先ごろ、『日本語は哲学する言語である』(徳間書店)という本を書きましたので、その中で考えたことの一部を少し変奏して書いてみようと思います。
言葉はふつう、コミュニケーションの手段と考えられています。
しかしこのコミュニケーションというやつ、じつに厄介です。
私たちは、意思伝達がうまくいかず、見解が対立してちっとも折り合えない事態にしばしば出くわしますね。
それどころか、こちらの言うことが誤解されたり、相手が聞く耳を持たなかったりということもしょっちゅう経験します。
意思疎通が図れない状態が高じると、互いの感情が激してきて、いっそう悪循環に陥ります。
これはなぜなのか。
一つは、言うまでもなく、人間が感情の動物だからです。ある論理の背景には、それを支える感情が必ず存在していますね。
哲学者のヒュームは、理性は感情の奴隷であると言い切りました。
しかしこれは必ずしも悪いことではありません。
というのは、まったく感情の伴わない伝達行為というのは、ロボットがしゃべる事務的な言葉でもない限り、ありえないからです。
背後に「この気持ちをこの人に伝えたい」という人間らしい思いがあればこそ、それが言葉として構成されて表出されるわけです。
ですから、言葉が伝わるためには、お互いが感情を持っていることが不可欠です。
言葉は一つの言語体系の中で、一定の規範を持っているので、私たちは、まだ形にならない気持ち(感情)を、その規範に沿って組み立てなくてはなりません。
ですから、組み立てのスキルがまずいと、うまく意思が伝わらないのは当然です。
しかし、スキルさえ磨けばコミュニケーションがスムーズに運ぶかというと、そう単純ではありません。
コミュニケーションがうまく運ばない理由には、言葉そのものの本姓に由来している部分が大きく与っています。
言葉は物事を抽象化して、「概念」として把握するので、把握の仕方が違っていれば、同じ言葉を使っていても、互いに違ったことを言っているという事態を避けるわけにはいきません。
言葉というのは、宅配便のように、Aさんが発送した荷物がBさんに届き、Bさんが梱包を説いてみたらその同じ荷物が出てくるというようなものではないのです。
つまり言葉は、単なる「手段」なのではなく、思想のやり取りそのものなのです。
国語学者の時枝誠記(ときえだ・もとき)は言語過程説という説を唱えました。
話し手が言語の素材である事物や表象をまず概念に組み立て、それを一定の聴覚印象に転化します。これが音声として発信され、空気中を物理的に伝わって聞き手の下に届きます。聞き手はその聴覚印象を彼なりの概念として把握し、既知の事物や表象に転化します。そこに初めて「言語理解」が成立するというわけです。
当たり前のことを言っているようですが、時枝説の特徴は、次の点にあります。
事物・表象→概念→聴覚印象→音波→聴覚印象→概念→事物・表象という、話し手から聞き手へのこの一連の過程こそが言語の本質だというのです(書き言葉の場合には、この過程の途中に「書き」「読み」という要件が加わります)。
この過程以外のどこにも現実の言語は存在しません。
すると、すぐ思い当たるのは、聞き手もまた欠くことのできない言語主体なのだという事実です。
だから聞き手の言語把握の仕方がどうであるかが、言語伝達にとって決定的な意味を持つのです。
私たちは、子どもに話すときは子どもにふさわしい語彙や話し方を用います。相手との関や会話の場しだいで、言葉のモードをさまざまに使い分けますね。
便宜にかなうとあれば嘘もつきますし、沈黙を守ることもします。沈黙も言語行為の一つなのです。
それは私たちが、いちいち意識しなくても、時枝の言うように、言葉の本質が話し手と聞き手とのやり取りそれ自体だということを、よく理解しているからです。
言葉とは、もともとこのように、ある不変の真実の伝達や共有ではなく、そのつどの関係づくり行為(ある場合には関係破壊行為)なのです。言語表現の以前に、あらかじめ絶対的な客観的真実があるわけではありません。私たちは、言語行為を通して、不断に「真実らしきもの」を創造しているのです。
また、言葉こそが嘘と真実との区別をも作り出すのです。
だから、誤解、曲解、耳塞ぎ、虚構、でっち上げなどは、言葉が本来持っている特性からして避けることができません。
