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【室伏謙一】幕末の狂歌を起点に考える、幕府の日米外交-本当に弱腰だったのか?

室伏謙一

室伏謙一 (室伏政策研究室代表・政策コンサルタント)

コメント : 2件

 「泰平の眠りを覚ます上喜撰たった四杯で夜も眠れず」という狂歌、おそらく知らない人はいないのではないでしょうか。幕末に日本に来航したアメリカのペリー艦隊への幕府の対応、狼狽ぶりを揶揄した歌とされています。強気のペリーに、それに屈する弱腰の幕府、長年の鎖国で外交音痴、その結果不平等条約を結ばされた、そんな一連の出来事を象徴するような歌であると考えている人も多いかもしれません。

 しかし、この「泰平の〜」という歌、本当に幕末に詠まれたものなのでしょうか?「泰平」とは平和であること、社会が安定していること等を指す言葉です。「天下泰平」なんて言ったりしますね。となると、「泰平」の眠りから覚めてしまうということは、平和ではなくなる、社会秩序が乱れ始める、もっと言えば動乱期に入るということになりますよね。しかし、動乱期に入るのはもう少し後の話。そもそもこの段階で世の中が「泰平」でなくなるのかどうかなど、一般庶民はおろか幕府の役人や諸大名、藩士たちも知るよしがありません。つまり、その後に起きたことを知らなければ、「泰平の眠りを覚ます」などという表現を考え出すことは不可能なのではないかということです。

 「いやそうではない、泰平とは鎖国のことだ。」といった見解も出てくるかもしれません。しかし、「鎖国」と「泰平」は必ずしも結びつきませんし、「鎖国」が終わったからといって「泰平」でなくなるとも限りません。したがって、この見解は全く成り立たちません。

 そうなると、ますますこの歌はいつ詠まれたのか大いに疑問が湧いてきますが、それ以上に何のための詠まれた、はっきり言えば何の目的で作成されたのか、こちらについても更に大きな疑問が湧いてきます。

 さて、今更ながら、なぜ私がこの狂歌を持ち出してあれこれ論じようと考えたのかと言えば、それはこの歌がダメだった幕府、江戸時代を象徴するものの一つとされているからであり、本当にそうだったのか、この狂歌が一つのシンボルとなって誤った考えが浸透してしまったのではないか、それが今日に至るまで誤りの連鎖を繋いでしまうことになったのではないか、そうした問題提起をしてみたいからです。

 話を元に戻すと、先ほどの2つ目の疑問、これを呈するには明確な根拠があります。まず、事実として幕府は外交下手でも音痴でもありませんでした。そもそも鎖国という言葉自体、江戸時代に公的な用語としては存在しませんでしたし、通信は朝鮮、通商は清とオランダというように制限外交、制限貿易政策を採っていただけで、全く外交というものをしなかったわけではありませんでしたし、特に江戸後期、日本周辺に出没した外国船から密入国者や漂流者の処置という形で外交は行われていました。そしてそうした外交について詳細な記録をしっかり編纂していたのでした。

 そして、ペリー来航への対応についても、弱腰外交とは正反対の、冷静かつ毅然とした対応でペリー側の横暴な要求を見事に押し返しています。そもそもペリー艦隊が日本に来航することはオランダ側からの報告で幕府は予め知っていましたし、来航に向けて、徹底した情報収集・分析が行われていました。国際法も正確に理解し、今では当たり前になっている最恵国待遇についても熟知していました。(こうした幕末の対米外交に関する事実については、加藤祐三氏の『幕末外交と開国』をご参照ください。私の問題意識にピタリとはまり、大いに勉強になりました。これは日本人必読の書だと思います。高校生には少々難しいかもしれませんが、少なくとも大学生以上は読むべき、ではなく、読まなければならない内容だと思います。)

 つまり、泰平の世で軟弱になり、鎖国で世界情勢にも疎くなっていた幕府は、ペリーの黒船に驚き、アメリカからの要求を飲んでまった、といった類の話・説明は、端的に、嘘だということです。

 ではなぜそのような嘘がまことしやかに教えられ、定着していってしまったのでしょうか?それは、江戸幕府に続く明治政府が江戸幕府を否定する必要があったからです。諸外国との不平等条約は、その外交音痴で世界情勢に疎い幕府が、脅され騙されて結んでしまったもの、と小中学校や高校では教えられてきました。しかし、最初に不平等条約を締結したのは明治政府でした。オーストリア=ハンガリー帝国と締結した条約がそれです。しかし、折しも明治政府は国庫の収入源の柱の一つに関税を位置付けようと考えていた時でした。その明治政府が関税自主権を失うような大失策を犯していたなどと認めるわけにはいきません。そこで全責任を幕府になすりつけたのです。その後はご承知のとおり、江戸幕府の否定どころか江戸時代そのものを否定するまでに至り、その反対に「文明開化」の名の下に西欧化、西欧礼讃が推奨され、多くの歴史的建造物、価値の高い建造物は次々と取り壊されて西洋風の建物に建て替えられていったのみならず、江戸時代の価値観や哲学や思想まで、都合の悪いものは否定されていきました。

