2月に発売される次号の『表現者クライテリオン』では、第二特集として「移民」問題を扱うのですが、その関係でこのメルマガでも施光恒さんが何度か紹介されていたダグラス・マレー著『西洋の自死』(12月14日に邦訳版が出ています)を読みました。
移民問題の各論については雑誌で論ずるのでここで詳しくは触れないことにしますが、我が国の今年1年、さらには平成の30年を振り返る上でも重要なのではないかと思ったことをいくつか述べておきます。
『西洋の自死』はヨーロッパ各国における移民の大量受け入れの歴史を描いたもので、もちろん移民の過度な流入に批判的な内容なのですが、マレー氏の議論が特徴的だなと思ったのは以下のような点です。
1) 移民受け入れから利益を得る人たち(たとえば労働者への賃金の支払いを抑制することができる経営者や資本家)の思惑よりもむしろ、必ずしも直接の利益を得るわけではない大多数の知識人や各国の政府が、リベラルなイデオロギーにとらわれすぎたせいで、いかに大量移民のもたらす危険を過小評価し、対策を怠って来たかに焦点を当てている。
2) 移民によって賃金が抑制され、労働者が不利益を被るという経済的な影響よりも(もちろんそれにも触れられているのですが)、文化的背景が大きく異なる人々、とりわけイスラム圏の人々の大量流入によって、ヨーロッパ人が「ヨーロッパ的」と考えてきた文化や文明のあり方そのものが滅びつつあるのだということを強調している。
3) ヨーロッパの近代文明それ自体が、19世紀の終わりから20世紀の始めの頃にかけて一種のアイデンティティ・クライシス(マレー氏はそれをヨーロッパ文明の「実存的疲弊」と呼んでいる)に陥り、自分たちの文化や歴史に対する自信を失ってしまっていて、そのせいで移民受け入れ推進論に対抗する思想や文化を築くことができなかったという、文明史的スケールの問題を扱っている。
「ヨーロッパの近代文明」とは何だったのかについては様々な言い方ができますが、ひとまず単純に、「市民革命」と「産業革命」に象徴されるような時代であり社会であると捉えておきましょう。つまり、政治においては「民主主義的な制度」をもち、経済においては高度に発達した「産業システム」を持つ社会です。日本も大まかにはその流れに属してきました。
こうした社会は全体として、個人主義や合理主義を唱える「啓蒙思想」(今風にいえばリベラリズム)によって率いられてきたと言えるわけですが、それと同時に、「民主的な社会」であれ「高度な産業社会」であれ、人々の大規模な協調や協働を必要とするわけですから、実際には「文化的な同質性」に支えられてこそ機能してきました。
ところが、啓蒙思想やリベラリズムが持っている一つの必然として、宗教や民族といったものはどんどん社会の後景に退いていくことになります。政教分離が進められ、伝統的な文化や習慣には執着しないことが望ましいとされるようになる。また、二度の世界大戦やナチスドイツの記憶が、ヨーロッパの歩んできた歴史に対する自信を失わせもしました。こうしてヨーロッパの人々はギリシア・ローマの伝統やキリスト教に根ざした文化的アイデンティティを徐々に手放していき、「人権」「寛容さ」「多様性」といった抽象的なイデオロギーが、かろうじて社会の統合を果たす原理となったわけです。
すると、例えばイスラム圏からの移民を「文化が異なるから」という理由で排除することはできなくなります。しかし困ったことにイスラム圏からの移民は、全くキリスト教的でないばかりかリベラルでも啓蒙的でもない(もっと露骨に言えば、ヨーロッパ人にとって退歩と感じられるような)文化をヨーロッパに持ち込みます。そしてその規模がある程度以上に大きくなれば、全くヨーロッパ的でないコミュニティがあちこちに形成され、社会のあり方を変えてしまいます。たとえばマレー氏によると、移民増加の影響で、女性やユダヤ人に対する差別が目立って増加しているようです。
このようにして、リベラリズムが逆説的に非リベラルな文化を招き寄せ、自滅していく。これが「西洋の自死」というタイトルの意味なのですが、この議論を受けて、現在の日本の状況を理解する上で重要だと思うことが2つあります。
1つは、日本も西欧が経験しているような、長い時間をかけた「文明としての自死」の過程にいる可能性が大いにあるということです。マレー氏は、変化の激しい時代にちょうど自文化に対する自信を失っている国というのは、「大々的かつ画期的な変化を求めずにはいられないものだ」と言います。平成の30年間日本が続けてきた「改革」の数々は、まさにそういうものでした。
アメリカや中国やロシアのような国々は、サバイバルのためには手段を選ばないという意味である種のヤクザ性のようなものを持っていて、そういう国家は力づくで「近代文明の危機」の時代を乗り越えていくかも知れません(国民が幸福でいられるかや世界秩序が安定するかは措いておくとして)。どちらが素晴らしいと言いたいわけでもないのですが、ヨーロッパ諸国や日本が人間的な国だとすると、米中露はサイボーグのような国で、混迷の時代に強いのは後者でしょう。人間が一度失った「自信」を取り戻すのは難しいという意味で、日本はヨーロッパと危機を共有しているように思えます。
もう1つは、日本はヨーロッパに比べればある意味で有利であったにもかかわらず、同じ轍を踏もうとしているということです。ヨーロッパは何だかんだで近代の先端を走ってきたわけで、失敗もまっさきに経験するというのはある意味で自然なことです。一方日本はどちらかといえば新興国の一つであって、欧米の失敗から学ぶチャンスもあったわけですが、全く学ぼうとはしてきませんでした。
また、『西洋の自死』を読んでいるとよくわかりますが、ヨーロッパは中東や北アフリカ諸国から陸続きないし地中海を経由しての移民が押し寄せやすい地理的環境にあることに加え、その周辺諸国が「アラブの春」やシリア内戦などの混乱に陥ったことによって、難民・移民の流入が加速されました。マレー氏はこれを「致し方ないことだった」とは言わないのですが、日本に比べれば人口流入の圧力が遥かに大きいことは間違いありません。ところが日本は、そういう巨大な圧力にさらされているわけでもないのに、いまさら進んで移民の受け入れ拡大を進めようとしています。
電力自由化にせよ水道民営化にせよ移民拡大にせよ、「避けられたはずの失敗」を進んで招き寄せるというのが「平成日本」の基本的な姿であり、その姿勢がいっそう際立ってきているということを改めて実感したのが今年でした。というか、毎年そうなのですが……。
来年以降状況が好転するとはあまり思えませんが、悲観的な文明論で有名だったホイジンガが80年前に残した、
「わたしがオプティミスト(楽観主義者)というとき、それは、おそろしいほどまでに堕落と腐敗を示す数々の徴候にとりかこまれながらも、明るい調子で、まぁ、それほどわるくはないさ、みんなけっこううまくいっているさ! と叫ぶ手合のことではない。よくなるほうへとむかう道がほとんどみつからないばあいでも、なお希望を失わない人のことを、わたしはオプティミストと呼ぶのである」(『朝の影のなかに』)
という言に従い、真の意味でのオプティミストとして『表現者クライテリオン』は言論を続けていくつもりです。皆様、来年も引き続きご購読頂ければと思います。
※なお、本メルマガは、1月6日まで「年末年始休暇」とさせていただきます。次回の配信は、1月7日(月曜日)です。
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