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【川端祐一郎】働くことと、暮らすこと――性的役割分業を論ずる前に

川端 祐一郎

川端 祐一郎 (京都大学大学院准教授)

コメント : 4件

 今日は、水曜日のメルマガ(下記リンク先)の続きです。
 https://the-criterion.jp/mail-magazine/m20190313/

 前回は男性的組織と女性的組織の違いを論じましたが、もう一つ触れておきたいのは、水曜日に紹介した読者からのご意見のうち、

「(2) 男もじつは、働かなくて良いなら働かない人が大半であって、働きたいか家に居たいかという点では、女と大して変わらないのではないか。」

 という点についてです。

 「男は仕事、女は家庭」という役割分担の妥当性の話になると、誰もが自らの人生経験を背負った「偏見」を口に出さずにはいられなくなりますし、極論の押しつけ合いに発展することも少なくないわけですが、その偏見も生活感覚に根差したものであれば聴くに値するものは多く、泥沼化する議論が案外面白かったりします。

 性的役割分業については社会学などの分野でたびたび調査が行われているものの、私のような素人が見聞きする範囲では、決定的な結論は得られていないという印象です。実証分析において生物学的な性差と文化的に創り出された性差を厳密に区別することは難しいし、生物学的・文化的性差に忠実に従って社会システムを設計することが合理的であるとも限らない(社会には性差以外にも考慮すべきものが山のようにあるからです)ので、ややこしいわけです。

 だから、「男女の役割分担はこうあるべし」という1つの結論にたどり着くイメージを持つよりは、「ああでもない、こうでもない」というやり取りが、終わりのない会話として成熟していくことを目標とすべきなのでしょう。

 ところでこの種の議論を行う際に、注意すべきだと思う点をいくつか挙げておきます。

 まず1つは平凡ですが、外に出て働くことが家庭を守ることよりも立派なわけではない、ということです。ただ私は、「家庭の仕事にも大きな価値があるのだ」というようなことが言いたいわけではありません(それは当たり前過ぎて指摘するまでもないことです)。それよりも、会社や役所などで我々が従事する「仕事」というのは、人間的な意味では実にくだらないものが多いのだということを、繰り返し確認すべきではないでしょうか。

 イギリスの作家チェスタートンは、1910年に書いた「現代の奴隷」というエッセイの中で、次のように言っています。

「最近いわゆる“自立した女性”が増えてきて、最も厳しい重労働やみじめな仕事にさえ女性が従事するようになっているが、じつに悲しいことだ。…始業ベル・時計・定時制・縦割り組織などは、仕事を正確にするためだけに作られた無粋なものだが、これらは本来男のためにある。男というのはもともと一つのことしかできなくて、しかもその一つのことをさせるだけでも難しい生き物だからである。…ところが今や状況は変わって、女性たちがこの世界に侵入し、しかも想像もつかないほど真面目に働いている」

「男は、女とちがって“誠実さ”というものを理解しない生き物だ。男は“義務”、とくに“一つのものに対する義務”ならかろうじて理解できる。しかし誠実さというのはあらゆるものに対する義務であって、誠実さに休日はない。誠実さというのは、ルールも限界ももたない、ひたすら熱心な礼儀作法のようなものだ」

 ここで言う「誠実さ」(conscientiousness)とは、「良心」や「優しさ」と訳しても構わないような、慎重で全方位的な気配りのことで、言い換えれば生活世界の全体に対する総合的な関心であり、愛情を意味しています。人間の幸福な生が、その種の関心や愛情に支えられる必要があることは言うまでもありませんし、女性のほうがそれに長けていることが多いのも間違いないでしょう。

 一方、男というのは視野が狭い上に不真面目な生き物なので、一つの明確な義務を与えて、始業ベルのように無粋なもので縛ってやる必要がある。そのようにして組織されているのが、近代的な工場やオフィスで男が従事している仕事です。もちろん女もそれに従事することはできるものの、女の特技を活かすことは難しい。

