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【小浜逸郎】和親条約も修好通商条約も不平等条約ではなかった――中級官僚の粘りと努力

小浜逸郎

小浜逸郎 (評論家/国士舘大学客員教授)

仕事の関係で、幕末の外交史を調べる機会がありました。
従来の通説では、このときの日米条約が不平等条約だったという理解がまかり通っています。
どの教科書も、領事裁判権(治外法権)を認めたこと、関税自主権がなかったことの二点を挙げて、その不平等性を説明しています。

しかし条約締結時には、領事裁判権は押し付けられたのではなく、むしろ幕府のほうで望んだのです。
なぜなら、外国人の犯罪を当時の幕府の法で裁くことにすると、列強がその法そのものに強力に介入し、彼らの思うがままに変更されてしまう恐れがあったからです。
また、領事裁判権を規定した条文では、同時に、日本人が外国人に対して犯罪を犯した場合には、日本の法律によって裁くとされています。
つまり開国を認める以上は領事を置くことを認めなくてはなりませんから、それを承認した上での条文の規定としては、公平で対等の考えに立っているわけです。

関税自主権については、当時の幕府にはそもそもそういう概念がありませんでした。
修好通商条約では、ハリスとの交渉の結果、輸入税20%、輸出税(国内品の輸出の際、こちらが価格を上積みできる)5%と決まりました。
清とイギリスとの条約では、輸入税5%ですから、これと比べると、いかに有利な関税率を獲得していたかがわかります。
しかも日本の場合は従価税、中国は従量税です。
従量税では、国内がインフレになった時、適切な対応ができません。
もちろん、アヘン輸入禁止の条項も明記されています。

後にこの二つを不平等であるとして、陸奥宗光や小村寿太郎がたいへんな努力を重ねて改正交渉に当たったのは事実です。
しかしそれは、日本がしだいに国力をつけるに及んで、欧米における国際慣行の知識を取り入れ、列強に伍するために「不平等の解消」という目的意識を定めるようになったからなのです。

そのほか、両条約をよく読んでみると、ごく一部を除き、公正な条項に満ちていることがわかります。
ごく一部とは、片務的最恵国待遇を認めたこと、通貨の交換レートを同質同量によって決めるとされてしまったことの二つです(後者については後述)。
いま条文のそれぞれについて詳しい言及は避けますが、特筆すべきなのは、列強の脅威に取り巻かれる中でよくもこれだけ対等な条約を結ぶことができたな、という点です。

そこには、最初の交渉相手が新興国のアメリカであったこと、当時の覇権国イギリスが、アロー戦争やセポイの反乱で日本を攻略する余裕がなかったことなどの外的な要因が働いていたでしょう。
しかし見逃してはならないのは、直接の応接に当たった幕府の中級官僚たちの高度な国防意識と交渉能力、不当な要求に対しては一歩も引かないという強い気概です。
林復斎、水野忠徳、岩瀬忠震(ただなり)、川路聖謨(としあきら)、永井尚(なお)志(ゆき)と言った人たちです。

ここでは、ペリーとの交渉の全権を務めた林復斎の毅然たる態度と、通商条約調印のわずか10日余り前に外国奉行に着任した水野忠徳の、通貨交換レートについての必死の努力について述べましょう。

