こんにちは、浜崎洋介です。
いよいよ『表現者クライテリオン』11月号が刊行されました。今度の特集は「ネオリベ国家ニッポン―『新自由主義』という悪魔の碾き臼」と題して、徹底的なネオリベラリズム批判の特集を組んでいます。「新自由主義」の「悪魔」性について語り出したら、おそらく、このメルマガ10回分あっても足りない程だと思いますが…(笑)、今日は、それに因んだ「こぼれ話」的なもの――けれども本質的な話――を書いておきたいと思います。
「新自由主義」がどのような経済思想なのかについての本格的な議論は、本誌に譲りますが、その根本態度を一言で要約すれば「選択と集中」ということになるかもしれません。つまり、競争によって「選択」し、その勝者に「集中」的に投資していくということです。
しかし、これほど「息苦しく」、なおかつ「危険」な社会はありません。なぜなら、「選択と集中」によって一つのシステムを絶対化すればするほど、「資本」(効率的な交換)によって掬い取れないもの(交換不可能な土地、そこに生い育った人間の感情、身体、人生そのもの)は、「非効率的なもの」として排除されていくのと同時に、そのシステムにとって「想定外」の事態(危機)に対して、私たちは徹底的に脆弱になってしまうからです。
事実、その「選択と集中」が機能せず、それとは逆に「選択」も「集中」もされなかったものが「危機」を救ったという事例は、「歴史」のなかにいくらでも見出すことができます。なかでもユニークな例が、薩摩藩の「郷中教育」でしょう。
これは、磯田道史氏の本(たとえば『歴史の読み解き方』朝日新書など)から知ったことですが、江戸時代の教育方法は基本的に藩によってバラバラだったものの、大きく分けると、タイプは二つあったと言います。一つは、多くの藩が模範とした「会津型」。もう一つは、中世の頃から例外的に続いてきた「薩摩型」です。
まず、「会津型」が出来上がるまでには、次のような経緯があったと言われます。
1750―1800年頃までに藩の財政が行き詰ってくると、全国に多くの藩校が設けられるようになりますが、それは、まさに藩の「財政再建」のために官僚を育てるためのものでした。城下町に暮らす藩士(サラリーマン藩士)の子弟を、学校で鍛え、試験を通じて「選択」し、その者たちを「集中」的に登用し、藩の改革に当たらせたのです。それに最初に成功したのは、どうやら熊本藩だったらしいのですが、それに目をつけ、熊本藩から政治顧問を呼んで改革を推し進め、それを一般化させたのが会津藩だったということです。
もちろん武士ですから、単なる実務能力以外にも、教育能力や忠義などの徳目なども重く見られていました。が、それでも、江戸の最高学府である昌平坂学問所の書生寮(全国各地の諸藩の秀才を集めて勉強させていた寮)において、舎長を四人も出したのは会津藩だけだったこともあり、その秀才教育は次第に全国に知れ渡っていきました。
けれども、御承知のように、この「学校官僚制国家」を思わせる会津藩の秀才教育は、幕末の「危機」に際してほとんど機能しませんでした。つまり、「選択と集中」によって集められた紋切型の優等生には、柔軟な自立的「思考」ができなかったということです。
それに対して、「危機」において頭抜けた自主性を発揮したのが薩摩藩でした。明治維新を成功させたのが、なぜ薩摩の「人材」だったのかということについては、様々な議論がありますが、なかでも、薩摩武士を育て上げた「郷中教育」は無視できないでしょう。
日本の「辺境」である薩摩では、幕末にあっても、未だ兵農分離が進んでおらず、戦国武士の気風が残っていました。事実、城下町ではなく農村に土着して田を耕していた薩摩武士は身分や礼儀にうるさくなく、また藩主の許しなく「縁券売買」(100石の俸禄を貰う武士が、借金返済の為に30石の権利を売るなどの行為)ができるなど、他藩に比べて武士の自主性が許されていました。そして、その自主性を育てたのが「郷中教育」でした。
