人工的な環境だけが日に日に拡大され て、人々を生きながら枯死させて行く」現場である。

 

(本誌に続く…)

○著者紹介

浜崎洋介(はまざき・ようすけ)

78年埼玉生まれ。日本大学芸術学部卒業、東京工業大学大学院社会理工学研究科価値システム専攻博士課程修了、博士(学術)。文芸批評家、京都大学大学院特定准教授。著書に『福田恆存 思想の〈かたち〉 イロニー・演戯・言葉』『反戦後論』『三島由紀夫 なぜ、死んでみせねばならなかったのか』『小林秀雄の「人生」 論』。共著に『西部邁 最後の思索「日本人とは、そも何者ぞ」』など。編著に福田恆存アンソロジー三部作『保守とは何か』『 国家とは何か』『 人間とは何か』。近著に『ぼんやりとした不安の近 代日本 』(ビジネス社)。

 


〈編集部より〉

本記事は4月16日より発売中の最新号『表現者クライテリオン2024年5月号』に掲載されております。

全文は本誌に掲載されておりますのでご一読ください。

特集タイトルは

不信の構造、腐敗の正体

政治、エンタメ、財務省

です。

今、日本の各領域において激しく進行している「腐敗」とそれに対する国民の「不信」の構造を明らかにすることを通して、その「腐敗」を乗り越えるため方途を探る特集となっております。

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