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【川端祐一郎】パンデミック下における合意形成の質について

From 川端 祐一郎(京都大学大学院助教) 

新型コロナ問題を特集した『表現者クライテリオン』7月号(購入はコチラから)が先週発売され、またこの特集に関するトーク番組をチャンネル桜で配信して頂きました。(視聴はコチラから

番組中でも申し上げたのですが、今回の新型コロナ騒動では、モヤモヤすることが非常に多かったように思います。客観的事実に不明点がいくつもあることに加えて、複数の論点が重なりあうので、私自身もなかなか考え方の整理が追いつきませんでした。

健康被害の程度や政府による対策の効果などについて、様々な研究や論争が行われていますが、私が気になっているのはむしろ、この騒動の渦中における合意形成の質の問題です。モヤモヤした状況の中で、我々はどのようにして物事を決めていくべきなのか。将来の課題も含め、以下3点に分けて論じておこうと思います。

1.価値観の確認不足

大雑把な素人判断でしかありませんが、私は日本や欧米(特にスウェーデン)の死者数の推移から、「新型コロナは、放っておくと従来型インフルエンザの数倍から10倍ぐらい危険なものなのではないか」と思うことにしています。死因の統計は解釈が難しいので1倍未満という可能性もあるでしょうが、専門家ではないので深堀りするつもりはありません。で、「インフルエンザの10倍」なら私個人はあまり怖いと感じないのですが、これは人それぞれでしょう。

健康リスクの受け止め方は、各々の価値観、健康状態、生活環境などによって大きく異なりますし、「慣れ」の影響も大きいはずで、かなりの程度主観的な問題です。また、対策にあたっては社会活動の制限のように健康以外の価値が犠牲になる面も多々ありますが、その是非となると、これまた人生観や社会的立場、家族構成などに左右される主観的な判断が必要になります。

私は3月や4月の段階で強めの自粛措置が採られたのは、総合的にみて、不自然なことではなかったと思います。ただ、当時から少なくとも若年層の健康リスクが非常に低いことは分かっていたし、自粛による日常生活の中断で失うものが多いことも間違いないのだから、様々な価値のあいだで何を優先するかという議論が、もっと広く行われてもよかったとは思っています。政策決定の最前線ではそんな余裕はないでしょうが、私が問題にしたいのは、メディアや職場など民間における会話の質です。

すでに3度(1回目2回目3回目)もメルマガに書いたことなので詳しくは繰り返しませんが、私が言いたいのは、迷った上で自粛するのと迷いなく自粛するのとでは、全然違うのだということです。「価値観や立場は人それぞれだ」と相対主義を唱えるばかりでは何も決められませんが、一方で、「人それぞれ」であることを十分確認せずに進められる意思決定は、良質なものとは言えないのです。

4月3日のメルマガではコロナ騒動の背後にある「生命至上主義」の問題に触れましたが、私はべつに「命なんか惜しくはないぜ」というようなマッチョイズムを唱えたかったわけではありません。命や健康に関するリスクの受け止め方には相当な幅があり、また多くの人にとって命や健康の他にも大事な価値があるはずなのに、そうした価値観の幅の広さや競合関係が語られることが少ないまま、強力な自粛政策を社会が求めていくという流れに、不気味なものを感じたわけです。

コロナ問題に限りませんが、メディアの報道においても巷間の酒場談義においても、我々自身の価値判断の拠りどころを確かめるような会話が、不足しているように私は思います。人間というのは、本当は多様で複雑な価値観を持っているはずですが、それを覆い隠すようにして、「世間を流通しやすい少数の綺麗事」が言語空間を席巻してしまうことが少なくない。これでは意思決定の土台は脆弱になると言わざるを得ません。

2.専門家と国民のあいだの認識のズレ

今回のコロナ騒動では、専門家と一般市民の間に、いくつか認識のズレがあったように感じました。そしてこれは概ね、メディア報道の問題だと私は思っています。

たとえば感染症対策専門家会議は、繰り返し「行動制限の目的は医療崩壊(重症患者の治療需要が供給を上回る事態)の阻止である」と主張してきました。いわゆる感染爆発(オーバーシュート)に至ることが問題なのではなく、そのはるか手前で医療供給体制が逼迫するのが日本の現状なのだ、というわけです。別の言い方をすると、多くの国民にとって自分や家族がコロナに罹って重症化する確率は低いのだとしても、少なくとも現行のリソースと制度を前提にする限り、医療崩壊が起きる可能性はそれよりもずっと高いという話なのです。