 そういう人間味に乏しい労働は、他に取り柄のない男どもに任せておけばよいのであって、そんなところへわざわざ進出したがる女たちは何か大きな誤解をしているのではないか、というのがチェスタートンの言いたかったことです。労働環境が100年前とは大幅に変わったとは言え、我々はこの感覚を忘れるべきではないでしょう。その意味で、「男もじつは、働かなくて良いなら働かない人が大半」という冒頭のご意見は尤もなわけです。

 もう一つ、性的役割分業を論ずる際に確認しておくべきなのは、そういう人間的な意味では面白くも何ともない労働が、大量に必要とされるのが近代社会だということです。(そう言えばここまで、男の悪いところばかり指摘して女の欠点を語っていないのは不公平な気がしますが、それはここで論じたいのが男女の良し悪しというよりも、どちらが近代の産業システムに向いているかだからでもあります。)

 「工業化以前の農村社会では、男も女も同じように畑仕事をしていた。『男は仕事、女は家庭』という役割分担は最近になって作り出された慣行に過ぎず、伝統でもなければ生物学的本質でもないのだから、そんな分業意識は捨ててしまっても構わない」

 というような主張を、フェミニストやリベラリストが唱えているのを耳にすることがあります。これは、半分正しくて半分間違っているように思えます。

 大規模に組織化された近代工業社会における賃金労働に比べると、前近代的な農業や家内制手工業というのは、そもそも仕事と家庭の距離そのものが近かったはずです。一方、否応なしに「家庭」と「労働」が分離されてしまう現代社会にあっては、昔とは異なる「男女の分業」が必要になったとしても不自然なことではないし、1つの目的に特化した労働に男性が向いているとすれば、働きに出るのが主に男であってよいのかも知れないわけです。

 しかしこう議論を進めてくると、性的役割分業がどうあるべきかの前に、近現代の工業社会が「働くこと」と「暮らすこと」のあいだの距離を広げ、人間的とは言い難い方向に発展してきたことそれ自体を問題視すべきだということに思い至ります。また、目的特化型の労働を中心に組織され、視野の狭さが肯定されてしまうことも問題の1つでしょう。だから、高度成長がひと段落した1970年代や80年代に「本当の豊かさとは何か」というような議論が登場したのは無理もないし、職場の働き辛さが労働者の不満の種であり続けているのも理解できることです。

 ところが当時のポスト工業社会論や脱工業社会論は、近代性と折り合いをつけながら人間的な生活を取り戻すための現実的な方法を考える、というような方向には進みませんでした。工業化に疲れた人々も、大半は惰性でそのまま工業社会を生き続けたわけですが、前衛的なイデオローグたちも大半は、

  • ヒッピー的退廃や新興宗教のような、近代性からの単なる逃避
  • 工業社会のものだけでなく、あらゆる価値の規準を否定してしまうポスト・モダニズム
  • このまま工業化を突き進めればユートピアが訪れるのだとする、テクノロジー信仰
  • 工業社会は知識社会へと自然に移行し、一層洗練された時代がやってくるのだという進歩史観

 のいずれかに走ってしまったわけです。

 我々は本当は、この豊かな生活を支えている近代工業社会の原理をいったん受け入れた上で、時間をかけて少しずつ、人間性を回復する方法を考える必要があります。以前のメルマガで書いた「引っ越さなくていい社会」というのは、小さいですがそのためのアイディアの一つで、地元に長く定住しても満足な生活を送ることができるような社会をデザインするという「方向付け」をした上で、物流・交通ネットワークや情報通信のようなテクノロジーを駆使していくべきだという話です。
https://the-criterion.jp/mail-magazine/m20181004/

 社会の仕組みをどれだけ改善しても、性差や性的役割分業に関する議論は尽きることがなさそうではあります。しかし仕事と家事の分担をめぐって言い争う前に、労働と家庭の分離を耐え難いほどに進めてきたシステムの改善を論じたほうが有益でしょうし、それこそがまさに我々の時代にふさわしい社会目標なのではないでしょうか。

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コメント

  1. 神奈川県skatou より:

