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【施光恒】桧原桜(ひばるざくら)と日本人

施光恒

施光恒 (九州大学大学院教授)

『表現者 クライテリオン』に「やわらか日本文化論」という連載をしています。身近な観点から日本文化のあまり注目されてこなかった側面について論じようという趣旨で始めました。

前号、および来月半ばに出る次号では、「園芸文化と日本人」という題目の下、園芸や植物との関りから日本の文化を考える文章を書いています。もう何回か「園芸文化と日本人」シリーズ、続けるつもりです。
(^_^;)

その関連で、ふと思い出したのが「桧原桜」(ひばるざくら)の話です。私の暮らしている福岡市ではわりと知られている話なのですが、お聞きになったことあるでしょうか?

「桧原」というのは地名で「ひはら」ではなく「ひばる」と読みます。福岡市の南部にある普通の住宅街です。福岡市の中心部の天神からバスで30分ぐらいだと思います。(ちなみに私の家からジョギングで25分ぐらいです。この前、走ってみました)
f(^_^;)

昭和59年(1984年)3月に、ここでちょっとした事件が持ち上がります。
 
桧原はかつて田んぼが多く、農業用のため池も点在していました。そのうちの一つ蓮根池(れんこんいけ)のほとりに、9本の桜からなるこぢんまりとした並木がありました。その桜並木が道路拡張工事のため、伐られることになったのです。

わずか9本の桜並木ですが、周囲の人々の日常生活に溶け込み、親しまれていました。朝夕の通勤時に、あるいは散歩のときに、春は桜吹雪や若々しい新緑で人々を楽しませ、夏になればさわやかな木陰を提供してくれる場所でした。

近所の人々は木が伐られてしまうと聞き、落胆します。そして多くの人はこう思いました。せめて桜の季節まで伐採を待ってくれないだろうかと。

試しだったのでしょうか、並木の最初の一本が、三月初旬に、市から委託された業者の手で伐られました。

その数日後、残った8本のうちのいくつかに、次の和歌が記された色紙が掛けられます。桜の木を惜しむ近所の人の手によるものでした。当時の福岡市長・進藤一馬氏宛でした。

***
花守り(はなもり)進藤市長殿

花あはれ せめてはあと二旬(にじゅん) ついの開花を 許したまえ
***

「和歌」というには字数が揃っておりませんが、少々不格好である分、切迫感が感じられます。道路拡張工事の責任者である市長を「花守り」と呼んだうえで、桜の開花まであと「二旬」、つまり20日間伐採を待ち、最後の開花を許してやってほしいという歌でした。

この色紙をみた伐採業者が市に連絡したようで、その後、数日間、残りの並木は伐られませんでした。

その間に、地元の西日本新聞が、色紙がかけられた桜の木のことを夕刊で報じました。「桜あわれ 最後の開花を許し給え」の大見出しに、「短歌に託し命乞い」「通じた住民の風流」「市、並木の伐採延期」という小見出しが付いた記事でした。

記事には、取材を受けた近所の主婦のエールの歌も添えられていました。

「先がけて 花のいのちを 乞う君の われもあとにと 続きなん」

また、記事には、市当局と桜の所有者である地元の水利組合が話し合った結果、伐採は桜の季節が終わってからにしたとも記されていました。

その後、新聞記事でこの件を知った多くの人々が、花を惜しむ歌の色紙や短冊を持ち寄り、木に掛けました。たとえば次のようなものです。

「春は花 夏は葉桜 幾年を なぐさめられし 並木道かな」

「年どしに 賞(め)でし 大樹の このさくら 今年かぎりの 花をはぐくむ」

「雨風よ しばしまたれよ 終(つい)の花 別れおしまん すみきえるまで」

「今年のみの さくらいとしみ 朝ごとに つぼみふくらむ 池の辺に 佇(た)つ」

「千の人 万の人らに おしまるる さくらや今年を ついのさかりと」

このような桜並みに掛けられた数多くの和歌のなかに、ひっそりと「香瑞麻」という雅号が添えられた次のような一首もありました。

「桜花(はな)惜しむ 大和心(やまとごころ)の うるわしや とわに匂わん 花の心は」

「香瑞麻」というのは、福岡市長・進藤一馬氏の号であり、この歌は市長からの返歌でした。

(ちなみに、進藤一馬氏は、福岡の政治結社・玄洋社の創立者の一人である進藤喜平太氏の子息で、一馬氏本人は玄洋社の最後の社長を務めた人物でもあります)。

進藤市長は、西日本新聞でこの桜並木が報じられた記事を読み、市の担当者に、「何とか花の命を延ばすことはでけんだろうか」と再検討を促すと同時に、上記の一首を枝に下げるように依頼したということです。

