前回のメルマガ『「悪」と「嘘」との心理学――片山さつき氏の発言をめぐって』(https://the-criterion.jp/mail-magazine/m20200203/)について、以前にもご質問頂いたことのある明紘さんから再度質問頂きました。今回は、その質問に答えつつ、つい先日刊行された雑誌最新号の特集「『ウソ』で自滅する国家──安倍・トランプ・文在寅」にも絡ませながら、なぜ人は「ウソ」をつくのかについて、簡単に考えておこうと思います。
Ⅰ―「生」を賦活する「死」―ハイデガーとフロイト
明紘さんの質問はシンプルです。前回のメルマガで批判した「ネクロフィリア」(死への愛)ですが、「死」をモチーフとすることが多い「芸術」においても、それは「悪」なのか? というものです(明紘さんからの質問文は、メルマガの最後に掲載しておきます)。
答えから先に書いておくと、もちろん、そんなことはありません。ある言葉が、「薬」になるのか、「毒」になるのかは、全て、その言葉が置かれた文脈次第です。
では、「死」が「薬」になる文脈とは、どのようなものなのか。
そこで、すぐに思い当たるのは、ハイデガーとフロイトの議論です。
たとえばハイデガーは、『存在と時間』のなかで、「死」に対する「先駆的覚悟」について論じていますが、それは同時に、「世間」に頽落した大衆人が自らの「運命」を自覚する方法でもありました。ふだん「道具」の世界(「~である」という意味)に囚われている私たちが、自らの「死」(有限性)を自覚することによって、その「意味」を超えている自分自身の存在(「~がある」という事実)に気づき、そこから、過去と現在と将来とをバラバラに空想するだけの「頽落」的時間(非本来的時間)から、次第に、過去と現在と将来を緊密に結び合わせた自らの「運命」(本来的時間)を自覚していくというわけです。
それは、「武士道といふは死ぬ事と見付けたり」(山本常朝『葉隠』)とも同じニュアンスを持っていますが、要するに、「生」を「死」によって限定することによって、私たちの存在を、打算的日常から解放する道を示した議論だと言っていいでしょう。
対してフロイトは、『快感原則の彼岸』という論考のなかで、「死の欲動」という考え方を提示しました。これを精神分析の理論に即して説明すると膨大になってしまうので、私なりに換言しておくと、要するに、私たちが「意識」(有用性)の世界に入っていく際に切り落とした「不気味なもの」を再び取り戻そうとする衝動についての議論だと言っていいでしょう。「意識」によって排除された領域には、自分自身の排泄物(汗や唾などを含む)や、身体(毛髪や爪などを含む)、あるいは、性や暴力といった、〈不気味なもの=無用なもの〉がひしめいていますが、その最も代表的なものが「死体」や「死」だというわけです。
しかし、だからこそ、私たちの「無意識」は、「祭り」や「芸術」を通して、それらの「不気味なもの」を取り戻そうとしてきたのではなかったか(ラカンは、その行為を「享楽」と名付けていました)。実際、その欲動は、死の危険を省みない闘牛、あるいは、デュオニュソス祭で催されていた古代ギリシア悲劇(その全てで死が描かれます)などにおいて明らかですが、明紘さんが指摘されたドアーズのジム・モリソンにおいても、この「意味」を超えた「不気味なもの」に対する欲動は指摘することができるように思われます。
ただし、ここで注意したいのは、これらの「死」をめぐる議論は、私たちの〈生と死〉の全体性を蘇らせるための思考であるという点です。その意味で言えば、ハイデガーの「先駆的覚悟性」にしても、フロイトの「死の欲動」にしても、ときに「生」を有用性(意味)だけに縛り付けてしまう打算的世間に対する抵抗、私たちの日常生活に「メメント・モリ」(死―危機を忘るなかれ)の手応えを穿ち、そこに「生と死」の平衡感覚を蘇らせようとする契機を孕んだ議論だということです。
Ⅱ―「生」を殺してしまう「死」――「悪と嘘の心理学」再び
しかし、前回、私が論じた「死への愛」、つまり、エーリッヒ・フロムの言う「ネクロフィリア」は、ハイデガーの「先駆的覚悟性」や、フロイトの「死の欲動」とは、やはり、その向かっている方向が違います。それは、「死」によって自己の「生」を活気づけようとする議論ではなくて、その反対に、他者の「生」をコントロール可能な「死物」と化したいという欲望なのです。動いている「生」を「止める」ことによって、他者を「死んだ物」(機械のようなもの)として扱い、それを支配したいという欲望のことです。
だから、「ネクロフィリア」は、容易に、技術的な「ナルシシズム」と結びつくのだし、それを権威づける「近親相姦的共生」と手を結ぶことにもなるのです。が、逆説的なのは、そんな「ネクロフィリア」に憑かれれば憑かれるほど、その人の「心」も硬化していってしまう――つまり、死んでいってしまうのだということです。
たとえば、フロムは、この「心」の硬化過程――人が「悪」に染まっていく過程――を描き出すために、ある一人のアメリカ人白人男性の例を挙げていました。
八歳のとき、彼には一人の黒人の親友がいましたが、それを喜ばなかった母親は、息子に黒人の子と遊ばないようにと云いつけます。が、彼も簡単には引き下がりません。そこで困った母親は、「もし、言いつけに従えば、サーカスに連れて行ってあげる」と、彼の前に〈にんじん〉をぶら下げるのですが、それを契機に彼の心は折れていってしまうのでした。
これが、彼にとっての最初の挫折――自分を裏切り、買収を受け入れてしまった自分への信頼喪失――でしたが、それでも彼の失敗は、まだ決定的にはなっていません。取り返しのつかない〈失敗=自己喪失〉は、その十年後にやってくることになります。
