すでに藤井先生や、柴山さんのメルマガでも触れられていたように、先日、『表現者クライテリオン』の関係者及び編集委員で、沖縄本島と与那国島に二泊三日の長期遠征旅行に行ってきました。20日に開催された「沖縄で考える保守思想」というシンポジウム(編集委員のほかに、国際リゾート研究所の藤原昌樹さん交えた議論)の手応えも含めて、非常に大きな成果がありました。
ただ、その成果については、改めて『クライテリオン』12月号の「ミニ特集」で報告させて頂くとして、今日は、そんな沖縄遠征に因んで、「辺境」という場所のもつ可能性について、少し考えてみようかと思います。
では、なぜ「辺境」なのか。
それは、「辺境」にこそ、「中心」が抑圧してきた問題、あるいは「中心」が切り捨ててきた「矛盾」が溜め込まれているからです。
たとえば、眼の前の「現実」に適応するために、私たちはノイズを排除しながら、ある「共同幻想」を中心化しながら生きています。それ自体は悪い事ではないのですが、しかし問題は、ときに私たちが、そのノイズを排除したことを忘れ、目の前の「現実」を絶対化してしまうことがあるということです。
すると、私たちは、まるで世界の「現実」が一つであるかのように思い込み、それに囚われ、柔軟性を失い、次第に多様な情報(他者、ノイズ)を受けつけなくなっていってしまいます。それを、このメルマガでは、繰り返し「日本人のナルシシズム」と呼んで批判して来たのでした。
しかし、「辺境」は、ときに、そのように凝り固まってしまった私たちの〈共同幻想=思い込み〉を揉み解してくれることがあります。つまり、「辺境」を媒介にすることによって、私たちは「中心」が排除してきた問題を、「中心」にいるとき以上に明確に捉えられることがあるのだということです。
たとえば、その分かりやすい例が、文学です。
これは、与那国島のホテルで、柴山さんや、川端さんなんかとも話したことですが――その頃、藤井先生は、更なる「辺境」に釣りに行っていました(笑)――、だいたい「世界文学」でも、問題の本質を掴み、それを描き出すことに成功している作家というのは、ほとんど「辺境」の出身者たちなのです(ちなみに、沖縄文学の可能性については、12月号の「対米従属文学論」で論じます!)
イギリス文学が分かりやすいですが、詩人のウィリアム・バトラー・イェイツや、『ガリバー旅行記』で有名な小説家のスウィフト、また、バーナード・ショウや、オスカー・ワイルドや、ジェームズ・ジョイス、そして劇作家のサミュエル・ベケットなどは、全てイングランド(中心)ではなく、アイルランド(辺境)出身の作家たちです。そして、思い起こせば、「保守思想」の元祖でもある、あのエドマンド・バークも、実はアイルランドの出身者なのでした。
もちろん、これはイギリスに限った話ではありません。ドストエフスキーやチェーホフの文学が圧倒的なのは、彼らがシベリヤやサハリンといったロシアの「辺境」を経験したことが決定的に大きい。あるいは、日本の戦後文学でも、決定的に重要な作家である大江健三郎は「四国の森」の出身ですし、中上健次は紀州の「被差別部落」出身です。いや、そもそも、この国で維新を成し遂げた人間たちも、薩摩と長州という「辺境」の下級武士たちでした。
そう考えると、今、沖縄から「日本」を考えるということは、やはり、とてつもなく重要なことではないかと思われてきます。なぜなら、ほかならぬ〈沖縄=辺境〉こそは、〈本土=中心〉が見えないように排除してきた問題が、最も凝縮して現れている土地だからです。それは、「東京一極集中と地方の疲弊」の問題に限りません。基地問題や日米地位協定(治外法権)に象徴される「対米従属」の問題――つまり、この国が、本当は独立も自立もしていない半植民地国家だという「戦後」の現実――は、その最たるものだと言っていいでしょう。
たとえば、米軍基地一つとっても、戦後、本土では6割以上縮小されてきたものが、沖縄では2割程度の縮小に留まっています。その結果、沖縄の本土復帰時(1972年)でさえ、59%(沖縄)対41%(本土)だった基地負担率は、今では何と71%(沖縄)対29%(本土)になってしまっていると言います。しかも、国土面積のたった0.6%の沖縄が、米軍基地の71%を負担しているというのですから、あの本土復帰時の「核抜き、本土並み」(佐藤栄作)という約束は何だったんだ! と文句が出てきてもおかしくありません。
もちろん、沖縄での反基地運動が、〈日本政府=本土〉に対する不信、あるいは感情的な反発と相まって、「絶対平和主義」や「沖縄独立論」の空想と一部手を結んでしまっているのは残念なことです。が、少なくとも自分が「俘虜」であることを自覚できていない「東京人」よりは、自分が「俘虜」である可能性を、その米軍基地の存在によって日々意識させられている「沖縄人」の方が、正確な自己認識を持っていることだけは間違いないでしょう。
しかし、だから、沖縄からこそ、「日本よ、国家たれ!」と声を上げるべきではないのでしょうか。「国民」(沖縄県)ではなく、「アメリカ」の方を向きながら、その場凌ぎの「嘘」を繰り返す「国家」に対して、その姿勢の歪みを問い質すべきではないでしょうか。「憲法改正」による「対米従属」の是正と、それによる「国民国家」の立ち上げ。そして、その回復された主権を通じてのアメリカとの交渉(自立)。それを目指すことだけが唯一、今、目の前にある〈危機=基地問題〉に対処する際の、筋の通った態度ではないでしょうか。
なるほど、それは沖縄でも本土でも少数意見でしょう。が、本質的な議論は常に「辺境」から始まるというのも、歴史が示している真実です。遠い道のりではありますが、諦めず、一歩ずつ歩いていく必要があります。
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