林復斎とぺりーの交渉は、すったもんだの末、横浜村に決まりました。
林は、薪水食糧、石炭の供与、漂流民救助は了承しましたが、交易は拒否しました。
ペリーがモリソン号事件を引き合いに出し、また漂流民に対する日本の非人道的振舞いを非難したのに対し、林は、「日本が三百年にわたって平和を守ってきたのは人命尊重の証拠である、大洋で救助できなかったのは大船が建造できないためであり、近海での難船は救助してきた、また漂流民は長崎に送り丁重に扱って本国に送還している」と反論します。
*ちなみに、日本の漂流民を乗せたモリソン号を追い払ったのは、文政年間に定められた「外国船打払い令」が効力を持っていた時代のことで、その後、アヘン戦争によって危機感を募らせた幕府は、天保薪水給与令を出して、外国船への態度を寛容なものに戻します。
さて、ペリーが交易の利を説き、貴国はなぜ交易に応じないかと迫ったのに対して、林は、「我が国は、交易をせずとも自国の産品で事足りている、貴官の目的は人命の尊重と難船の救助であろう、交易はこの目的と関係ない」とやり返します。
これで、ペリーは交易の件を引っ込めるのです。
また、林が儒者たる倫理観を見せて、漂流民の救助、扶養に要した費用は弁済する必要はないと説くと、
今度はペリーのほうから、「お礼をしないわけにはいかない」と申し出ます。
林は「お礼なら受け取る」と答え、金銀の形をとることになります。
当時は、商品の授受のほうが、交易に結びつきやすいと考えられたようです。
またペリーの「お礼」の申し出も、それをきっかけに通商の道を開こうとしたのではないかと想定されます。
「お礼」が金銀の形で決着したので、通貨の交換レートを決める必要が生じるのですが、ペリーが同質同量を主張したのに対し、応接係はこれを拒否します。
ペリーはなぜ拒否するのかわからなかったようで、後に派遣する使節と話し合ってもらいたいと答え、この件はペンディングとなります。
なおペリーはここで「使節」と言っているので、「領事」とは言っていません。
また、ペリーが役人(領事)を一人置きたいと要求すると、林は「応じかねる」と答えています。
さらに、条約書の交換に際して、林は「外国語のいかなる文書にも署名しない」ときっぱり宣言します。
最後に、ペリーが、「1年後、自分が来られるとは限らないので、下田で細目を決めたい」と言い、林が50日後に下田に赴くと答えます。
するとペリーは、「その間に箱館を視察したい」と言って、横浜での会合は終わります。

漂流民についても双務性が貫かれています。
アメリカ草案では、「アメリカ人漂流民救助の経費はアメリカが支払う」とだけなっていたのですが、「アメリカ人及び日本人が、いずれの国の海岸に漂着した場合でも救助され、これに要する経費は互いに支払わなくてよい」ことになりました。
これも、対等性を日本が強調した証拠でしょう。また通商(自由貿易)につながることを警戒したとも考えられます。

横浜での交渉で、下田におけるアメリカ人の遊歩距離は7里以内と決められました。
下田に帰ったペリーに、応接係は、7里よりも狭い範囲に関門が設けられており、また外出には付添人をつけると説明します。
ペリーが条約違反だと抗議すると、関門は自由に通過してよいし、付添人は監視ではなく、アメリカ人を護衛するためだと答えます。
監視の意味もあったと思いますが、このあたり、なかなか巧妙なやり取りですね。
ペリーはしぶしぶ了解します。

さてここからが面白いのです。
ペリーは箱館に「視察だけしてくる」と言ったのに、じつは松前藩と細かく交渉しており、遊歩距離10里あるいは7里(下田なみ)で納得させていました。
林らはこのペリーのウソを見破ります。
松前藩ではペリーとの交渉記録「箱館対話書」が書かれており、それがペリーの下田帰還よりも前に下田に届いていたのです。
ペリーは狼狽を隠せず、こんな短期間にどうしてわかったのかと聞きます。
林らは、飛脚の仕組みを説明しペリーを驚かせます。
林は、「1里程度の範囲なら、この場の交渉で決めてもよい」と畳みかけます。
結局、箱館は5里で決着しました。
この遊歩距離の取り決めは、蝦夷地への侵入を阻止するとともに、後の通商条約で、外国人の進出を阻み国内市場を防衛したという、大きな意味を持ったのです。

次に、ハリスとの交渉における、金銀の交換比率についての水野忠徳の必死の努力について。
先に述べたようにペリーもこれについて「同質同量」を主張しましたが、ハリスも同じことを、もっと強く主張しました。
彼らにとって、それは当然のことと思われたのです。
しかし水野らはこれと違う主張を繰り返します。
結果的にこれは成功せず、ハリスの剣幕に押し切られてしまうのですが、水野らの主張のほうが正しかったことが後に判明します。
これについて述べる前に、締結されてしまった修好通商条約の5条を掲げておきましょう。
条約5条:外国通貨と日本通貨は同種・同量での通用とする。すなわち、金は金と、銀は銀と交換できる。ただし、日本人が外国通貨になれていないため、開港後1年の間は原則として日本の通貨で取引を行う。(従って両替を認める)