だから専門家会議副座長の尾身氏は記者会見で、生活行動の変容や制限に関して、緊急事態宣言の前には「医療界から国民へのお願い」なのだと強調し、感染拡大が落ち着いた後は、国民への「感謝」を表明されていたわけですね。緊急事態宣言が延長されたのも、新規感染者数は減っているのだが、治療中の重症患者数が依然として多く、少しでも増えると医療現場が困るからというのが主な理由でした。

ところが多くの国民は、「自分や家族に深刻な健康被害が出ること」を恐れて行動していたのであって、「医療崩壊を防ぐため」に薬局の行列に並んでマスクを買ったりしたわけではないのではないでしょうか(世間の目を気にして行動したという人も多かったとは思いますが)。自分も治療を受けられなくなる恐れがあるという点で、「自身の健康」と「医療崩壊」は関係しています。しかし死者が1,000名出る程度の感染で崩壊寸前になったわけですから、じつは多くの人にとって健康リスクがあまり差し迫ったものとはならないレベル(インフルエンザより遥かに少ない患者数)に、感染を抑える必要があったということなのです。

また専門家会議は、新型コロナウイルスは短期的に抑え込めるものではなく、第二波、第三波が必ずやってくるので(というか3月から5月にかけての波が第二波だったと今は定義されているようなので、正確には「第三波、第四波」ですが)、その際はまた強めの行動制限が必要になるのだと何度も注意を促してきました。しかし今回、少なくない割合の国民が、「1〜2ヵ月間の自粛を経れば、日常が戻ってくる」というイメージを思い描いて協力していたのではないでしょうか。

私の観察範囲が狭いだけで、じつは国民の大多数が政府・専門家会議の方針を正確に理解していたというのなら良いのですが、もしこういう認識の乖離があったとすれば、そこはマスメディア(と政治家)がしっかり埋めておかないと、質の高い合意形成にはならないでしょう。無用な対立の原因になり得ますし、自粛政策等に対する世論の反動も過剰になるかも知れません。

3. 感染症というものの扱い難さ

感染症という問題に固有の難しさについても考えておく必要があります。

たとえば今回は、概ね医療崩壊を迎えることなく何とか乗り切ったことになっていますが、今後もっと悪質なウイルスが大流行した場合、どういうことが起きるのでしょうか。専門家会議の指摘によると、仮に重症患者の治療の需要が供給を上回った際、どのように対処すべきかについて公的な方針はなく、個々の医療現場に任せるしかないとのことです。

地震などの大規模災害が生じた場合、被災地においては、傷病者の治療について優先順位付け(いわゆるトリアージ)が行われます。感染症の大流行というのも、あるレベルを超えた場合には、それに近い対応が必要になると覚悟しておいたほうが良いのかも知れません。もちろん平時から医療リソースを増強し、流行防止の措置を講じておくべきでしょうが、それらにも限度はあるわけで、想定を上回る規模のパンデミックが生じないとは限りません。

「命の優先順位付け」が必要になる場合、後回しにされる患者はもちろんですが、選別を行う医療関係者の精神的な負担も相当なものでしょう。災害時医療の分野ではその判断基準や手順などが様々に提案されているのですが、これは私は、医療関係者のみに責任を押し付けるべき問題ではないと思います。国民のあいだに十分な議論の蓄積があるべきで、曖昧にではあれ判断基準に関する合意を築いておき、その上で本人等の同意も得ておかなければならないはずです。もちろんトリアージの話を持ち出す前にやるべきことがたくさんあるのですが、大地震などの際には現実に生じている問題であって、議論自体を避けるわけにもいかないでしょう。

また今回のコロナ騒動で改めて実感しましたが、感染症対策というのは、政府だけの頑張りで解決できないところが本当に難しいですね。たとえば景気対策においてなら、不況で消費が低迷したとしても、財政金融政策や社会福祉政策がある程度は効くと分かっているので、失業者を減らす目的で「全国民に特定の消費活動を強制する」ような措置は採られません。