    たいへん素晴らしいお話ありがとうございます。

    >・ヒッピー的退廃や新興宗教のような、近代性からの単なる逃避
    >・工業社会のものだけでなく、あらゆる価値の規準を否定してしまうポスト・モダニズム
    >・このまま工業化を突き進めればユートピアが訪れるのだとする、テクノロジー信仰
    >・工業社会は知識社会へと自然に移行し、一層洗練された時代がやってくるのだという進歩史観
    > のいずれかに走ってしまったように思います。

    とても重要な分類だと思われます。そしてどれも実験国家?アメリカにてすでに試され失敗しているように思われます(4番目は金融立国?)。2番目の無神経さも、実に嘆かわしいですね。
    そして、

    >時間をかけて少しずつ、人間性を回復する方法を考える必要があります。

    これが肝だと理解いたしました。

    となると、人間性、あるいは人間、というものは何、を、問うことは出来るのでしょうか。

    人はこういうもの、だから(WHY)、こういう方向性に進めたい、ということはとても筋の良い話だと思いますが、さて人は、という件、たぶん言葉で語らないほうがよいぐらい、かなり微妙なもののように思われます。

    そして、もしかすると、時間軸のセンス(継続しているもの)にすがるのが、今の人類の、生物としてなら、できることなのかなと。

  2. くらみっちゃん より:

     チェスタートンという作家の「最近いわゆる“自立した女性”が増えてきて、最も厳しい重労働やみじめな仕事にさえ女性が従事するようになっているが、じつに悲しいことだ。…始業ベル・時計・定時制・縦割り組織などは、仕事を正確にするためだけに作られた無粋なものだが、これらは本来男のためにある・・・」その通りだと思います。「男は仕事、女は家庭」などという分業論議が成り立つ前提は、工業化以後のことです。工業化以前の社会では、仕事と家庭が切り離されていませんから、女は家庭になんて言っていられませんし。
     わたしが、「女性は愛する男性や子どもや親の世話のために、社会的人生を諦めることが出来るし、そのことに対して決して不幸だなどと思わない。むしろ満たされる。しかし男性は愛する女性や子どものために、社会的人生無しに生きることはできない」とする主張する前提は、工業化社会の成立が前提でしょう。
     では、工業化以前の社会では、男女の役割分担はなかったのか。役割分担というより、そもそもの性差にもとづく違いがあったことででしょう。男は愛する女や自分の子どもたち、家族を守るために、家族の経済に最終的責任を負い、身体的に外敵から身体を張って守る。女は身体を張って命を産み育てる。これは自然なことでしょう。
     女性が責任をともなう決断力に欠けること、不安要素の多いなかで決断力に欠けるのも、そもそもの自然な性差にもとづくものと考えられます

  3. 拓三 より:

    川端はん、おっしゃる通り ! チェスタートン、このオッサンも解っとるな….(失礼!)

    ただ人間性ってなに ?
    たんに暇な時間が増えて妄想する様になっただけちゃうん。
    ほんまに近代に疲れたんかな ? 疲れたら寝るぞ。つまり暇な時間をどう使うかだけでしょ。近代の問題って。やることやったら遊べばいいんじゃネ。家族が居れば家族と遊べば良いし、独身やったら異性を探せば良いし、奥さん同士でランチ食いに行っても良いし、パソコンで遊んでも良いし、酒飲みに行っても良いい。責任持てる範囲で遊んだらええねん。遊びで疲れようが仕事で疲れようが疲れたら寝たらええ。人間性なんか難しく考えても所詮妄想で終わるんじゃネ。生物学なら子孫(未来)を残し、その子孫(未来)の手助けをすることが唯一の仕事やねんから後はフロクよ。

    唯一、人間性を言えば他人の子孫(未来)の「手助け」も出来る事かな。(大きな意味で)

    • 拓三 より:

      * これはあくまで人間性(男)、つまり人類の歴史が作り上げた人間性を前提に書いたものです。男の本能と人間性は違います。男の本能は醜いもの。そんな先祖帰りする余裕が有るなら疲れて寝る事に集中しろ、と言う事です。男は拘束してでも作り上げる事が必要。でも女は違う。女は出来上がったものなのです。今も昔も女は何も変わっていません。

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