自分より階級の低い少女と恋に落ちた彼は、今度こそ自分を通そうとするのですが、またしても両親はそれに反対し、妥協案として「六ヵ月間のヨーロッパ遊学」を彼に提案します。「遊学を終えてから婚約発表しても遅くはないではないか」というわけですが、少女への愛が変わらないことを確信していた彼の「意識」は、この提案を受け入れてしまいます。が、そこにこそ、彼の決定的な躓きはありました。その後、旅先で多くの女性たちに出会い、彼女たちから愛された彼は、次第に少女に対する愛を確信することができなくなり、帰国するより前に、婚約解消の手紙を故国に送ることになるのでした。
ここで注意すべきなのは、彼の〈自己喪失―悪〉への道が、自分自身の「心」を、死んだ「モノ」と交換してしまった瞬間に現れているということです。目の前にぶら下げられた〈にんじん―利害得失を表したモノ〉によって、繰り返し自分自身の「心」(生)を裏切ってしまった彼は、もはや、自分で自分の「生き方」を信じることができなくなってしまうのです。そして、その自己喪失の穴(敗北の記憶)を埋め合わせようとするかのように、ますます「外部の権威」(死んでいる理念)に依存するようになっていった彼は、それによって、自分に対する裏切りを正当化していく、つまり、「ウソ」をつきはじめることになるのです。
果たして、彼は、得意の物理学の研究をやめて、父親の仕事を継ぎ、両親の友人である裕福な家の娘と結婚し、実業家として成功し、ついには、心にもない言葉を語る政治家へと堕していくことになるのでした。が、それは彼自身の人生が「ウソ」そのものと化したということでもあります。この「悪」の過程についてフロムは、次のように書いていました。
「これらの例は、ほとんどの人が生き方で失敗するのは、生まれつき悪であるとか、よりよい生活を営むための意志を欠いているからではないということを示している。失敗するのは彼らが決定すべき人生の岐路に立っているとき、目を覚ましてそれを理解しないからなのだ。彼らは人生に問いかけられているとき、そしてまだ二者択一から選ぶ余地があるとき、それに気づかない。そして誤った道に歩を進めるごとに、自分が誤ったほうへ向かっていると認めるのが難しくなる。それもただ、認めてしまうと最初に誤った時点に戻って、エネルギーと時間を無駄にしたという事実を認めなくてはならないからだ。」エーリッヒ・フロム『悪について』、渡会圭子訳
ここから、フロムは、「死んでも嘘ばかりついてやると固く決意し」た「悪魔」であるヒトラー(小林秀雄「ヒットラアと悪魔」)と、そのヒトラーの〈にんじん=ウソ〉に自らの「生」を譲ってしまった当時のドイツ国民に話題を移していくことになります。が、だとすれば、ここで語られている「衰退のシンドローム」とは、個々人の人生の問題であると同時に、国家の命運にもかかわる問題であると言うべきでしょう。
果たして、21世紀の日本人は、この「衰退のシンドローム」を拒絶できるほどの「生」(自立)を生きているのか。言い換えれば、目先の〈にんじん=ウソ〉に抵抗できるほどの「生き方」を自覚できているのか。ポスト・トゥルース(真実以後)が囁かれる現在、私たち日本人の「生への愛」(フロム)は試練にさらされていると言っていいでしょう。
※今回の雑誌最新号の特集「『ウソ』で自滅する国家──安倍・トランプ・文在寅」では、編集委員を含め、様々な論者が「今、ここにあるウソ」――片山さつき議員のウソ、大阪都構想のウソ、豊洲の土壌汚染のウソ、公文書改竄・廃棄などのウソ、月例経済報告のウソ――などが、一体どこから出てくるのかについて徹底的に議論しています。「安倍・トランプ・文在寅」を串刺しにできるのは『表現者クライテリオン』くらいのものだろうと自負していますが(笑)、あまり図書館にも置いてもらえない本誌のような雑誌の場合、そんな議論も、読者の皆さんからの応援によってのみ支えられています。定期購読を含め、是非、是非、お買い求めいただければ幸いです。何卒、よろしくお願いいたします!
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※明紘さんからのご質問
さて、今回は「死を愛する」ことについてですが、これは芸術の世界においても悪なのでしょうか?
例えば、アメリカのロックバンドthe doorsの「the end」という楽曲は、ボーカルのジムモリソンの死への憧憬、強烈な自己嫌悪=ナルシシズムに彩られていますが、
同時に、人々の心を揺り動かす「魔術的な崇高さ」にも満ちていると思われます。
最近は、こういった「アブナイ曲」はめっきり無くなったように思われますが(笑)
死を愛すること、死への憧憬は世間では不徳とされていますが、やはり強烈なエネルギーを生むことも事実だと思われます。
音楽に限らず、文学、絵画、映画などの芸術の世界においても「死を愛する」ことは低俗なことなのでしょうか?
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コメント
ご返信ありがとうございます。
なるほど、人間の死を物化し、交換可能にし、支配しようとする冷酷な意思は、近年様々な形で見受けられますね。
あるいは、人間存在そのものでさえも。
廣松渉、木村敏、坂部恵、小林敏明らが論考した「コト」と「モノ」の差異についてもう一度、私を含む日本人自身が自覚しなければならない時であるのかもしれません。この自覚を怠っている現代日本において「ことのは」である「言葉」が浅薄で低俗な「記号」に堕してしまっている現状にも頷けます。
最後に、今月の表現者クライテリオンにおける浜崎先生のニーチェの思想を援用された鋭い時流批判には、深い感銘を受けました。
二回にわたり、私の稚拙な質問に対してご丁寧にお答え下さったこと、心よりお礼申し上げます。