しかし感染症のパンデミックというのは、ある局面まで来れば、患者を減らす目的で「国民の消費活動を制限する」ことが必要になります。一部の弱者を救うという点では失業対策に似ているかも知れませんが、求められる措置の性質が全く異なります。今回の新型コロナのように、「高齢者や病弱な人にだけ高いリスクがある」ような感染症の場合は、特に扱いが難しい。健康上のリスクが低い若者からも行動の自由を大幅に奪う必要があり、彼らはほとんど不利益しか受けないからです(感染収束が早まることから利益を受けるケースもあるとは思いますが)。金銭面以外の犠牲も大きいので、経済補償だけで済むものでもありません。

この問題について、安易な解決策を持ち出すべきではないでしょう。むしろ重要なのは、こういうケースに相応しい合意形成の原理が、我々の社会においては未発達なのだと認識することです。街を出歩いてウイルスをばらまく行為は、問題の分類としては一種の外部不経済なのでしょうが、それを解消するのに必要な「自由の制限」が大規模過ぎて、他に類似する例があまり思い当たりません。「自由を奪うな」とだけ叫んでも仕方がなく、今後かなり知恵を絞る必要がありそうです。

・・・・・・

今回の新型コロナ騒動においては、「健康上のリスク」も「自粛から受ける不利益」もかなり偏って分布しており、その主観的な受け止め方も人それぞれであったはずなのですが、あたかも国民全体が等しく巨大なリスクに直面しているかのような共同イメージが作られることによって、大きく物事が動いていったという印象を私は持っています。もちろん国民の一体感というのは、仮にそれが幻想であったとしても大事なものです。しかし現実との乖離の度が過ぎれば弊害も目立つわけであって、「偏りや多様性を確認した上で合意を形成する手順」を洗練させることも、重要であろうと私は思います。

少し誇張して言うと、「今回の自粛は一部の高齢者と医療現場を守るための措置であって、若者の大半にとっては損しかありません」ということを確認した上で、それでもなお「お爺ちゃんお婆ちゃんには元気でいて欲しいし、お医者さんにはお世話になっているから」と言って我慢する道もあるはずです。そのほうが、全員に死ぬリスクがある(専門家はそんなことは言っていないのですが)かのように吹聴するメディアの喧騒の下で自粛を強要されるよりも、健全なのではないでしょうか。

上に挙げた3点の他にも様々な問題があって、パンデミック下の合意形成というのは本当に、簡単ではありません。新型コロナをめぐる論争は絶えませんが、これだけ複雑な現象ですから、ある意味揉めるのが当然だとも言いたくなります。だから我々は、凡庸な言い方になりますが、あくまで落ち着いて議論を続けていかなければなりません。『表現者クライテリオン』7月号も、その一助になればと思っています。

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コメント

  1. 大和魂 より:

    何はともあれ国防の意義を理解する為には先の大戦による戦後の占領政策により非常識の平和主義を押し付けられたことから考えるべきだと思います。つまりこの平和主義は敗戦国だけの理不尽な極まりないデタラメの仕打ちなのです。なぜなら国際法ですら各国の軍隊を認め自衛の為の反撃は許されているから、あからさまな平和主義は国民国家の滅亡と同意なのです。なので本来なら国際社会の常識と同じように軍隊を組織するべきなのです。遡ると明治期に英国のダートマス士官学校をお手本にし日本の陸海軍の学校が創設されました。それは本場を凌ぐ厳しさと規律で落第はもとより生徒の生死も日常的に存在していました。だからこそ世界屈指の優れた学校だったし先の大戦でもあれだけの戦いができたし、よって国防は尊い訳です。しかし平成の中頃までは国際社会の実態はメディアによって色々と隠されてきたわけです。つまり国際社会は表と裏があり、その本質は裏社会だと情報の発達により明確となり金融屋があれこれ仕掛けているのが現実なのです。それは米国テロやリーマンショックやアラブの春やウクライナ騒動やイスラム国問題やアフガン問題など枚挙に暇はありませんから。だったら常識的に考えればその延長線上がコロナ騒動が存在し日本の金融と医療とそれぞれの保険をターゲットにしていると考えられますよね。ならばこれが日本国民の【目覚めの時】なのです。そうしないと香港とか朝鮮半島とかチャイナのような暗黒街になるのは時間の問題となるのです。

  2. 菅沼 実千代 より:

