覆される死刑判決
大阪・心斎橋の路上で2012年に男女2人が刺殺された通り魔事件で、殺人罪などに問われていた被告の無期懲役刑が昨年末に確定した。一審の裁判員裁判では死刑判決が下されていたのであるが、二審の高裁判決では覆って無期懲役となり、最高裁も「死刑の適用は慎重に行わねばならない」「過去の判例に照らして死刑に値するとは言えない」として二審を支持する結果となった。
裁判員裁判が行われるのは、殺人などの重大犯罪を扱う場合で、かつ一審のみである。裁判員制度が導入されてから昨年でちょうど10年が経過したのであるが、その間に死刑判決を出した裁判員裁判は37件あり、すでに執行に至ったケースも3件ある。しかしその判決が高裁で破棄された事例が今回を含めて5件あり、いずれの場合も最高裁は、高裁の無期懲役判決を維持している。
このたびの最高裁判決を受けて、「裁判員の民意が反映されず、非常に疑問に思う」「市民感覚と全く違う」といった遺族のコメントが報道されていた。これは裁判員裁判の死刑判決が覆った他の事件でもおおむね同様で、被害者の遺族や識者らが、「判例との整合性を重視するプロの裁判官と、悩みぬいて結論を出した裁判員の国民感覚が乖離している」というようなことを語ってきた。
改革者の流儀
遺族の憤りは理解できる。時代が時代なら、彼らには復讐の権利すら与えられたはずである。しかし、法廷の裁きに当事者でもない市民の「感覚」が持ち込まれることについて警戒心を持つのも一つの常識であって、それゆえに裁判員裁判は一審に限られていると考えるべきであろう。今のところ裁判員の多くは熱心で、死刑判決を出しながら良心の呵責に苛まれるものだとも言われるが、システムとしての「人民裁判」がもたらす悪夢の数々を、歴史は教えているではないか。
通り魔事件の判決について元大阪市長の橋下徹氏は、「裁判員が下した死刑判決を最大限尊重する司法府を望む。そのような司法府を作ってくれる最高裁裁判官を憲法に基づいて内閣が任命すべき」と語った。現大阪府知事の吉村洋文氏も、「この無念な遺族の声を聴くとやるせない。裁判員裁判は国民感覚を取り入れるはずだったのに、あまりに国民感覚からかけ離れてる」と述べている。
維新を名乗る彼らが「裁判員判決の重視」を唱えるのは自然なことである。改革主義者が旨とするのは、民意の支持を取り付けた上での即断即決の政治と、既得権の解体だからだ。しかし市民感覚とやらを神聖視する改革者の流儀が、社会秩序にまつわる真理や正義を捉えることは稀である。社会という複雑で巨大な生き物は、歴史の教訓、知的な修練、慎重な討論を抜きには扱い得ないものなのだ。
民意への懐疑
昨年春、母子2名が死亡し8名が重軽傷を負った池袋の自動車暴走事故では、被疑者である90歳近い老人が逮捕されず、任意での捜査が進められた。すると、彼が逮捕を免れたのは、勲章持ちの元通産官僚という「上級国民」だからではないかと訝る声が挙がった。実際のところは逃亡や証拠隠滅の恐れがなかったからであろうが、その議論はここでは措くとして、異様に思えたのは、母子の遺族がこの老人に対する「厳罰」を求める運動を行い、39万筆もの署名が集まったことである。
遺族が全人生を賭す覚悟で闘うのは分かる。しかし、その39万人にどれだけの判断力や当事者意識があるのかと考えてみれば、衆を頼んで法廷判断を左右する試みに釈然としないものが残るのも事実である。
民意は良識の担い手であり得る。しかし民主主義の世において、正義の僭称を許す最大の力もまた民意にあるということを忘れてはならない。
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コメント
自分は死刑制度があるのは理解できるし日本の死刑制度は維持すべきだと思ってます。その上で池袋の車事故の件は市民正義の暴走だなと思いました
単なる老人叩き普段老害とか言ってる層がこれぞと見た事に叩いてるなと思いました。こういう人達は老人VSそれ以外の市民 みたいな対立構造がインプットされてて 陣取りゲームみたいに老人がやらかしたーここが攻め時だーみたいに
一斉に陣を取ってマウントを取りたいだけに感じました。正義というのはそういう陣取り合戦みたいに使うべきじゃないと思います。改革主義者もそういう2項対立が好きですよね わざと2項対立煽ってるように見えます
こんにちは。自らの”正義”へと暴走しがちな市民感覚・民意と、怒りや報復感情という極めて原始的な感情に根差した主張で支持を伸ばそうとする某ポピュリスト政党の危うさへの警鐘をとても興味深く拝読いたしました。世論という暴風の中で、「常識」という平行棒を持って慎重に前へ進もうとするクライテリオン様の勇気と覚悟を感じました。
