【川端祐一郎】蜃気楼との戯れ――森喜朗バッシングの不明瞭な論理

川端 祐一郎

川端 祐一郎 (京都大学大学院准教授)

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 すでに旧聞に属するが、東京オリンピック組織委員会の会長であった森喜朗元首相が、JOCの会議中に「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」「だから発言時間を規制しなければならない」などと発言し、これが女性差別に当たるとの咎で大きな批判を呼んで、会長職を追われるに至った。発言の全文をみると(記事へのリンク)、森氏が長年関与しているラグビー協会の理事会では女性が多いことが原因で会議時間が延びているとした上で、そのことを「うちの恥」だと形容しているので、確かに一種の侮蔑であるとは言えるのだろう。

 しかしまず公平にみて、この発言は比較的控えめのものだ。だいいち、ラグビー協会の会議が女性理事のせいで延びているという話も、そのため発言時間を規制しなければならないという話も、いずれも他人の見解の伝聞であって、森氏自身の認識ですらない。そして森氏が述べているのは、「女は男よりも真面目だから発言が増えるが、それは優れたところでもある」ということで、そこにどんな含みがあるにせよ、半分は褒め言葉なのである。

 もちろん、調子が控えめであろうが世辞を付け加えようが、ろくに証拠も挙げずに会議の延長を女のせいにされたのでは腹立たしいという人も多いに違いない。それに、「能力や職責に性別を安易に結びつける思考法そのものが差別性を帯びているのであって、女を褒めておけば許されるというものではない」とフェミニストは言うであろう。また仮に「女性の発言時間の規制」を正式に提案したとなれば、男女同権を謳う何らかの法令や規則に抵触しそうでもある。

 しかしマスメディア報道の大勢は、森発言の性質を単に「女性蔑視」の四文字でひと括りにしたもので、それ以上の踏み込んだ論評はほとんど見られなかった。そして、「だから辞任すべきである」と進退に直結させた物言いが何の疑いもなく流布されてきたのだが、その論理には小さくない飛躍があった。また、件の発言は会議中のものとはいえ雑談めいた文脈における与太話に過ぎないもので、そもそも大真面目に「問題視」するのが相応しかったのかも疑問である。

 森氏の「五輪組織委の女性たちはわきまえておられる」という発言に反発して、「私はわきまえない」と叫ぶ奇矯な女性たちも登場したのだが(記事へのリンク)、これに至ってはお笑い種というほかない。森氏の希望は会議を時間通りに終わらせることで、それは男だろうが女だろうが「わきまえている」に越したことはない。森氏の偏見に文句があるなら「女だって会議の終了時刻ぐらいわきまえている」と言えば済む話で、「わきまえない」という女たちは一体何と闘っているのだろうか。

 かつて自民党の田中真紀子氏は、森喜朗氏に政治家としての内実が乏しいことを揶揄して「シンキロウ」と呼んだが、今回の森バッシングはその矛先がどこに向けられているのかが曖昧模糊としているという意味で、まさに蜃気楼との戯れといった趣である。大した含蓄もない森発言を擁護したいとは思わないが、それに対する不明晰な批判に違和感を覚えることも多かったので、以下何点かにわたって気づいたことを述べておきたい。

 第一に、それが建前に過ぎないのだとしても、森氏は少なくとも半分は女を褒めながら発言しているのであって、それを「女性蔑視」と簡単に形容して済ますのはいかにも雑な語法である。「褒め言葉の中に無意識の差別性が見え隠れしている」とフェミニスト風の講釈をたれるのは、詰まらないとは言え、わからなくもない。しかしひと月前にニュース欄に並んでいたのは、公平さのかけらもない断定調のレッテル貼りの数々であった。

 森氏の発言が不愉快であるなら反発すればよいが、その場合やり玉に挙げるべきは「女を褒めながら侮った森元首相」や「女を褒める素振りの中に差別心をあらわにした森元首相」であって、「単に女を侮蔑した森元首相」はどこにも存在しないのだ。そして、本音がどうあれ表向きは女を褒めているのであるから、それを聞いて腹が立ったにしても、「女がそんなに優秀だと言うなら、男の発言時間を減らして女に喋らせたほうが良いのではないか」と皮肉を返すぐらいに留めておくのが常識的なやり取りであると私には思える。

 第二に、「蔑視」それ自体が大罪であるかのように扱われていることにも、疑念を持たざるを得ない。そもそも私は、「女ってやつは……」「男なんて……」と男女互いに少々蔑視しあっているぐらいのほうが笑いも絶えなくてよいと思うのだが、とにかく現代人は自尊心が傷つくことを恐れ、またそれ以上に「人を傷つける人」と見られることを恐れているので、迂闊に他人をからかうこともできなくなってしまった。

 とりわけこのインターネット社会にあっては、「私、傷つきました」という小さな個人の訴えに大きな注意が向けられがちである。これは(第四波と言われる)現代のフェミニズム運動の特徴で、日本に限ったことでもなく、例えば国際的なフェミニスト団体の宣伝パンフレットを見れば、主要な目標の3番目か4番目には「マイクロアグレッション(日常の中で何気なくなされる不愉快な言動)との闘い」が位置づけられている。ほとんど悪気がなさそうな森発言も、言わばマイクロアグレッションの一種だろう。

 日々の生活が「アグレッション」(不当な侵害)にあふれているのは事実で、その撲滅を目指す志は、上品で結構なことだと思えなくもない。しかし人間が、アグレッションの消えた世界を生きたいのかというと、そう単純でもないはずだ。現に深い傷を負った人々には気の毒であるし、無用なアグレッションを肯定したいのではないし、何より私自身は傷つける側の人間であることが多いだろうから、声を大にして言うのは憚られるのだが、「傷のない世界」が人類の理想たり得ないということは確認しておかなくてはならない。