このあたりの事情は、進藤市長の回想録(西日本新聞に連載されたもの)によれば、次のように記されています。

「…たとえ市長である私がどう思っても、個人としての私情ではどうにもならないことが行政には多々ある。だから桜の木は切り倒されるかもしれない。だが、あなたの花を愛する心情は確かに受け止めたという気持ちを託しました。

幸い、担当部門での検討の結果、九本のうち八本は歩道の中に組み入れることで残され、新しく並木用に桜の若木二本も植えられることになった」。

市長の文章にあるように、桧原の人々の気持ちが通じ、結局、順延されただけでなく、残りの桜並木は伐られずに済むことになりました。

以上の事情は、最初の「花あはれ せめてはあと二旬…」の歌を掛けたご当人である土居善胤(どい・よしたね)氏の著書『花かげの物語』(出窓社、2002年)に詳しく記されています。

土居氏は、近くに住む当時50代の銀行員でした。自分が最初の歌を掛けた本人であることを特に公にはしていませんでした。職場など同氏の近くにいた人々は知っていたようですが。

10年以上たったのち、銀行の仕事を通じて知り合った文芸春秋社の人から桧原桜について月刊『文芸春秋』の巻頭随筆に書いてみないかという話をもらい、そこではじめて最初の歌やその余波について名前を出して語ったそうです。

土居氏の著書『花かげの物語』、私も一読してみましたが、このほかにも面白いエピソードがたくさん掲載されています。

たとえば、土居氏は、桜並木の伐採が順延されたことを西日本新聞の記事を通じて知ったのですが、その直後、年度末に予定されていた工事を延ばすのは何かと大変だったであろうということで、「桧原桜」という匿名でビール券を市の土木局に贈ったそうです。

「感謝のしるしです。ささやかですが、皆さまの花見に近くでお役立てください」「これぐらいでは、(公務員としての規律)違反にはならないでしょうから」という文章を添えて。

すると、数日後、桧原の桜並木の一本に新しい短冊が結わえられていたとのことです。

「池畔で ともに語らん 花心 土木局街路課、四月六日夜六時」。

市役所の人たちからの「ここで花見をしたよ」というメッセージでした。

また、やはり市役所の人のものであろう次の短冊もすぐ近くにあったそうです。

「花もよし 人もまたよし 桧原道 今宵はビール とみに味よし」。

桧原桜の話は、地元で親しまれ、10年ほど前に一帯は「桧原桜公園」として整備され、現在に至っています。土居氏の最初の歌と進藤市長の返歌が刻まれた歌碑も建てられました。桜並木も、生き残った8本に新しく植えられた5本が加わり、13本になりました。

この桧原桜の話、いい話ですよね。また、日本人好みだと思います。

桧原桜の話を、伐採の延期が報じられた直後の昭和59年4月に、作曲家の團伊玖磨氏が、氏のよく知られたエッセイのシリーズ「パイプのけむり」の一篇として書いています(「ついの開花」(『さてさてパイプのけむり』朝日新聞社、1987年、所収)。

團氏は、たまたま仕事で九州に滞在中、テレビのローカルニュースで報じられた桧原桜の出来事を知ったようです。

團氏はエッセイで次のように記しています。

「…この話は小さな話しかもしれない。然し、この小さな話しの中に、僕は大きな、今の日本の社会で忘れられがちな、暖かく、人間が人間を信じる叡智に満ちたコミュニケーションの見事な開花を見る気持ちがする。ついの開花を願った誰か判らぬ心の優しい人は、ヘルメットを被って伐採反対運動を組織する愚も、座り込みもしなかった。
そして、只、一首の歌を桜の枝に吊ったのだった。工事の責任者はその短冊を千切らずに市長に伝えて呉れた。そこが嬉しいところである。そして、市長が又歌を以って桜花を惜しむ人に答え、ついの開花を実現させたのである。…」

「人間が人間を信じる叡智に満ちたコミュニケーション」というのは、少々大げさな感じもしますが、我々日本人が好み、人々の心を動かすものが、桧原桜の話には確かにありますよね。

日本の文化や社会を考えていくうえで様々な手がかりが含まれているように思います。

長々と失礼しますた…
<(_ _)>

 

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