    「仇名」で投稿されている「唐揚げ君3人前」、や他の方々へお願いがあります。
     皆さまは本名を明かさず、コメントを投稿されていますが、コメントは「意見」であってつぶやきのツウィ―トとは違います。感情を書き込むつぶやきと違って、「理性と知性で書かれた意見」であれば、当然自分の名前を名乗るのは最低限の「礼儀」だと思います。先生方はお顔も名前も公表されています。責任が伴う務めをされてるのです。先生方には名指しで質問しても、自分は名乗らない? 私はそう言う方々は残念ながらリスペクト致しません。お互いに自分を名乗ってこそ相互信頼が生じるのです。もしそんなこと知らなかった、そこまでしなくて良いだろうと思われたら、甘やかされて育っておられると気の毒に思います。 他人の意見を聞き出す権利があるのであれば、自分の意見も述べる権利はありますが、最低限の義務も伴うのではないでしょうか? 
     

  3. 唐揚げ君3人前 より:

    合意形成が拙速であった件、同意いたします。
    (また、チャンネル桜での討論も拝見しましたが、川端さんは冷静に編集長と議論されていて素晴らしいと思いました。)

    「新型コロナは、放っておくと従来型インフルエンザの数倍から10倍ぐらい危険なものなのではないか」

    →これは欧州とアジアでしっかりと切り分けて考えるべきかと思います。私見では、欧州では10倍、日本ではインフルと同等という感じです。その数字をどう判断するかは、おっしゃるように、個々人でばらつきがあり、かなり恣意的にならざるを得ませんけど(それでOK!)。
    新聞、テレビのように、欧州とアジアでのコロナの驚異を一緒くたに論じてしまうと、判断を誤ると感じてます。例えは悪いですが、「日本はギリシャのように財政破綻する」といった具合に、条件が異なる事象を同一基準で裁くことになりかねません。

    …最近、問題だと思うのは、コロナ禍が一段落した今、立ち止まって当時を省みる必要がありますが、データを出して「自粛の効果は期待されていたほど無かったのでは?」と疑問を呈しただけで、後出しじゃんけんだ!と非難する勢力が居ることです。データがそろってきたので、事後的に検証して何が問題? 経済学者は批判していいのに、西浦さんを批判しては駄目な理由は? 当然、パブリックな場で言論を行う者は、そしてその言論に誤りが認められる可能性がある場合には、ウイルス学者だろうが近所のおっさんだろうが笑、批判されるべきでしょう。

    挙句の果てには、「自粛緩和論者は新自由主義者だ!」、「インフラ整備を主張する者は徹底自粛論しかありえない」といった批判まである始末。

    →たしかに、自粛緩和論は自己責任論との親和性から、新自由主義的ではあります。しかしながら、自粛で人々の生活が直接的に破壊・変容されてしまった点(戦後ここまで国民行動が変容したことはなかったはず)とその副作用を十分に強調せずに自粛していさえすればよいと説くのは、余りに稚拙で、単なるレッテル貼り以上の意味を与えない、批判のための批判です。
    →インフラ整備は国民生活を守りますが、8割自粛は生活それ自体を直接的に変容させてしまうので、保守ならむしろ、慎重になるべきだと思います。8割自粛をインフラ整備になぞらえるなら、「海岸沿いに住んでる奴は危ないから、高台に移住しろ!」という暴論に他なりません。討論でも出ましたが、防災よりも減災の観点が必要と感じました。。

    長文、かつ、散文となってしまいお恥ずかしいですが、これからもご活躍を応援しております。

  4. トモダチサクセン より:

    大変興味深く拝見いたしました。冷静、慎重かつ丁寧なご意見で読み応えのあるものでした。「ステイホーム」という言葉がさも有難がられ、言ってるだけで「好い人」感が演出されるような雰囲気には、異様なものを感じましたし、辟易して居りました。皆、他人の顔色を窺ってしか物を言わないのは本当に嫌ですね。素直に思っていることを言う(よーく自分の頭で考えた上で発言するのなら尚良し)、これが大変大事で、そうすれば自然に議論の多様性(俗な言い方ですが……)が生れるのだろうと思います。川端先生のこの議論もまた、暫定的なものではありましょうが、拝見して納得、そして何より安心いたしました。今後ともご活躍を期待して居ります

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