 スーザン・ウルフという倫理学者は、人間は道徳的であろうと努力する動物でありながら、完全な徳を身に着けた聖者になりたいのでも、聖者に出会いたいのでもないという逆説を直視せよと促している。というのも、聖者が道徳的に振る舞うのはあまりに当然で、そこには何ら感激すべき要素がないが、粗野で乱暴な人物が稀にみせる小さな思いやりは、往々にして人の心を打つからである。「いじめっ子のジャイアンが大冒険のただ中で示す勇気と友情」のようなものに我々は感心するのであって、登場人物がみな出来杉君のようであることを期待してなどいないのだ。

 「アグレッションの効用」をわざわざ讃える必要はない。私が言いたいのは、誰しも傷を負うことは避けたいと願う一方で、傷の消えた世界からは生の充実も失われるのだという逆説を、受け入れざるを得ないということだ。「インフォーマル」で「マイクロ」な侵害行為を減らす努力はそれ自体結構なことだが、その撲滅を社会運動の目標にまで掲げてしまう人々の人間観や社会観は、あまりに薄っぺらではないか。

 第三に、控えめに偏見を披瀝したに過ぎない老人の言葉尻をとらえ、マスメディアを焚き付けて要職から引きずり下ろす反差別運動のあり方も、相当にアグレッシブ(攻撃的)だと指摘しておかねばならない。最近は「キャンセル・カルチャー」と呼ばれているらしいが、人民裁判でも集団リンチでも何でもよい。いずれにしても、衆を頼んで要人を吊るし上げる行為は、女性差別や人種差別に負けず劣らず野卑な振る舞いであって、リベラルを自認する人々にも啓蒙は行き届いていなかったということの証左に他ならないのだ。

 ところで、森氏を吊し上げた人たちというのは、ひとことで言えば「昭和のオヤジ」的なるものに対する根深い嫌悪感を持っているのであろう。人権の美名の下に森氏の「失言」をあげつらっているのだが、それはおそらく口実の一つに過ぎず、その裏側には、昭和的共同体がもっていた封建遺制のようなもの――古臭い上下関係、しがらみ、根性論、男女の役割、等々――に対する、系統立った反発心があるように思われる。

 そして、それを体現しているかに見える森喜朗という老人が職を追われて屈辱を味わう姿を見て、溜飲を下げたという人も少なくないのではないか。下衆の勘繰りだと言われそうだから断言はしないでおくが、そういう粗野な感情が仮にあったのだとして、私はそれに難癖を付けたいのではない。むしろ、感情的な反発が批判者の本音なのであれば、それを正確に言語化する努力をしたほうが良いのではないかと思うのである。

 倫理学者のフィリッパ・フットが、オックスフォード大学での討論会にウィトゲンシュタインを招いた時のことを回想している。ウィトゲンシュタインの討論相手が、議論の行きがかりで勢い余って何か馬鹿げたセリフを言いかけたが、恥を感じてギリギリのところで思い留まったように見えた。その時ウィトゲンシュタインは、「いま君が言いかけたことを、そのまま言ってくれ。粗野で構わない。そのほうが我々はうまく議論できるだろう」と促したらしい。

 フットは、「哲学をするには、馬鹿げていて粗野な、そして厄介な考えを払い除け整頓しようとするのではなく、公の場で十分に弁ずる機会をそれに与えるべきだという考え方は、非常に有益だと思う」と振り返っている。哲学というのも大げさではあるが、「昭和のオヤジ的なるものに対する嫌悪感」について考えねばならない我々も、このウィトゲンシュタインの姿勢に学ぶべきであろう。

 昭和的封建遺制への嫌悪感は令和の文化のあり方を構想する上で避けては通れない問題で、ひとまず粗野でも構わないから、率直な言葉で表現する努力が必要である。「差別」「人権」「平等」などの手垢にまみれた概念を振り回すのは、言わば誤魔化しに過ぎないのであって、リベラルな現代人は「要するに昭和臭いジジイどもが嫌いなのだ」ということをはっきりさせた上で、どこがどう嫌いであるかを語ったほうがよいのではないだろうか。

 第四に、森氏を会長の座から追い払うことで溜飲が下がるのだとすれば、その会長職は名誉ある、立派で、羨望の的となるようなものでなくてはならないが、果たしてそうだろうかという違和感についても述べておきたい。オリンピック組織委員会の会長と聞けば、確かに名誉ある職ではあるのだろうが、東京五輪の運営は課題山積の状態で、多くの人が「私にやらせろ」と切望するような職であるかは疑問である。

 いや、私はオリンピック運営業務の実態を何一つ知らないので、具体論としてその会長職にどれほどの魅力があるかを論じたいのではない。そうではなく一般論として、「女性の進出が阻まれている」と言われる職責や活動領域に関し、そもそも進出に値するものなのかどうかを問う姿勢を失ってはならないと言いたいのだ。

 推理小説家のチェスタートンが1910年代に書いた短い評論の中で、今では第一波フェミニズムと呼ばれている当時の「女性の社会進出」運動について、問題の勘所をとらえ損ねた馬鹿騒ぎだと揶揄している。政治家というのは罪人の処刑にも手を染めねばならない汚れた職務であり、賃金労働は奴隷として工場に繋がれることを意味するにもかかわらず、そんな苦痛だらけの活動に進んで関わりたがる女どもは馬鹿なのではないか、と。

 フェミニストは、「男が苦痛を引き受けてやるというようなパターナリズムをまさに、ありがた迷惑として問題視しているのだ。苦痛かどうかは本人が決めればよく、女であるというだけの理由で排除される謂れはない」と言うだろう。それはその通りでよいのだが、チェスタートンが言いたかったのは女の進出を許さないということではなく(「どうぞご自由に」と言っただろう)、近代の「民主主義」と「産業主義」が放つ腐臭を嗅ぎ取ることのできない反差別運動家たちの鈍感さは、差別以上に大きな問題だということである。