このことをよくわきまえておけば、たとえば騒がしい「歴史認識」の問題なども、ただ、「あいつらは嘘つきだ、俺たちこそ誠実に真実を追究している」という観点だけで相手と争っても(そういう構えが必要なことは言うまでもありませんが)、勝ち目がないことがわかります。
むしろこちらにとっての「真実」を「真実」として、うまく周囲に認めさせるような説得術やエネルギーを蓄えることが要求されてくるわけです。
さて、言葉の持つ特性に、目で見たり手で触れたりできないものを、あたかもそうできるかのようにしてしまう働きというのがあります。
これを「言葉の実体化作用」と呼ぶことにしましょう。
たとえば、「心」という言葉があります。
だれもモノと同じように「心」を見たり触れたりした人はいませんね。
「社会」「自由」「精神」「観念」「美」「真理」「善」「平和」「平等」「人権」「命」など、みな同じです。
これらはふつう抽象名詞というグループに入れられています。
しかし、私たちがこれらの言葉を実際に使うとき、目で見たり手で触れたりできないということを常に意識しながらそうしているわけではありません。
筆者は大学の学生に、「あなたは心を持っていますか」と聞きます。
誰もが「はい」と答えます。
そこで「ではあなたの心を見せてください」と要求します。
誰もがしばし戸惑った上、「……できません」と答えます。
そこで、では心とはいったいどのような仕方で「ある」と言えるのかについて話すのですが、それはしばらく置いておきます。
ここでは、「言葉の実体化作用」が、不毛なディスコミュニケーションを作り出す大きな原因になっている例を挙げてみましょう。
たとえば、教育の世界で、知育が大切か徳育が大切かという議論が昔からありました。
おおむね、知育偏重の風潮を非難する道徳主義者の側から提議されてきました。
この場合、本当に知育偏重の風潮が実態として存在するかどうかの議論がまず前提としてなければなりませんね。しかしいったい、何をもって「知育偏重」というのか、その尺度や指標についてきちんと話し合われたためしがありません。
論者は、「知育」というものが「徳育」というものと対立して、目に見える「モノ」と同じ形で存在するかのように頭から決め込んでいるのです。
しかし、これらはいずれも抽象概念であって、リンゴとミカンのように、二者択一できるものではありません。
知の発達なしに徳を涵養することはできませんし、逆に徳(ルール感覚やマナー感覚)なしにいかなる知の注入も不可能だからです。両者はいつも相互既定関係にあるのです。
そのことをわきまえずに、「どちらが重要か」という風に議論を立てると、いずれの側に立つにしても、初めに結論ありきで、水掛け論に終わるのです。
また、先進諸国では、「自由」という概念が何よりも重要なものと考えられています。
この高度な抽象概念が、さまざまな文脈のなかで、「モノ」と同じように扱われているのをよく目にします。
「私たちは自由を守らなくてはならない」、「自由は何よりも大切だ」というように。
もちろん、法を犯してもいないのに身体が奴隷的拘束状態に置かれれば、そこからの自由を訴えることは大切な意味を持つでしょう。
ところが、「言葉の実体化作用」が進むと、どんな文脈であろうとお構いなしに、この概念を宝物のようにして、議論を進めることになります。
たとえば「自由貿易」と聞くと、何かそれだけで素晴らしいものであるかのような錯覚に支配されます。
しかし自由貿易とは、関税を撤廃してモノやサービスを行き来させることですから、強国と弱小国でこれを行なえば、強国に都合がよいように事が運ぶことは目に見えています。産業基盤の弱い小国は、この概念に騙されてはいけないのです。
このように、私たちは、言葉というものが持っている特性をよく認識する必要があります。重要な議論をするときには、特にこの特性に対して自覚的にならなくてはなりません。
まとめると、
(1)言葉とは、話し手(書き手)と聞き手(読み手)とのやり取りによって、関係を作っていく(時には壊していく)営みである。
(2)言葉のやり取りの以前に「真実」があるのではなく、逆に言葉のやり取りが「真実らしさ」を創造していくのである。
(3)言葉には抽象観念を実体化する作用があるので、その危険な罠にはまらないよう、注意が必要である。
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