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【川端祐一郎】組織や社会は「属人的」に動いている?

川端 祐一郎

川端 祐一郎 (京都大学大学院准教授)

コメント : 1件

昨日、京都市内の太秦という地域で、市バスの路線維持のための住民運動を十年以上にわたって続けておられる、自治連合会の会長さんの話を伺う機会がありました。路線維持の住民運動といっても、「バス路線をなくすな」と市役所に陳情しているわけではありません。逆に、地域の住民に「もっとバスを利用しよう」と呼びかけているのです。

というのも、地域である程度まとまった需要がないと市バスの利益が出なくなり、減便や廃線になってしまえば、いざという時(たとえば自分が歳をとって自家用車を運転できなくなった時)に住民の側が困るからです。その活動はこれまでのところ大きな成功を収めていて、バスの利用者は右肩上がりで増え続け、市バスの路線経営も黒字化しているそうです。

ところで、こういう地域住民を束ねるような活動の実例を聞くたびにいつも思うのですが、「成功のためのノウハウ」というものがあるようでありません。インタビューする側は、たとえば「成功要因」を聞き出して、それをよその地域にも転用することができるのではないかと考えるのですが、聞けば聞くほど「この人がいたから成功した」としか思えなくなってくるんですよね(笑)

地域のリーダーのどこが優れているのかを、一応記述することはできます。強い当事者意識と責任感、周囲から好かれる人柄、職業人生を通じて培った実務能力、PTAや自治会の活動を長く続ける中で築き上げてきた信頼感、そして何より地域に対する愛情、等々。しかしそうやって要素に分解して語ってみても、どうもその人物の「凄み」のようなものが捉えられません。

直接会って話すと「たしかにこの人なら地域を引っ張っていけそうだ」と分かるのですが、この「凄み」を言葉で伝えるのはとても難しい。それにこれらの要素は、頭で理解することはできても、それを機械の部品のように複製して他の人物に装備することができるわけでもありません。

こういう地域運動のケースに限らず、日々の生活や仕事の中で、リーダーの「属人的」としか言いようのない力がものごとを進めている場面は、非常に多いですよね。しかし社会科学は、こういう力を捉えるのが苦手です。

リクールという哲学者は、人物の本当の魅力や迫力というものは、「ミメーシス」という形でしか伝わらないのだと言いました。ミメーシスというのはギリシア哲学の用語で、模倣や再現を意味します。人物像というものは、さまざまな出来事が連続する文脈の中で、一つの全体として表現されなければならず、しかも受け手がその表現に感情移入し、想像の中で模倣・再現できたときに初めて伝わるのだというような話です。言うまでもなく、その表現に適した言葉は、科学的な分析というよりは物語的な叙述です。

少し話が変わりますが、先日、ある中央省庁でITシステムの開発を担当されている方にお会いして、システム開発プロジェクトの成功/失敗要因についてあれこれ議論しました(私も前職の会社で5年間ぐらいシステム開発のプロジェクトに関わっていたためです)。そこでも要因を分析的に挙げていくことはいくらでもできたのですが、結局のところ、プロジェクトの中心にいるマネジャーや担当者の「属人的な力」が一番大きいのでは?という意見で一致してしまいました。

もちろん、属人的なものに左右されにくいプロジェクトもあるにはあるのですが、現場で働く者の実感として、「あの人にしか頼みたくない」「あの人となら仕事をしてもいい」と感じる場面はとても多いのです。そして、その人物の「力」の何たるかは「ミメーシス」的にしか伝えることができないもので、「ノウハウ」や「スキル」として一般化するのが難しい。

企業の経営でも国家や自治体の政策でも、うまくいった施策の「横展開」(元々はトヨタの社内用語だったと思いますが、同じ取り組みを他の場所にも適用することです)がしばしば試みられます。それは確かに大事なことで、実際に横展開がうまく行って業務が改善することもあるのですが、形式的な知識としてのノウハウが横展開されているのかというと、必ずしもそうではない。むしろ、展開先に優れたキーマンがいたからこそノウハウの展開が可能だったのだ、というケースは少なくありません。

もちろん、何でもかんでも属人的な力に頼っていては、リーダーやキーマンが居なくなるたびにノウハウが失われるわけで、組織のパフォーマンスは安定しません。だから多くの組織では、属人的に始まった仕事を標準化・ルール化して、何とか「他の人でもできる仕事」に変えようと努力します。しかし、いくら標準化の工夫をしても、掬いきれない属人性が残っているものなんですよね。

だから組織の運営というのは常に、「属人的な力」と「標準化されたノウハウ」の間を行ったり来たりする、往復運動のようなものです。この往復をいかに上手にこなしていけるかに、組織の成功がかかっているとも言えるでしょう。そういう努力の中にこそ、重要な智慧があるのです。

さてそこで思うのですが、「平成」というのは、この「属人化」と「標準化」のあいだの緊張関係を引き裂いてしまう時代であったところに、大きな問題があったのではないでしょうか?

民間企業が仕事の機械化やIT化を進めるのはまぁ仕方がないのですが、それだけではなく非正規雇用への移行も大幅に進み、標準化された業務への依存が高まったように思います。それはある面では効率化だと言えるのですが、標準化された組織にはどこか、ダイナミックな活力に欠けるところがあります。

一方で平成の時代には、「既得権の打破」と称してさまざまな規制が緩和され、また公的機関が民営化されるというような「改革」が繰り返されました。規制というのはある意味で標準化されたルールですが、たしかにそれらの中には時代に合わないものもあったでしょう。しかし急進的な制度改革は、その変化や混乱に乗じる形での「属人的」な取引をあちこちに生み出すもので、上手く立ち回った一部の人々に新たな既得権を付与する結果になることが往々にしてあります。

そのようにして、一方では過剰な標準化により社会や組織の活力を犠牲にして、他方では過剰に属人化した利権を作り出してきた。それが平成という時代だったとすれば、令和の御代に我々は、属人化と標準化のより良い組み合わせとはどんなものなのかを改めて考えなければなりません。そして恐らくですが、そのためのヒントのいくつかは、昭和の日本的組織の中に見いだすことができるのではないかと、私は思っています。

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コメント

  1. 神奈川県skatou より:

    現在、ITシステム開発のどまんなかに居りますので、さまざまに思うことがあります。

    最近社内で、分かる人には伝わっている話があります。
    ITシステムは製造業じゃない。サービス業だ、と
    (きっと属人性のお話と、重複する意味合いだと思います)。

    IT開発は在庫ができず、形の定まったものを売る業種でなく、効果を実現する、つまり価値を提供する仕事なのだと。

    しかし、日本のITシステム開発の手順は、サービス業のそれでなく、おろかにも製造業の手順をくそまじめに真似ており、その手順で品質なり、納期なり担保できると信じております。でも、そんな所作は現実に合致しませんので、現場では当然「人間力」にて隙間が埋められます。

    IT業界がブラックだ、といわれるのは、そんな矛盾が管理と現場に乖離を生み出し、結局は現場のちいさな担当者が「おまえの責任」という杭で磔にされ死んでいく、という構造になっております。(その死なせ方についてはいつか纏めようかなと)

    集団意識が希薄になり、みな個人という単位になっていく世界。
    労働者も「おまえの責任」という人質で人を動かされる。

    ちょうど平成にあたる時代は、トッド氏らの主張のように、国民国家の崩壊、そしてそれを始めたのはエリートの反乱、つまりは連帯からくる国民への責任を放棄したこと、それによる、伝統的民主主義国家における社会の壊死だった、ということなのかもしれません。

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