 その意味では、「苦痛かどうかは本人が決めればよい」という個人主義に、おいそれと首肯するわけにもいかない。どんな職務も職場も社会関係の中で機能しているのである以上、それにどれほどの価値があるかの吟味は共通の関心であるべきだ。そして機会均等の問題に注意を奪われていると、あるいは機会均等論を貫く個人主義の思想を無批判に受け入れていると、仕事や労働そのものに対する批評眼は曇りがちになるのである。

 やや話が脱線してしまったが、改めて振り返ると森喜朗バッシングの騒動は、批判者自身が「何と闘うべきであるか」を十分に吟味できているのかが疑わしく、「今何と闘っているのか」を正確に表現できているのかも怪しいということを浮き彫りにしたように思われる。奇声を張り上げて蜃気楼を追い回す暇があるなら、立ち止まって足元の大地を見下ろし、自分はどのような文化と生活の堆積の上に立脚しているのかと、時間をかけて問い直したほうがよいのではないか。

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  1. 髙木四郎 より:

    これは、言い遺していく必要があるので、敢えて言挙げしときましょう。

    「昭和的遺制」であろうが、何であろうが、小生は、この「怨念」が、実は、会社から飲み会が消えたとか、若手とのコミュニケーションが難しい、とかでは、到底済まないと訴えてきました。

    既にこれは、会社の「飲みにケーション」の問題とかではなく、人間の根幹である冠婚葬祭とか、果ては皇室の在り方だとかにも破壊的な悪影響を与えているのです。具体的に述べてきた通りでしょう。ハッキリ言えば、この「絶対的な個人主義」は、日本社会のみならず、人間社会を破壊しつつあるのです。

    反論があるなら、言ってみなさい。いつでも歓迎だ。保守思想誌であるはずの、クライテリオンが、これと闘わないでどうする?

    佐藤健志氏は、「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立する。」との憲法規定により、日本の家族は、子孫の存続は、破壊へと向った、と断じています。

    現にその通りでしょう。別稿で指摘した『うっせぇわ』って、要するに、そういうことでしょう。小生は、これを、「若い世代はしょうがないなぁ」とかではなくて、こういう心持を、全否定しないと、いずれ日本社会ごと消滅すると言いたいのです。

    これは、リベラルの極致、要するに共産主義思想そのものなのです。

    近年、保守的な意見は、書籍の世界においても、インターネットの世界においても、大変に隆盛です。しかし、観念で「保守的」であっても、実際の生活においては、「リベラル」の極致を実践している人が、余りに多いのではないですか?

    あなたは、「家族葬」とやらに、手を貸していないですか?嘗て「家族葬」は、「密葬」と呼ばれ、犯罪者を「世間にはとても見せられない」として、止む無く葬ったのと、同じ扱いなのですよ。

    「村八分」という言葉でさえ、火事と葬式には、それなりの礼式を以て送ってきたのに、それ以下の故人への扱いが、常態化しているのが現在の実相です。

    面白おかしくこういう現象を捉えるのでなくて、もっと危機感を持って下さい。関連稿にも書きましたが、クライテリオンの若手諸君には、この辺の危機感が感じられない。これで「保守思想誌」なんですかね。小生は、こういう疑問を呈しています。

    川端さん、他、若手クライテリオンの皆さん、それでも飽くまで、小生の言挙げを、無視しますかねぇ…。

    うーん、無視しそうだなぁ…。

  2. 髙木四郎 より:

    クライテリオンって、本当に保守思想誌なんですかね。

    本当にそうなら、今こそ、川端さんこ御指摘の、この「昭和的遺制」の極致について、一言あるべきと思うのです。

    即ち、眞子内親王殿下と、小室圭との問題です。皇室は、「遺制」の極致です。遺憾ながら、眞子様も、秋篠宮家も、小室某も、宮内庁も、政府中枢ですら、下らない「今時の個人主義、その他」に、汚染されているのではありますまいか。

    これ、何で誰も指摘しないんですかね。畏れ多いから?でも、これで我が国の皇室の存否が危殆に瀕しているのですから、言及せずんば置かまじ、ですよね。だから私は、腹立たしいんですよ。

    若者が如何に『うっせえわ』に狂っててもいい。何億回再生でも構わない。でも、この問題を放置していたら、私たちの土台ごと、なくなるのではないでしょうか。

    大体、日本のような伝統と歴史溢れる国に、貴族院が、枢密院が、宮内省がないことが、おかしい。欧州では、当り前のように、貴族院が、共和国ですら元老院が存在するのが常ですよ。日本には、上院ですら、民選の参議院しかない。これは、歴史ある国の民として、恥です。

    藩屏をなくした皇室が、惑うことが、或る意味、当り前ではないですか。
     
    私は、貴族院と、枢密院、宮内省(いずれも、英国や英連邦、タイ王国、その他には、当り前のようにある組織です。調べてみて下さい。)の復活を求めます。それでは足りないくらいだ。

    併せて、川端さんらが恐らく大嫌いであろう、「昭和的遺制」の大復活を望みます。それでこそ、保守思想誌、『クライテリオン』の本懐と思います。

  3. めんたいこ より:

    >>「いじめっ子のジャイアンが大冒険のただ中で示す勇気と友情」のようなものに我々は感心するのであって、登場人物がみな出来杉君のようであることを期待してなどいないのだ。

    とてもよく理解できます。よくこの点を取り上げて出来杉君的な人間がかわいそうという意見を聞きますが、正直人間ってこういうことに感心してしまうものだな、と思います。

    ただ、「そういうのが人間の本性である」だからといって「それが正しい」というわけでもないということも当たり前のことながら事実だと思いますし、その点は川端様も理解されていることだと思います。