問題の本質はどこにあったのでしょうか。
当時日本の通貨は金と銀。その名目上のレートは一分銀4枚で一両小判。
しかし寛政以降、1分銀は幕府の財政を補うために改鋳を重ねて質を落とし、幕末に流通していた天保一分銀は、銀の含有量が三分の一に減らされていました(出目)。
つまり銀とは言っても、実際には紙幣と同じように一種の「管理通貨」だったのです。
これは幕府と国民との信用関係によって成り立っていました。
そこで水野は、そのことを説いたうえで、1分=1ドルのレートを主張しました。これなら、1メキシコドル4枚=1分銀4枚の交換となり、それを一両小判と兌換すればよいので、公正さが維持できるはずです。
ところがハリスはこれをまったく受け入れず、金銀の交換比率を同質同量にもとづくことをあくまで主張し、通商条約第5条にそれが盛り込まれてしまいました。
同質同量とすると、銀地金に等しい1メキシコドル銀貨は、天保一分銀3枚の重さに相当します。
したがって、ハリスにとっては、交換レートは1メキシコドル=3分ということになり、それ以外の公正な取引は考えられなかったのです。
しかし、もしたとえば1000円と書かれた紙幣と10ドル銀貨(などというものはありませんが、仮にあるとして)とを同じ重さで交換するとすれば、1000円札を何枚積み上げなくてはならないでしょうか。
同じように、純銀の3分の1しか銀を含んでいない一分銀を同量のメキシコドル1枚と交換するために3枚の1分銀を手渡すことは、日本側にとっては不当以外の何ものでもありません。
正確な意味での同質同量ではなく、3枚合わせて1メキシコドルの3分の1しか銀を含んでいないいからです。
しかしハリスや後に着任するイギリス公使オールコックは、1分銀が国内では名目価値しか持たないことを理解しませんでした。これは、金属主義の弊害と言えるでしょう。

ところでアメリカ人(またはイギリス人)Aが通商条約に従って4枚のメキシコドル(=4ドル)を一分銀と交換すれば、彼は4×3=12枚の一分銀を手にします。
そこで、Aがそれを日本国内の金銀両替所にもっていけば、4分=1両ですから、3枚の一両小判を手にすることになります。
一両小判の地金としての価値は4ドルに相当します。
したがって、これを海外に持ち出し、金地金に変えて売却すれば、3×4=12ドルを得ることになります。つまり、ほとんど労せずして、原価の3倍の売り上げを得ることになります。

これを繰り返せば、もうけは莫大となるでしょう。
利にさとい外国商人がこのからくりを知ったため、連日両替所に長蛇の列ができました。
このため金貨が大量に流出したのです。
しかし経験的に「もうかる」と知っていることと、「名目価値と実質価値の違い」を理解することとはまた別です。
実際、ハリス自身もこのからくりを利用して、ひそかに小判をため込み利殖に走っていました。

水野忠徳は、長崎奉行時代にオランダ人との取引を見て、天保一分銀が名目だけでしか通用していないこと(1分銀=1ドル)を知りました。
彼はハリスの同質同量交換説に対して、執拗に反論します。
しかしハリスは聞く耳を持ちませんでした。
そのため、安政二朱銀の発行を献策し、開港した地域に限って通用させて金の流失を防ごうとしました。(一朱の名目価値は4枚で一分)
安政二朱銀は、銀の実質的な量目(重さ)が1ドル銀貨の約半分で、これ2枚で一分銀1枚に相当します。
したがってこれ8枚とメキシコドル4枚とが両替可能となれば、一分銀4枚と同等になり、1ドル=1分という思惑通りのレートが実現することになります。
これは、量目においてメキシコドルと釣り合っているのですから、正当な交換です。
ただ1分銀の名目的価値だけが今までどおり国内で通用するという違いがあるだけです。
しかしこの試みは、諸外国の外交官から条約違反だと猛抗議を受け、わずか22日間で通用を停止させられます。

