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【柴山桂太】「サッチャー革命」の理想と現実

From 柴山桂太(京都大学大学院准教授) 

先週から始まった松林薫さんのメルマガ記事は、大変面白い内容です。

少し前の新聞を読み返すと、かえって「いま」が見えてくる。

平成元年2月1日の新聞には、人手不足から「省力化投資」や「外国人雇用」の必要性が議論されていたり、過労死問題から「働き方改革」(という言葉は当時ありませんでしたが)が話題になっていたりと、いまに続く問題がすでに現れていた、と書かれています。

30年前からいまに至るまで、世論は同じ問題の周りをぐるぐる回ってきたことが分かる。これは大変に重要な指摘だと思います。

われわれは、遠い過去については興味を持ちますが、「近い過去」はすぐに忘れてしまう傾向にあります。忘れてしまうので、いつまでも似たような過ちを繰り返すことになる。その悪循環を断ち切るためには、遠い過去だけでなく、「近い過去」からも教訓を引き出す必要がありそうです。

話は変わりますが、最近、冨田浩司氏の『マーガレット・サッチャー』(新潮選書)を読みました。最近の英米圏で進む伝記研究の成果を踏まえつつ、サッチャーという政治家の「核」にあったものをつかみだそうとする本格評伝です。

本書を読むと、サッチャーの問題意識が経済にあったというより、道徳にあったということがよく分かります。彼女が改革しようとしたのはイギリス国民の精神構造でした。個人が神に向き合いつつ義務を果たしていくという、道徳の高みを取り返さなければならない。

「経済学は方法に過ぎません。目的は魂を変えることなのです。」というサッチャーの言葉が、彼女の信念の所在を明確に示しています。

少女時代のマーガレットは、熱心なキリスト教(ウェスリー派のメソジスト)の家庭に育ちました。終生、強い信仰心を持ち続けており、それが彼女の政治的信条にも影響を与えたと考えられます。倹約と勤勉、個人の責任、独立心、忠誠心などの徳目は、政治家としてのサッチャーが強く重視したものでした。

新自由主義は、今では財界や富裕層の利害を代弁するイデオロギーのように言われています。しかしサッチャーが期待したのは、額に汗し、勤労に励む人々が自分の味方をしてくれることでした。国有企業の株式を売却して個人株主を増やしたのも、公営住宅を安値で民間に払い下げたのも、サッチャーが国家の中心的な担い手と考えた庶民層に力を与えるためでした。

つまりサッチャリズムと呼ばれる一連の経済政策は、少なくともその動機においては、彼女なりの道徳的な理想を実現する手段でもあったということです。

しかし結果はどうなったのか。倹約と勤労の精神が復活するどころか、一般庶民まで過剰な消費文化にどっぷり漬かるようになった。金融スキャンダルは相次ぎ、重役連中が法外な報酬をわがものにする時代が到来してしまった。

個人の責任を重んじるはずの市場は、マネーゲームに踊った後で崩壊し、最後は政府が税金でその尻ぬぐいをせざるをえなくなった。富裕層と庶民層の不平等は拡がり、社会秩序は著しく不安定なものになった。

他にも例を挙げれば切りがありません。国民の宗教的、道徳的な「魂」を取り戻そうとする高邁な理想は、結果的に、理想とはほど遠い社会に行き着いたわけです。

政治の理想が現実によって裏切られるという事例は、歴史にごまんとあります。だからサッチャーだけが特殊というわけではありません。しかしそれでも、社会主義によって歪められた道徳を回復しようとする改革が、資本主義の悪しき精神を助長する結果に終わったというサッチャー改革の末路には、考えさせられるものがあります。

イギリスだけではありません。日本でも、「新自由主義」の推進者は、サッチャー的な意味での道徳の回復をやたらと強調する傾向にあります。庶民の誰もが持っている、倹約や勤勉の精神に訴えかけて改革を進めようとする。しかし、改革が目的を達成することはありません。むしろ、そのような改革で一番の犠牲を被るのは庶民であることの方が多いのです。

サッチャーは、この時代を象徴する政治家として、長く語り継がれることになるでしょう。イギリス人であろうとなかろうと、現代人はいまだサッチャーが敷いた路線の上を歩いていると言えます。

その後に与えた影響力の大きさという点では、サッチャーは確かに「偉大な」政治家でした。しかし、数々の失敗が明らかになっているにも関わらず、いつまでも同じ路線を歩き続けるわけにはいかない。正しく決別するためにも、サッチャーという「近い過去」を代表する政治家の事績を、あらためて辿り直してみる必要がありそうです。

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