    「人間は道徳的であろうと努力する動物でありながら、完全な徳を身に着けた聖者になりたいのでも、聖者に出会いたいのでもないという逆説を直視せよと促している」とありますが、この「逆説」を「直視」した結果、結局我々はどう生きるべきだと考えておられるのでしょうか。

    自らは完全に道徳的な人間ではないという事実を謙虚に受けとめつつ、道徳的に生きようという努力をしていきましょう、くらいの話なのでしょうか。

    • 川端 祐一郎 より:

      > 自らは完全に道徳的な人間ではないという事実を謙虚に受けとめつつ、道徳的に生きようという努力をしていきましょう、くらいの話なのでしょうか。

      それはそのとおりだと思いますが、私は、「どういう性質を身につけるべきか」とか「どういう態度で生きるべきか」を考えるよりも、「道徳的に感動できるエピソードがなるべく多く生まれること」を望むのがいいと思っています。語り甲斐のある道徳的な思い出の数で社会や人生の価値が決まる、みたいに考えています。いわば「エピソード中心」主義ですね。倫理学はたいてい、「行為中心」か「人格中心」なのですが。

  4. 髙木四郎 より:

    川端様、こんにちは。初めまして。(以下長文、大変失礼致します)
    本稿は、「「昭和的しがらみ」への嫌悪感」や、「「うっせぇわ」と」などとの関連稿ですね。川端さんのこの関連稿は、大変興味深く拝読しておりましたので、本森喜朗氏関連稿は、小生、待ってましたの思いで受け止めております。

    小生は、「昭和的共同体がもっていた封建遺制のようなもの――古臭い上下関係、しがらみ、根性論、男女の役割、等々――」を濃厚に持ち合せた諸先輩方から薫育を受け、自らも残念ながらそんな人間ですので、ご紹介の「うっせぇわ」を聴いて、今の若い人達を「ここまで弱ったのか~」と哀れに思うのみで、半分ほどの共感を持たれた川端さんと異なり、ほとんど共感を感ずることができませんでした(笑)

    ただ、若い方々の「昭和的遺制を極度に嫌がる心性」というのは、平成期における狂ったような「新自由主義的な構造改革」(を熱狂的に受け入れ、推進した国民)とも一脈を通ずるものがあり、決して馬鹿にすることのできぬ、新国民の新たな傾向であり、小生から見れば、「日本の桎梏」として、「克服」ないし「超克」の対象と受け止められるものです。

    ある世代に、特有的なその手の「情念」が生れることは、これまでにもままあったことではあります。

    例えば、昭和26年生れの小生の母は、(小生からすればですが)熱狂的なパン食愛好家で、何も知らぬ子供時代は、パンに味噌汁という奇怪な朝食を摂らされ続け、上京して初めて、自分は御飯が好きで、パンが好きではなかったと気付いた次第でして、後に「なぜそんなにパンにこだわったのか」母に訊いてみたところ、「パン食は輝いていて、特にパンを買って食べることが無上の憧れなのだ。台所を私が握ったので、自分の食べたいものを家族にも食べさせた。」と聞き、唖然としたものでした。

    合理性の問題ではないのですね。進駐軍がもたらした「輝けるパン」を、自家(農家)で作る米麦でなく、金銭でもって店で買うことで、憧れと欲求を満たしていたことが判明したのです。

    当時、「輝ける日本経済」の真っ只中で育った小生は、アメリカはその内日本経済に打ち負かされるぐらいに考えていたので、そんな憧憬が理解できようもなく、世代間のギャップに驚いてしまったものです。

    これが祖母の世代だと、戦時中に砂糖の(台湾からの)移入が途絶え、田舎なので米麦に困ることは無かったのですが、甘いものに飢え続けたため、戦後は親の仇のように甘味に手を出し、一日二日で饅頭を一箱平らげるなど、和菓子を食べまくっていた祖母やそのお友達の姿を思い起し、複雑な気持を喚起するものです。

    恐らく、若い人達に限らず、現代日本に根強く蔓延る「昭和的遺制に対する無条件の反感」は、その手の、合理性を超えた情念を形成しているものと思われ、小生にしてみれば、「病膏肓に入る」状態と思えてならないのです。

    しかし、それが情念である以上、理性を持っての説得は、ほとんど不可能です。浜崎洋介氏の言葉ではないですが、「下駄箱に食塩が置いてある」ようなもので、食卓と違い、その「塩」が、調味に使われることが考えられないからです。

    しかし、「輝けるパン食」が、伝統和食文化を駆逐して、文化の破壊のみならず、生活習慣病の温床となったように、「親の仇のように甘味に手を出す」ことが、糖尿病などの要因となったように、「昭和的遺構への無条件の反発」は、社会的歴史的文化的な副作用(「副反応」という新造奇語は大っ嫌いです)を必ずや惹き起し、現に深刻な問題を生じつつあるのです。

    社会経済的なその害悪は、これまでも散々論壇で論じられてきたことなので、平素の文化社会的な副作用を一つ挙げましょう。これは、つい二、三年前に小生の職場で起ったことです。

    とある従業員の御尊父がお亡くなりになりましたので、従前どおり、内規に従って、職場からご葬儀場に弔電を打とうとした時です。小生が葬儀場に「弊社としても故人に弔意を示したく、弔電をお届けしたいので、故人のお名前・漢字と「何処の間」でご葬儀が行われるか教えて下さい。」と伺ったところ、「個人情報ですので、お教えできません。」と葬儀社が宣ったのです。