まず、武士の子弟たち(6、7歳から15歳くらいまでの少年)は藩校に通いません。勉学意欲のある子供たちは、まず、その日に教育を受けるための集会場を決め、他人の家座敷を間借りする交渉から始めます。そして、いざ場所が決まれば、寝起きがけに先輩宅(24~25歳くらいまでの先輩宅)に集まって習字を一時間ばかりすると、また自宅に戻って朝飯をかき込み、その後に集会場に集まって、今度は、「長老(おせんし)」と呼ばれる先輩と共に四書を素読します。そして面白いのが、四書(教科書)に対する独特のアプローチです。
たとえば、西郷隆盛や大久保利通などは、子供たちに少し本を読ませた後に、「本に依ってやるといけない。本を畳んで机に伏せろ」、「お互いの肚を出せ。そうせんと本当の学問ではない」などと言いながら、「志とは何か」…「それは、国家に志す丹誠です」。「では丹誠とは何か」…「それは…」といった議論を徹底的に繰り返したといいます。
その過程で少年たちは、本で覚えたこと、あるいは抽象概念として学んだことが、どれだけあやふやで、あいまいなものなのかということを思い知り、そこから改めて四書の言葉を、実践の現場に差し戻し、その概念が実際に役立つ「時と処と立場」を自分の頭で考えていったというわけです。つまり、観念をただ観念として覚え込むのではなく、必ず目の前の現実と関わらせながら――「郷中教育」では、「もし~だったら」という反実仮想のシミュレーションを繰り返したと言います――、その観念を練磨していったということです。
事実、昼過ぎに素読を終えた子供たちは、早くも本と付き合うことをやめてしまいます。後は、少年団で川に魚釣りに行ったり、相撲を取ったり、木刀での切込みを練ったりししながら、夜は、友達の家などに集まって、「朝鮮でのトラ狩り」などの「二才話(にせばなし)」(講談や落語のようなものでしょうか)を語り聞くことに興じたといいます。
そして、この「覚え込ませ、処理させる」のではなく、「身体を使って、考えさせる」という、当時としては決して効率的とは言えない薩摩の教育が、あの真に実際的な薩摩藩士を育て上げ、あの明治維新の「危機」を乗り越えさせることを可能にしたのでした。
この一例だけでも、「選択と集中」がいかに危険な方法であるかが分かるでしょう。「思考」はレールの上では育ちません。それは、絶えざる現実(他者)との接触――また、そのなかでの挫折や、それをバネとして掴む覚悟や勇気――の中にしか育ちません。そして、それを担保しておくためにこそ、私たちには「余裕」(冗長性)を必要とするのです。
最後に、「郷中教育」で育った西郷さんの言葉(現代語訳)を引いておきましょう。
「税を軽くして国民を豊かにすれば、国力も強くなるものである。だから国家が多くの課題を抱えて、財政が苦しくなったとしても政府が我慢すべきであって、税の制度を変えて国民に重税をかけるといった政策は採るものではない。よく古今の事績を見てみなさい。道理が明らかでない世においては、財政が不足して悩むようなとき、必ずといってよいほど、小賢しい小役人を使って、民を攻め立てて税を取り立てさせる。こうして一時の欠乏を補うことのできる才能のある者を会計に明るい役人と見て、あの手この手で民から搾り取るといったことをさせる。そのため、国民は国民で、その税の取立てを逃れるためにさまざまな詐欺的行為をしたりして狡猾に動き、結局政府と国民が互いにだまし合い、お互いを敵と思うようになり、ついに分裂してしまうのである」(『南洲翁遺訓』猪飼隆明訳)
果たして、これほど巧みに「緊縮」を強いる現代政治を描写した言葉もないと言うべきでしょうか。さすがに、「選択と集中」で育ってこなかった人間の言葉は違います。
※―この度の『表現者クライテリオン』の特集論考は、一見抽象的に見えるものもありますが(特に私の論考…汗)、その背後には、常に、このような具体的手触りがあります。ぜひ、雑誌を手に取って、その言葉を自分自身の「現場」と付き合わせて頂きたいと願っております。そこから、まさに各自の自立的な「思考」を開始していただけるようであれば、編集委員として、それに越した喜びはありません。何卒、よろしくお願い致します。
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