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【川端祐一郎】「民主主義の危機」と「暮らしの危機」

川端 祐一郎

川端 祐一郎 (京都大学大学院准教授)

コメント : 2件

最近、国内外のメディアで「民主主義の危機」が論じられているのをよく目にします。このメルマガでも施光恒さんなどが繰り返し指摘されてきたことですが、世界中で「権威主義国家」の存在感が大きくなっていて、逆に「自由民主主義国家」の地位が相対的に低下しつつあるのではないかという議論が、ここ数年で非常に増えました。

日本でも、S・レビツキ―とD・ジブラットの『民主主義の死に方』という本が昨年翻訳されて少し話題になりましたし、今発売されている雑誌『世界』の4月号では、「権威主義という罠」という特集が組まれています。いずれも、権威主義が台頭する世界で、危機に陥っている民主主義をいかにして救えるのかという問題意識に基づいて書かれたものです。

権威主義(Authoritarianism)というのは少し分かりにくい用語ですが、要するに民主主義的ではないという意味です。典型的には「独裁政治」のようなものを指していますが、一応は選挙が行われていて複数の政党が存在するような国であっても、特定の政治家や政治勢力が事実上独裁に近い権力を奮っていて、長期的に政権の座に就いているようなケースも「権威主義的」だと言われます。

ひと口に「権威主義の台頭」と言っても、いくつかのパターンがあります。1つは、もともと権威主義的な体制を持つ国家が、本格的な民主化をすることなく国力を増大させるというケースです。中国やロシアがその典型ですが、他にもアラブの産油国、シンガポール、インド、トルコなどが挙げられます。もう1つは、先進民主主義国の政権が民主的な手続きを軽視するようになるというパターンですが、よく挙げられるのはトランプ大統領の独断的政権運営です。一部には、日本の安倍政権を同じような意味で権威主義の一種だと指摘する論者もいますね。

従来、日本人に限らず旧西側諸国の人々は、多くが「本格的な経済発展には民主化が不可欠である」というイメージを持ってきたと思います。しかし中国の発展を見れば分かるように、「民主化」は経済発展の必須の条件ではないことが明らかになりつつあり、また逆に東欧や旧ソ連圏では、民主化はしたものの豊かになれなかった国がいくつも存在します。そのせいもあって、欧米の先進諸国でも、特に若い世代の中には、「自由民主主義」を重要な価値であるとはみなさない人が増えているらしい。

その権威主義国家がなぜ力を付けてきたのかについて、『世界』の特集では宇山智彦氏がその背景要因を整理していて参考になります。新自由主義的改革にせよ、その痛みを誤魔化すための社会政策にせよ、権威主義国家は強大な権力によって迅速に実行することができますし、産業への大規模な投資を国家主導で進められることも強みになります。また現代ではITが重要な産業になりましたが、この分野は技術移転が容易であるため国内の市民社会・産業社会の成熟を待つ必要がなく、権威主義国家でも容易に成長させることができる。

もう1つ重要なのは、これも宇山氏が指摘していることですが、権威主義体制そのものが統治の技術を洗練してきているということです。かつての権威主義はいわゆる「独裁」「専制」のイメージで、傍若無人な権力者が国民を虐げているという構図でした。しかし現代の権威主義体制は、部分的には「野党」の存在を許容して民主的競争が存在することを装うとともに、経済的利益を国民に還元することにも余念がなく、「独裁的ではあるものの、人々からそれなりに支持される体制」として台頭してきているわけです。

そう考えると現代の権威主義体制は、民衆の支持を上手く取り付けてはいるわけですから、単純に「非民主主義的」と形容することはできません。それを「競争的権威主義」(政党間の競争が一応存在はする権威主義)と呼ぶ人や、「非自由主義的民主主義」(国民の要望に応えることを旨としてはいるが、自由で平等な政権争いは事実上存在しない民主主義)と呼ぶ人もいるのですが、要するに純粋な独裁政治と純粋な民主政治の間にあって、欧米や日本よりはやや独裁寄りというぐらいに捉えておくほうが良いのでしょう。

『世界』の特集で紹介されていましたが、中国国内の調査によると「民主主義とは、定期的な選挙と政党間の競争を通じて指導者が選ばれる政治体制だ」と考える人はたった15%で、85%の人は「民主主義とは、指導者が国民に奉仕する体制だ」と考えているようです。これはつまり、「独裁的な体制であっても、国民のニーズを満たしている限りは民主主義的だと言えるじゃないか」という世界観ですが、これがまさに各国で広まりつつあるというのが今の状況です。