    小生は、文字通り受話器を落しそうになったぐらい驚いたのですが、気を取り直して、「憚りながら、人の生き死には、ご家族のものだけでなく、社会公けのものでもあります。まして故人は、当社従業員が喪主であり、社会通念上、弊社が形を以て弔意をお届けするのが礼儀でもあります。お伺いしたのは、葬儀場に掲示してある程度の一般的な情報に過ぎず、「個人情報」として、依頼を撥ねるのは、行過ぎであり、法の趣旨にも沿わないと存じますが。」と申上げても、「個人情報なのでお教えできません。」の一点張りで、喪主(たる従業員)に弔意を届けるだけで、えらい往生をした「事件」がありました。

    これって、世の「新感覚」だからと言って、等閑視して良いものでしょうか。小生は、絶対にいけないと思います。併し例えば、昨今では、小生の実家の片田舎でさえ、「家族葬」が大流行りであり、ご近所の懇意の方がいつ間にか全く知らぬ間に故人となり、生前お世話になったからと、弔問にもおいそれと伺えない。お子さん(喪主?)になぜ葬祭を知らせなかったのか聞いても、「人様に迷惑だから施祭をしなかった」という、人の死、親兄弟の死を「迷惑」と捉えるその感覚に、計り知れぬ衝撃を受けています。

    折しもコロナ禍であり、この傾向には、拍車がかかっており、従前まで当り前であった公けの葬祭は、まるで、ここを先途と、一瀉千里に廃されるようになっている昨今です。

    これって、間違いなく、「昭和的共同体がもっていた封建遺制のようなもの――古臭い上下関係、しがらみ、根性論、男女の役割、等々――」に対する、無条件の反感・反発が、明確な形を持って現れ出たことではありませんか。そして、それによって、社会がアトム化し、人と人との間にあった絆が壊れ、共同体が無くなりつつある、つまり、我々が人間でなくされつつあることそのものでしょう。しかも、それが佳しとされている。

    再度申上げますが、「ある世代に、特有的なその手の「情念」が生れることは、これまでにもままあったこと」であり、それはそれで背景のあることであって、仕方のないことではあります。併し、それを、社会的な副作用が生じようとも放置して良いということにはならず、どういう形にか、手当をしてゆかねば、局所的であれ、巷間広範な「死」を招きかねないということでもあるのです。

    お可哀想に、森元総理は、「国際リベラル社会」まで総動員して、公的に「死」なされただけでなく、強引な「女性クォーター制、或いは夫婦別姓制などの強制的導入による、既存社会の破壊」運動、そして、オリンピックを日本で開催させたくない後ろ暗い大運動にまで利用されている始末です。

    女が多いと、議論が長くなりやすい、というのは、常にあることではありませんが、よくあることではあります。しかも、別にそれが悪いわけではない。むしろ「弁えて」進行を忖度する男性よりも、別の視点から出てくる意見が的を射ていることがあるなど、有益なことだってあるでしょう。

    そんなよくある普通の話が、なぜこんな茶番劇に帰結するのか、凡そ理解に苦しみます。森元総理が、滅却すべき「昭和的遺制」の象徴、スケープゴートになったからと解するより他、納得に足る理由が乏しい。こんな「差別発言」とやらが国際問題になるより、現在進行中の香港、ウイグル、チベットなどへの人権弾圧を行なっている北京での五輪開催の方が、余程大国際問題でしょう。

    迂遠且つ卑近ではありますが、地縁血縁の冠婚葬祭を大事にする、人との絆を、共同体を大事にする、職場の飲み会や親睦を大切にする、こういう地道な、粘り強い実践を以て、漸進的に「情念の桎梏」を次第に社会の片隅の方へ寄せてゆき、あるべき世代交代を待つ、思潮の転換を待ち迎える志操の堅持が、我々に必要といえるのではないでしょうか。

    追記:
    このような折に、『鬼滅の刃』が大流行するのは、むべなるかなと思われてなりません。我々は、鬼に襲われていて、或る者は喰われ、或る者は新たな鬼にさせられて、人が人でなしにさせられている。今だけ金だけ自分だけの莫大なパワーを持つ鬼の生き方でなく、老いるから、死ぬから儚くも美しい、人の生き方が大事ではないか。人の想い、家族や友の絆こそ繋ぐべき永遠ではないか、という当作品のメッセージは、今こそ我々の胸を打つのだと考えます。

    小生には、鬼と融合し、乗客と鬼殺隊士を載せて無間地獄に突き進んで行く『鬼滅の刃』映画編の汽車の様子(劇中最後で転覆大破)が、今の日本のように思われて、心辛く思います。鬼が丸切り竹〇平蔵や高〇洋一に見え、またその鬼の口車に唆かされて、片棒を担ぐ可哀想な人達や、夢を見せられて眠りこける乗客、最後に悪夢を見て喰われんとする乗客が、日本国民に見えて仕方ありません。

    そして、上弦の鬼を撃退して乗客と若き鬼殺隊士を守り抜いた炎柱が、「大阪都構想」という「上弦の鬼」を撃退して、大阪市民と日本、世界を守った藤井聡先生に見えて、仕方ありません(笑)…(泣)

    小生も、炭治郎にも及ばぬ最下位の鬼殺隊士としてではありますが、今こそ、現代日本の鬼殺隊士候補たる有志の諸君に、「起きろ!攻撃されているぞ!」と警鐘を乱打し、覚醒を促したいと思っています。

    • 川端 祐一郎 より:

      実践と同時に、「言葉にする努力」がけっこう大事なのではないかと思います。
      情念の問題であるとはいえ、昭和的価値観についても言葉によって程度掘り下げておかないと、若い人も実践に巻き込むのも難しかったりするのではないかと。

      • 髙木四郎 より:

        昔(と言うても、ほんの少し前までは、ですが)は、「言葉にする努力」というのは、説教された若者がやることであって、説教するおじさんがやることではなかったのです。はっきり言って、「なんや、あの爺い、ふざけやがって、何でそんなこと言うんや!」という怒りから発して、経験を通して、次第次第にその意味が分って、「そうや、そうやったなぁ」と、得心することに意味があるんですがね。