 こうした江戸時代否定は日本否定そのものであると言ってよく、日本人が西洋に対して自分たちを下に見る、同朋を下に見るという不可思議な傾向を生み出し、欧米に行くのはすごいこと、洋行帰りや欧米留学者は称賛され、欧米語を話すことが出来ること、欧米的な生活や装いをすることは社会的地位が高いこと見做されるようになっていきます。明治初期の公文書を見たことがありますが、特に外務省で作成された公文書は、国内で使用されるものも英語でした。(もちろん、外国語の文献を日本語に上手に、より正確に翻訳することで、高等教育を日本語で受けられるようにしたという偉大な成果もありますが、本稿ではそのことにはこれ以上立ち入りません。)

 しかし、と言いますか案の定、自らのよって立つところを否定して自らや自分たちの社会が強靭なものとして成り立つわけがなく、それが「反動的」な動きや、非列強諸国蔑視につながっていくわけです。(そうした点についての議論はその道の専門家の方々にお願いすることとしましょう。)先ほど誤りの連鎖が今日まで繋がってしまっていると指摘しましたが、今日的には新自由主義者やグローバリスト、更には左翼リベラリストたちによる過剰なまでの根拠なき日本否定、海外の事例礼賛、英語重視といった現象として現れていますね。

 話を戻しますと、ということで、「泰平の〜」という狂歌は対ペリー外交で狼狽する幕府を揶揄した歌ではないというこがはっきりしたわけですが、では何のために作られたのか?ここから先は完全な私の推論ですが、明治初期の幕府否定のための一般大衆向けのプロパガンダとして作られたのではないかと思います。なんと言っても同じような手口で特に戦後、特に平成に入るぐらいから日本はアメリカにやられっぱなしです。「日本は閉鎖的だ」とか「日本人は○○だ」と言ったような決めつけスローガン、レッテル貼りに似ていると思いませんか。もっとも、この狂歌の方がひねりが効いていて、事実を歌ったものではないとしても質は高いですが。

 なお、これはオマケのような話ですが、ペリー来航時、江戸っ子はどう反応していたかというと、なんと、こぞって黒船見物に出かけたそうです。舟を出して黒船の近くにまで行って見物する者も少なくなく、幕府は近づかないよう御触れを出したそうですが、そんなものどこ吹く風で、舟での見物は後を経たなかったようです。毅然とした幕府に物怖じせず好奇心旺盛な江戸っ子、びっくりしたのはむしろペリー艦隊側だったかもしれませんね。

 当時江戸から浦賀までは徒歩で1日以上かかったようです。黒船見たさで胸が高まる江戸っ子たちは、さぞ眠れなかったことでしょう。この狂歌、こうした興奮して眠れない、早く黒船が見てみたい江戸っ子たちの心中を詠んだ歌であると考えれば、「泰平」という言葉は引っかかりますが、なんとなく合点がいくかもしれません。

 

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コメント

  1. ネオコン・ファイリング より:

    狂歌については、明治政府が江戸幕府に濡れ衣を着せる過程に置いて、鎖国と言う言葉が出ていると思いますが、明治政府の弱腰外交を考えれば信憑性がありますね。江戸時代以前から日本では、大海原には常世の国から恵比寿様が幸をもたらすと言う価値観があり、平田篤胤が言うには「皇神たちの大御心にて、その御神徳の広大なる故、良くも悪くも皇国に御引き寄せられたモノは良く考え弁え吟味せよ。」なので、潔癖症的な明治政府の否定する鎖国とは大部分違う価値観が江戸以前にはあったと思います。

  2. 竹内隼人 より:

    毎度勉強させていただいています。今回もとても興味深い記事でした。江戸幕府が現在言われているような無能ではなかったことは知っておりましたが、具体的な話は知らなかったので、それに詳しい本を教えていただいたことはとてもありがたいことです。

    室伏さんの仰るように、明治政府が江戸時代を過度とも思えるほど否定的に考え、それが現在まで尾を引いていることには私も同感です。江戸時代=閉鎖的・明治時代=開明的というとても一面的な構図には辟易させられます。そして、この構図をそのまま戦前と戦後に当てはめて使いまわしていることにも。

    ただ、この外国と比較しての日本を卑下する構造と言いましょうか、こういった悪癖みたいなものは、明治以前にもあったようで、江戸時代では輸入された儒教の本が珍重されたり、それを持っているということで重宝がられた儒学者、いわゆる俗儒ですが、こういったものは日本の歴史をみれば散見されるものです。

    そもそも日本の有史からしてが、漢字がなければ存在していないので、外国の存在を抜きにして日本が語られなかったわけです。おそらく、その時代から外国崇拝する手合は跡を絶たなかったのでしょう。日本は有史以来、外国崇拝・自国卑下と日本の主体性との葛藤の歴史とも言えそうです。

    それはこれからも続いていくはずですので、日本人はしっかりしないといけませんね。そんなことを考えさせられた記事でした。次回の投稿も楽しみにしております。

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