伝統的な議論では、平等な政党間競争と透明性の高い選挙制度こそが民主主義の根幹であると考えられていて、この民主主義観を指して政治学者のR・ダールは「手続的民主主義」と呼びました。しかし現代では、手続の透明性などは二の次で良いので、とにかく国民が暮らしたいように暮らせる社会を実現してくれる政治体制や指導者こそが「民主主義的」だとされるようになりつつあるわけです。言い換えれば、現代の「権威主義の台頭」は、「手続的民主主義の危機」ではあっても、「民主主義の危機」とまで言ってしまうのは不正確かも知れません。

『世界』の特集もそうなのですが、左派の権威主義論はあくまで、手続的民主主義が危機に陥っているという点に焦点を当てがちです。しかし今世界で生じているのは、民主的な手続なんかよりも、「我々の暮らしを何とかしてくれ」という要望に答える指導者が求められるという現象です。私は権威主義を良い政体だとは思いませんし、手続的民主主義には価値があると思いますが、その前にまず「国民の暮らし」が危機にさらされているのが今という時代なのだということをよく理解する必要があります。

先進国でトランプのようなポピュリストが誕生してきているのは、明らかに冷戦後の世界が新自由主義的グローバル化を推し進めてきたことへの反動で、労働者の怒りが爆発しているという現象です。また、旧西側以外の国々で権威主義体制が力を持っているのは、現実に国民経済を改善してきた実績があるのと、例えばトルコにおけるクルド人問題のように、治安や安全保障における不安定要因を強権によって封じ込められるという期待があるからです。経済的に豊かで物理的に安全な暮らしを送りたいと思う人が多いのは、当たり前ですよね。

豊かで安全な社会を築く上では、国民の求心力となるリーダーシップや「権威」がよく機能することがあります。しかし冷戦崩壊後のグローバル化する世界では、「国家権力」の重要性が否定され続けました。そのおかげで、西側諸国では新自由主義が労働者の生活を貧しいものにし、中東や北アフリカ等では無理な「民主化」が治安の低下をもたらしました。またロシアや東欧諸国、トルコなどでは、西欧中心のグローバリズムが自国の伝統的価値観を破壊しつつあることへの不満が鬱積していて、その反動が権威主義体制の支持に繋がっているようです。

ところで、「平成」というのは非常に面白い時代で、ほぼ冷戦の終焉とともに始まり、ポスト冷戦期的グローバリズムの瓦解とともに終わりを迎えつつあります。この転換期に左派は、権威主義の台頭を目にして「民主主義の危機」を叫んでいるわけですが、危機に陥っているのは「手続的民主主義」に過ぎないし、もっと重要なのは、平成期=ポスト冷戦期の政治が「暮らしの危機」を生み出してきたのだと理解することです。民主的手続や制度はもちろん大事ですが、その前に、国民の暮らしを良くする方法を考える必要がある。そうしないと、権威主義の台頭を防ぐことも、手続的民主主義を守ることもできないでしょう。

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コメント

  1. 神奈川県skatou より:

    西洋の民主主義の根源は、兵役だったと理解しています。

    古代ギリシャ重装歩兵、命を懸けてる、集団こそ武力実現、だから、軍事=政治の進路に、意見を言えるのは道理かと。

    なので歴史的に選挙権が成人男子、あるいは家長なのは、男女差別や偏見でなく、その流す血の代償だったという訳で。
    (古代に女性が選挙権を要求しても笑われるだけでしょう)

    国民に対する国家の要求が希薄になればなるほど、民主主義という制度は、もしかすると空文になるのかもしれない。自分もこの漂流感を持たずにいられません。

    戦略的発想に、きわめて重要なお話だと思いました。
    たいへん勉強になりました。

  2. 大木啓司 より:

    いま、日本の民主主義が壊されている、といえば多くの人は首肯するだろう。中には朗々とご高説を述べる人もいる。それはそれで重要なことだ。結構なことだ。しかし、自分の高見の立ち位置からもう一歩踏み込んで、大衆の中に足を踏み入れたなら、そこに見える風景は全く違うはずだ。「俺たちに喰い扶持をよこせ」。時には怒りを通り越した、うめきにも近い、言葉にならない言葉を耳にするに違いない。その現実を直視せずして、民主主義もへったくれもなかろう。それをポピュリズムと言うのなら、今、都市のエリートやインテリは、そのポピュリズムこそ引き受けるべきではないか。インテリが本当のインテリであるために、何をすべきなのか。そのことを突きつけられている。エリートはエリートとして何をすべきか、そのことが求められている。

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