        それが、今やおじさんの方から、「言葉にする努力」が要るんですかね。

        自分で言語化して、やっと分って、そうして、若者は、大人になるんだと思うんですがね。それを、今や説明の時代だからと言って、おじさんが、「言葉にする努力」まで若者から取り上げて、自ら若者が大人になる機会の芽を摘んでいるように思われるんですが。それでいいんですかね。

        川端さんは、どう思われますか。

        >実践と実践と同時に、「言葉にする努力」がけっこう大事なのではないかと思います。
        情念の問題であるとはいえ、昭和的価値観についても言葉によって程度掘り下げておかないと、若い人も実践に巻き込むのも難しかったりするのではないかと。

        • 川端 祐一郎 より:

          おじさんだろうがおばさんだろうが、「言葉にしにくい問題を言葉にする努力」を惜しんではならないと思っていますが、大学で論文を書いたり雑誌の編集に携わったりしている人間の話なので偏りはあるかもしれません。

          • 髙木四郎 より:

            川端さん、憚りながら、お答えになってませんね。残念です。

            小生は、「若者を、そこまで甘やかしていいのか。」と問うてます。自分で会得しない限り、それは本当に身に付くのか。身に付くのなら、それはそれでいいでしょう。そうとは思いにくいから、敢て言挙げしています。

            社会は、継承から成り立っています。おじさんとかおばさんとかの問題ではないです。これは、私の具体的な体験からも来ています。それでも、やっぱり反発しますか。

            「言葉にしない努力」も大事だと思うのですが。

            • 川端 祐一郎 より:

              おっさんの価値観を言葉にする努力をおっさんがすることが、若者を甘やかすことに当たるとは、私は思いません。
              「俺は何も説明してやらない。お前たちのほうで俺の気持ちを察しろ」という態度が、教育的価値を持つ場合があることを否定はしませんが、私はそういうのは苦手ですね。

              そもそも、おっさんで、自分の(あるいは自分の世代が共有している)価値観を上手に言葉で表現できる人って、ほとんど居ないのではないかと思いますね。私だって無理です。
              頑張って努力して、表現できるのはせいぜい3割か4割で、相手に伝わるのは1割か2割といったところでしょう。自分でも3割か4割しか表現できないのだから、それを5割や6割にする努力をまずすべきだと思うし、それに成功したところで十分な説明では全くないのだから、若者に対する甘やかしに当たるとは思わないです。

              • 髙木四郎 より:

                川端様、大変遅くなりまして、失礼致します。わざわざ当方のような「おっさん」と、対話して下さいまして、誠にありがとうございます。流石はクライテリオンの一員、ひと味違うことと存じます。

                >そもそも、おっさんで、自分の(あるいは自分の世代が共有している)価値観を上手に言葉で表現できる人って、ほとんど居ないのではないかと思いますね。私だって無理です。

                小生も、昔は無理でした。併し、今なら、相当できるかなと。命と健康を削りましたがね。

                >「俺は何も説明してやらない。お前たちのほうで俺の気持ちを察しろ」

                と、おじさん達は思っているのではありません。「ヒントは与えた。後はお前達自身の頭で考えてみろ」と言っているのです。

                この問いかけが、世代を継続しているのです。

                昔は、こういう「暗黙知」が当り前だったのですが、川端さんのような優秀な方が、こうも分らないことの方が衝撃です。若者たちが、「おっさん」の、言葉に出来ない「価値観」を忖度することこそ、ある意味、後世の特権だったんですがね。経験を重ねれば、そこまでは到達できるものですよ。

                > 頑張って努力して、表現できるのはせいぜい3割か4割で、相手に伝わるのは1割か2割といったところでしょう。自分でも3割か4割しか表現できないのだから、それを5割や6割にする努力をまずすべきだと思うし、それに成功したところで十分な説明では全くないのだから、若者に対する甘やかしに当たるとは思わないです。

                正直言いますが、「割合」を計算しているところで、もう終りです。

                • 髙木四郎 より:

                  追伸

                  川端さんには、「継承」に対する信仰心?が足りないように思うのです。

                  • 熱く激しく時にクールに生きようぜ より:

                    失礼します。

                    恐らく、おっさんに限らず高齢者など年長者がアホな人間ばかりだから若者が基準が解らないのだと思います。 そういうものですよね。若者の思考が浅い気もしますし、損得勘定が混じった数学的思考のみの様な気もしますが、日本社会がやって来たことを今更悔やんでも仕方ありません。

                    何かを継承と言ってみたところでアホや馬鹿を継承しても仕方ないし、日本は色々と伝統や日本的なものを破壊して来たのですから、先ずは近代のして来たことの現状認識やその整理が必要でしょうね。

                    私は親不孝者ですが、今の若者は親には忖度してる方ではないですかね。

                    今の時代を作ったのは我々であり若者ではありません。要するに若者は年長者の作った社会に合わせてるのではないでしょうか。

                    合わせている方がひとまず得だからそうしてるだけであって、今のところ別に何か他にする必要も目標も手段も見当たらないのではないですかね。若者は特に自分にメリットも感じないものに対して何も思わないのではないでしょうか。だから若者はおっさんが何が言いたいのかさえ解らないし、気にも留めていないと思います。

                    若者が犯罪や一線をこえない限り、何も持たざる若者を叩いても何も得られません。子供には自由にやりたい事を遠慮せずにやれ、だけでいいと思いますけどね。やれと言ってもおっさんや社会の方に金が無いってのがありますので、個人的にはなかなかおっさんは若者達に協力は出来ませんが。