それでも、私は今回の記事をはじめからこのように受け止められたわけではありません。たとえ非当事者の暴走は厳に慎められるべきであっても、当事者であるご遺族であったら、犯人に復讐する権利はあってしかるべきだと感じていました。私が遺族だったら飯塚幸三を磔にして、「フレンチに遅れそうだったから」などというふざけ抜かした理由で轢き殺してやろうと。しかし「犯人を死刑にしても意味がない」と時おりメディアで遺族の方が言うように、もしかしたら復讐にすら何の意味もないのかもしれません。仮にルールが変わって報復が許されたとして、それを実行する遺族の方がいたとしても、究極的には彼らは救われないかもしれません。一体、彼らはこの先どうやって生きてゆけばよいのでしょうか。
いくつかのわずかな希望の光があるとは思いますが、その一つには文学や宗教、芸術に救いを求める方法があると思います。そう考えていた時、ふと某前知事が(文言は不確かですが)「自分は読み聞かせをしてもらわなかったから本は要らない」とか、「文楽は必要がない」などと言っていたことを思い出しました。しかし、一見役に立たないと思われがちな文学や芸術が、誰かのどん底の人生にわずかな光を差す可能性があるとき、法律や政治などはそれ以上に無力な存在ではないでしょうか。つくづく思います、今の日本社会には救いがない。だからこそ自らの怒りや義憤が上滑りし、ポピュリスト政党が支持を集める。事故の厳罰化を求める運動の署名があれだけ集まったのも、同じにされたくないと思う方もおられると思いますが、しかし偶然ではないように思います。
それでも、一体どうすればよいのか私には分かりません。私は文学など詳しくありませんが、巷に出回る小説に希望があるとは思わない。新興宗教の類も(信仰している方がいれば申し訳ありませんが)好きにはなれません。私は本気で日本の政治を成熟させたいなら、それとは全く関係のない文学や芸術といった土壌を豊かにしなければならないと考えていますが、今の日本社会はそれがあまりに貧弱で、やせ細っているように思えてならない。根っこが貧しいと、滋養のある政治の果実は実りようがなく、私も含めた有権者はいつまでもパッと目の引くまがい物に騙され続けるのでしょう。それでも、今回のクライテリオン様の記事を読んで、感情的だった自らを自省し、キーボードを打つことで自分の感情を整理し、「社会には救いがなければならない」という結論に至ったのはささやかな幸運でした。
さて、皆さまはどうお考えになられるでしょうか。愛する人を身勝手な理由で奪われ、ささやかでもかけがえのない日常生活をあっという間に粉々にされた人間は、一体今の日本社会で何を頼りに生きていけばよいのでしょうか?
飯塚幸三事件で39万人も署名が集まるのは異様とか言ってるけど、こういう人って、香港人がデモ起こしてるのは立派だ!日本人はデモをなぜ起こさない!日本人はなぜ怒らない!と言ってる人に対してはどう思ってるんだろうね?この雑誌の編集長さんがよく言ってるんですけどね。
間違うことを怖れすぎてダメ出しばかりして、母親がああしたらダメ、こうしたらダメってちょっかい出し過ぎて指示待ち君を作ってるのに似てる。大人しい日本人が署名という形で珍しく怒りを表現してるというのに。たかがこの程度のことに異様とか言っちゃって、普段から怒る練習もしとかないといきなり行動なんか起こせないですよ。踊ったことない人にいきなり踊れって言っても無理でしょう
>異様に思えたのは、母子の遺族がこの老人に対する「厳罰」を求める運動を行い、39万筆もの署名が集まったことである。
遺族が全人生を賭す覚悟で闘うのは分かる。しかし、その39万人にどれだけの判断力や当事者意識があるのかと考えてみれば、衆を頼んで法廷判断を左右する試みに釈然としないものが残るのも確かである。
こういうことを異様とか気取ってチマチマ言ってるから、常に抑制がかかって怒るときに怒れない、悪政が続いてもデモも起きないという国民を作るのでは?? こんなん言われ続けたらちんまりした国民が出来て当然でしょ。慎重であることも大事だけども、時間をおかずに湯沸かし器みたいに怒る、国民が怒って間違いや暴走も起きるのもある程度はしょうがない部分があると認めないと、怒ったり憤ったりしなくなるし、それを表現する経験、体験が少なくなってしまう。表現者のメンバー同士で議論の途中で殴り合いぐらいしろと。プロレスでもいいから暴走起こしてみてどこまで暴走してOKなのか実験して検証して国民に見せるぐらいのことやってもらいたい。感情の高まりを憤りの発露の芽を潰さないで開放する方向へ。気取っててもつまらないしそんな場合じゃない。子供一人と母親が無残にひき殺されて何も反省せず自分のwikiやら何やらを息子に支持して隠微しまくってた人間のクズを目の前にして怒れない、たかが署名に参加することさえも疑義を呈する方が頭イカれてる。自分の心配をした方が良い