いっぽう、当時の日本の金銀比価は約5:1、欧米では約15:1だったので、ハリスは、国際基準に合わせて小判の価値を3倍にすることを提案します。
しかしそんなことをすれば、物価が3倍に跳ね上がるとして、今度は水野らが猛反対します。
一般に国内で通用している銀貨の価値が相対的に三分の一に下がってしまいますから。
しかし幕閣もハリスも、マクロ経済に暗く、結局勢いに押されてハリスの提案を受け入れます。そのため実際に国内物価は3倍以上に高騰してしまいました。

水野はワシントンでの条約批准(1860年・万延元年)の際には、閑職に左遷されていたので、使節の一人、小栗忠(ただ)順(まさ)に交換レートの件を託します。
しかし小栗は国務長官に相手にされませんでした。
ただしその後訪ねた造幣局では、金の秤量についての正しさを認めてもらったのです。
しかし時すでに遅し。
また、イギリス公使オールコックも本国に帰ってから、大蔵省の役人の説明により、水野の主張の正しさを認めます。
執筆中だった『大君の都』の最終章に、前段との矛盾を顧みず、その事実をきちんと記しているそうです。
経験的にではありましたが、水野のほうが、ハリスやオールコックよりも、通貨の本質を理解していたのです。
つまり、政府と国民との間で信用さえ成り立っていれば、それが不純な銀だろうが紙幣だろうが、何でも構わないのだ、という本質を。
列強の威力と幕府上層部の経済的な無知に負けてしまった水野は、さぞ悔し涙を飲んだことでしょう。

ところで、最後に本稿のテーマとは直接関係のない疑問を一つ。
安政期の金の流出について、どの歴史教科書にも次のように書いてあります。

当時、金の銀に対する交換比率は、日本では1:5、外国では1:15であったため、外国人は銀貨を日本に持ち込み、金貨(小判)に換えて持ち出した。その結果、大量の金が流出した。

この論理は、それだけとしては、理解できます。
日本では、5グラムの銀が1グラムの金に相当し、外国では15グラムの銀が1グラムの金に相当します。
そこで、15グラムの銀を日本で金と両替すれば、外国の3倍、つまり3グラムの金が手に入ります。
だから外国商人たちは、大量の銀を日本に持ち込んで金に換え、それを持ち帰って原価の3倍の売り上げを手にできたというのですね。

しかしこの話は、先ほど長々と説明してきた、条約による「同質同量の交換」に基づく「1メキシコドル銀貨=1分銀3枚」という話とは直接つながりませんね。
一方は金と銀との交換比率の内外での違いの問題、他方は銀と銀との交換レートの問題。
教科書には、後者の問題が記述されていません。

もし両方とも正しいのだとすれば、筆者の考えでは、両者を組み合わせることで、驚くべきことになります。
というか、金の流出は、想像をはるかに超えたものだったという話になるはずなのです。
いま、簡単のために、1ドル銀貨1枚が1グラムだったとしましょう。
すると、銀貨4枚は4グラムですね。
これを条約に従って日本で金貨(小判)と両替すれば、3枚の小判(金貨)を得ます(上図参照)。
3枚分の金貨は、外国での金と銀の交換比率に従えば、1グラムの金を15グラムの銀と交換できます。
そうすると、3×15=45枚の銀貨、すなわち45グラムの銀を得ます。
つまり、4グラムの銀が、45グラムの銀に化けたことになります。
言い換えると、4ドル⇒45ドルとなります。
何と3倍に化けるのではなく、45÷4=11.25倍になる理屈ではないでしょうか。

こんなオイシイ話はない。
もちろん、運送などの必要経費、小判を金地金に変える時に伴う目減り、金から小判自体を鋳造する時の含有比率や歩留まりなどはあるでしょうが、
それにしても、大量の銀貨を持ち込めば持ち込むほど、そうしたコストの割合は少なくなります。

正直なところ、筆者はこの考えが正しいのか間違っているのか、自信がありません。
どなたか、専門的な方のご教示を仰げれば幸いです。

*参考文献
加藤祐三『幕末外交と開国』
井上勝生『幕末・維新』
佐藤雅美『大君の通貨』




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