                    あなたに足りないのは自分は世間に巻かれてるだけ、所詮自分は羊の群れの一頭であるという自分を自覚し恥じることでしょうね。

                    別に若者に過保護になる必要もなければ、責めたり虐めたりする必要もありません。何か必要以上に若者に限らず人を気にする必要などありません。若者がつまらなければ無視すれば良いし相手にしないだけです。同じ職場なら叱ったりすることもあるでしょうけど、別に若者や自分と合わない人と話したって面白くもないんで、必要以上に関わろうとしなくていいかと思います。

                    自分が他人をどうにか出来るわけでもないのですから、現実社会の中で自分がおかしいと思うことには、自分に失うものがあってもおかしいと言って見せたり、人から親切や気遣いされれば、ありがとう、と言う様な素朴な当たり前の事を普通に行動してれば若者はそれを見て育つでしょう。いきなり若者に求めるのではなく自分が若者に生き様を見せれば良いと思います。

                    個人が政治運動や啓蒙活動をする必要はありませんが、日本は個々の精神の自立のそこから始めなければならないという自覚が個人には必要でしょうね。

                    子供は親の写鏡でしたでしょうか、そう言ったかと思いますが、若者が弱って見えるのならば私らがそうなんでしょう。私は若者にああして欲しいこうして欲しいというのはなくて、どちらかというとモンスターペアレンツの様な馬鹿な親の方や、クレーマーみたいな糞ジジィの方をぶん殴りたいですね。

                    現実社会下で若者、高齢者、同世代など日本国民の誰かに期待するのはやめた方がいい様な気もします。

                    若者は最低限の礼儀さえあればいいですよ。同情出来ない犯罪など、一線をこえたら口ではなく暴力で叱るんで、そこさえ分かっていれば好きにやったら良いです。

                    あなたはクレーマー気質でナメクジみたいです。ハッキリ言って私はネチネチしたあなたみたいな人が嫌いです。口うるさいのと何を言っているのかよく解らないネチネチは違います。

                    ゴソゴソにはゴキブリホイホイ、ブーンにはハエ叩き、ネチネチには殺虫剤ですね。現代日本のおっさんや高齢者なんてゴキブリやハエ、ナメクジであり、肉球で潰されて、プギャーって頭から声を出すようなそんなもんでしかありません。

                    • 高木四郎 より:

                      一仕事終って、ようやく落着きました。やれやれ。

                      熱く激しく時にクールに生きようぜ より:
                      >あなたはクレーマー気質でナメクジみたいです。ハッキリ言って私はネチネチしたあなたみたいな人が嫌いです。口うるさいのと何を言っているのかよく解らないネチネチは違います。

                      >ゴソゴソにはゴキブリホイホイ、ブーンにはハエ叩き、ネチネチには殺虫剤ですね。現代日本のおっさんや高齢者なんてゴキブリやハエ、ナメクジであり、肉球で潰されて、プギャーって頭から声を出すようなそんなもんでしかありません。

                      おっとっと、読みにくいから全く見過しにしていましたが、凄いネガティブ発言、記録しました。要するに、私は殺虫剤で駆逐されるべき存在だと?なぜでしょう?あなたの感情は伝わりましたが、それに客観性を与える情報が不明です。それでは、第三者を説得するには、凡そ不充分だと思いますがね。

                      それでも、これが恐らく?若者の反発?なのですね。実は全編、私への反発を記録している呪詛?なのですね。一か月も等閑視していまして、誠に申し訳ありません。でも、あなたの文章は分りにくく、読み辛い。良い文章とは、最初に結論、次に例示、最後に駄目押しと、そして例示には、読ませるエピソードを交えながら論ずるものです。そういう基本が出来ていないから、おじさんは若者を批判するのですがね。あ~、「個性を分ってくれ」とか、言う積りですかね。わからんわ、そんなもん。甘ったれるんでないわ。…もっと分り易く反発て欲しかったなぁ。

                      気付かなかったわ、御免なさいね。でも、ここまで言ってきたあなたの気概を多としましょう。以下、お応えしてゆきます。

                      >何かを継承と言ってみたところでアホや馬鹿を継承しても仕方ないし、日本は色々と伝統や日本的なものを破壊して来たのですから、先ずは近代のして来たことの現状認識やその整理が必要でしょうね。

                      「アホや馬鹿を継承」といいますが、どうやってそれが、「アホや馬鹿」なのか、判別できますか?分らないから、取敢ず継承し、その後、歴史の試練に晒して鍛え上げるのではないですか。

                      まぁここまで若者に寄る必要はないと私は判断していますが、例えば、昔、部活中に水は飲むなと指導されました。今は、水分補給を適切にしていないと、脱水症状が起きるとして、渇水する前に水分補給をすることが推奨されています。

                      それは分るのですが、元々、何故、部活動中に水を飲むな、と指導されたかというと、世上、常に水分を補給できる環境下にあるとは限らないため、水分が補給できない環境下においても、戦闘意欲を失わない教育が推奨されたものと思われます。敢えて言えば、そんな環境下でも、グラウンド上の水溜りの泥を啜ってでも、水分を摂りこむ「ズルい」生存術を身に着けるためでもありました。

                      >日本は色々と伝統や日本的なものを破壊して来たのですから、先ずは近代のして来たことの現状認識やその整理が必要

                      尤もらしく聞えますが、実際のところ、日本が残してきた「日本的」なるものは、現代においても、破壊されることなく、日常生活の中に、色濃く残っているものです。「整理」とやらは、先述の通り、後ですれば宜しいでしょう。「日本的伝統」をやらないことの言い訳にその言辞を使っていませんか?

                      >今の時代を作ったのは我々であり若者ではありません。要するに若者は年長者の作った社会に合わせてるのではないでしょうか。

                      確かにそう。しかし、還らぬ繰り言を言っては、社会は進歩しません。我々おっさんだってね、先人たちの歩みに対して、言いたいことは山ほどある。でもね、先人たちの撫育によってこそ、我々が成人してきた経緯もある。

                      ある程度まで来たら、自分たちこそ、日本社会の作り手、担い手として、借金であろうが、遺産であろうが、引継いで、この社会を良くしていく責任があるのでは?

                      >合わせている方がひとまず得だからそうしてるだけであって、今のところ別に何か他にする必要も目標も手段も見当たらないのではないですかね。若者は特に自分にメリットも感じないものに対して何も思わないのではないでしょうか。だから若者はおっさんが何が言いたいのかさえ解らないし、気にも留めていないと思います。

                      >若者が犯罪や一線をこえない限り、何も持たざる若者を叩いても何も得られません。子供には自由にやりたい事を遠慮せずにやれ、だけでいいと思いますけどね。

                      ニヒリズム、ここに極まれりですね。若者は、「特に自分にメリットも感じないものに対して何も思わない」ことを通して、どれだけ自分が不利に追いやられているか、自覚がないのですかね。そういう姿勢を通じて、やれ中央省庁再建だとか、郵政民営化とか、派遣労働解禁とか、働き方改革とか、デジタル庁創設だとか、一方的に搾取されているわけですよね。私達おじさんも、それに対して身を挺して戦いますけれども、肝心の若者達が、「自由にやりたいことを遠慮せずにやれ」で、本当に闘えると、闘って、若者自らの益を確保できると思いますか?

                      余りにも甘い考えだと思わずにはいられない。

                      >別に若者に過保護になる必要もなければ、責めたり虐めたりする必要もありません。何か必要以上に若者に限らず人を気にする必要などありません。若者がつまらなければ無視すれば良いし相手にしないだけです。同じ職場なら叱ったりすることもあるでしょうけど、別に若者や自分と合わない人と話したって面白くもないんで、必要以上に関わろうとしなくていいかと思います。

                      >自分が他人をどうにか出来るわけでもないのですから、現実社会の中で自分がおかしいと思うことには、自分に失うものがあってもおかしいと言って見せたり、人から親切や気遣いされれば、ありがとう、と言う様な素朴な当たり前の事を普通に行動してれば若者はそれを見て育つでしょう。いきなり若者に求めるのではなく自分が若者に生き様を見せれば良いと思います。

                      私は別に若者を虐めているつもりはありません。スパルタでもって鍛えても、まぁ罰は当らんだろうと思っているだけです。

                      私は、いわゆる「昭和的遺制」で以て鍛えられた「おっさん」です。理不尽なことも多かった。でも、それで良かった。このメリットを、若者にも是非伝えたい。なかなか俄かには分ってもらえない現実はありますが、私はその「生き様」でその正義を伝え続けていますがね。実際にね。

                      >若者がつまらなければ無視すれば良いし相手にしないだけです。同じ職場なら叱ったりすることもあるでしょうけど、別に若者や自分と合わない人と話したって面白くもないんで、必要以上に関わろうとしなくていいかと思います。

                      必要だから関わるんですがね。社会が個人だけで成り立っているのならば、そういう言辞もあり得るのでしょうが、絶対にそうではないでしょう。そういう個人主義的な態度が、若者をして、益々、利己的にさせたんじゃないんですかね。

                      >どちらかというとモンスターペアレンツの様な馬鹿な親の方や、クレーマーみたいな糞ジジィの方をぶん殴りたいですね。

                      私はそのどちらでもありませんが、いつかあなたに殴り掛かられてみたいものですね。まぁその結果、あなたがどうなるかは保証できませんが。

                      >あなたはクレーマー気質でナメクジみたいです。ハッキリ言って私はネチネチしたあなたみたいな人が嫌いです。口うるさいのと何を言っているのかよく解らないネチネチは違います。

                      まぁ再度言いますが、あながちあなたの言い分は間違ってない。ネチネチしているのは、私が、柔道をやっていたからではあります。ネチネチ、最後まで寝技で攻め続け、相手を最後まで窒息させるか、関節を極めて降伏させるか、立技での華麗な一本勝ちでない武士道もありますのよ。

                      >ゴソゴソにはゴキブリホイホイ、ブーンにはハエ叩き、ネチネチには殺虫剤ですね。現代日本のおっさんや高齢者なんてゴキブリやハエ、ナメクジであり、肉球で潰されて、プギャーって頭から声を出すようなそんなもんでしかありません。

                      再度言いますが、流石にここは、訂正されたほうが良いのではありませんか。

  5. 一読者 より:

    恐れ入りました。
    ただただ素晴らしい論説です。
    森前会長の目に余る袋叩きについて、これほど正鵠を射た冷静かつ丁寧な調子の評論はないのではないでしょうか。

    これこそ、出来る限りの多くの人が読むべき、考えるべき、大切な問題提起でしょう。

    本文中にもあります、
    「反発心が批判者の根本感情なのであれば、それを正確に言語化する努力をしたほうが良いのではないか」
    をまさに実現した論説だと感服いたします。

    どうぞ引き続き、心ある評論を期待しております。

    頓首再拝

  6. ヨシダマサカズ より:

    お疲れ様です。森さんの発言は意図的に切り取られて記事にされています。
    読者は森さんの発言内容や経緯は知る由も有りませんので記事を信用してしまします。(鵜呑みにする読者も愚かと言えば愚かですが・・・)
    森さんの発言内容を記載して「読者の皆さんは森さんの発言をどのように考えますか?・・・」的な記事にして読者に考えて貰う。 のような記事を掲載する新聞社が有っても良さそうなものですが、最近の「産経」も骨が有りません。やっぱり私も含めて国民が劣化しているように感じます。
    川端さんにお願いでです。劣化しつつある(すでに劣化しているかもしれない)国民を正しい方向にお導き下さい。お願いします。

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