表現者クライテリオンの最新号では、何事につけても「コスパ」「タイパ」に捉われるようになってしまった現代日本人の「効率主義」を批判する特集を組んでいます。現代的な効率主義の象徴の一つが、映画やドラマを倍速で視聴する行為で、物語の筋書きを把握するのには良いのかも知れませんが、作品が持っている固有のテンポやリズムを崩してしまうと本来あったはずの「味わい」は何割か失われてしまいます。
「映画」を倍速でみるのは若い世代でもごく少数派だというデータもあるのですが、動画コンテンツの主流が断片的で短時間の「切り抜き」になってきているように、総じて、じっくり味わうことよりも手早く内容を把握することが重視される傾向があるのは確かでしょう。では、なぜ「味わい」を捨てて「効率」を取るような行動が増えているのか。これにはいくつもの説明があり得て、簡単に結論が出るわけではないと思うので、ぜひ読者の皆さんにも考えて頂きたいところです。
今回の特集記事の中で上野吉一先生は、あらゆる物事へのアクセスが容易になったことが、人間を効率主義に追いやった原因の一つではないかと考察されていました。私も、個人的にはこの点が一番気になっています。たくさんの選択肢の中から好きなものを選ぶ自由があると、人間はどうしても「比較」をしたくなる。しかし、私自身も経験があるのですが、比較に凝りだすとそれ自体が目的化してしまって、「もっといい選択肢があったかも知れない」とか「時間を無駄にしたくない」とかいう強迫観念に取り憑かれるようになります。
昔の人は、コスパにとらわれない生活の「味わい」を知っていたからゆったりしていたのでしょうか。じつは必ずしもそうではなく、そもそも他に選択肢がなかったという面も大きいような気がします。現代の「倍速視聴」派の人たちにしても、仮に手元に一本の映画のDVDがあるだけで、しかもそれを観る以外に何もできることがないのであれば、わざわざその作品を倍速で再生しようとは思わないはずです。
最近の子供は、YouTubeを開けば毎日どころか毎分のように新しい動画が流れてくるわけですが、昔の子供はマンガにせよテレビゲームにせよ、同じものを繰り返し読んだり遊んだりするしかありませんでした。今の子供たちも自分が気に入った動画は何度もみていますが、昔は、気に入らなくてもそれをもう一度みるしかなかったのです(笑)
面白いのは、選択肢が限られているからこそ開かれる世界というものもあるということです。同じ公園で同じ友達と遊んでいても、何かしら新しい出来事が起きるものですし、来週の『少年ジャンプ』が発売されるまで待つしかないのであれば、どんなストーリーになりそうか想像を膨らまして、ああだこうだと語り合います。逆に物理的な制約がなく選択肢にあふれた世界では、たしかに退屈はせずに済むのかも知れませんが、そこで生きている人間の心の側が「世界を開く力」を失ってしまいそうですね。
ところで先日、大学の授業でニーチェの「永劫回帰」の思想に触れる機会がありました。永劫回帰論とは簡単に言うと次のようなものです。
悪魔があなたのそばにやってきて、「お前の生きているその人生は、過去にも全く同じように繰り返されたもので、お前の死後もまたすべての出来事が寸分違わずもう一度、いや無限に繰り返されるのだ」と囁いたとします。嬉しかったことも悲しかったことも、善も悪も関係なく、人生を構成するすべての物事が、永遠に繰り返されることになっている。そして今あなたは、そのうちの何周目かを生きているに過ぎず、これが済んだらもう一度同じことをやり直すのだというわけです。
そう告げられた時に、「頼むから勘弁してくれ」と感じるか、それとも「なんて素晴らしいことだろう」と感じるか。これがニーチェの問いです。
よく考えなければならないのは、最悪の出来事までもが繰り返されるということです。
例えば、あなたの子供や幼い弟妹が、目の前でトラックにひかれて死んでしまったとします。同じように家族を失う経験をもう一度、いや何度でも、味わいたいと思えますか?
また例えば、不況下で就職活動がうまくいかずブラック企業に入社して、職場の酷いパワハラと虐めが原因でメンタルを病み、職を失うばかりか長期の療養に追い込まれたとします。その全てのプロセスが同じように繰り返されるのだとしても、もう一度その人生を生きたいと思えますか?
私にはとても無理ですが、それでもなお「望むところだ」と言えるのなら、あなたは自分の人生を本当の意味で受け入れ、偶然与えられたに過ぎない世界を「自ら意欲するもの」へと昇華したことになる。それをニーチェは「運命愛」と呼びました。ニーチェの永劫回帰論については色々な解釈があり得ると思いますが、彼も本当に物事が無限回繰り返されるなどと考えていたわけではなく、「仮に無限回繰り返されるのだとしても」という思考実験を通じて、「お前は一回限りのその人生に本気で向き合っているか?」「別の人生を歩みたかったなどと甘ったれたことを考えてはいないか?」と問いかけているのだと私は思います。
さて、この永劫回帰の思想に触れた授業の後で、「しまった、あの話をしておけばよかった」と思い出したことがあり、受講している学生全員に慌ててメールを送りました。「あの話」というのは、この受講生たちの数年上の先輩にあたる、山口雄也君という元学生のことです。
山口君は、京大工学部の一回生だった時に胚細胞腫瘍という珍しい癌が見つかり、さらに前年に発症していた白血病も再発して、長い闘病生活に入りました。この癌は難病の一種で、医者から「5年後の生存率は30〜40%」と言われていたそうです。そして抗癌剤や放射線治療で身体に大きな負担をかけながら、リスクの高い特殊な骨髄移植手術なども試みたものの治癒にはいたらず、修士課程に在籍中だった2021年に23歳で亡くなりました。
私は彼と個人的な付き合いはなく、授業で教えたこともありません。彼が大学院入試を受ける際、病気に配慮して別室受験を行うことになって、その試験室の監督を私が担当したのでその際に二言、三言しゃべっただけです。私はそのことをよく覚えていますが、彼は私を知らないでしょう。
ただ、彼は闘病の様子を克明にブログ上に書き残していました。それをまとめた書籍も出版されていて、クライテリオンの書評欄でも取り上げたことがあります。
『がんになって良かったと言いたい』という闘病記のタイトル通り、彼は難病に冒されて回復の見込みが薄くなってからも、他人の同情を誘うのでも自己の運命を恨むのでもなく、あくまで前向きに治療に取り組んでいました。死を覚悟してはいたのでしょうが、同時に「ここで死んでたまるか」という闘志を持ち続けてもいました。
私が感服せずにいられないのは、他人の目には「不運」としか映りようのないこの境遇を、彼が肯定的に受け入れていたことです。闘病記に残された文章を読むと、それは単なる強がりだとも思えない。いくつか引用しておきます。
「病は決して不幸そのものではない、患者を可哀想だと言ってくれるな、と。僕は僕の生き様を形として残し伝えていくから、あなたにはあなた自身の命について『我が事』として考えてほしい、と。
僕は、今の僕が好きだ。がんになり、自分の思いを綴り、そして自らの人生について深く考えることのできる自分が。
がんになることは、それほど悪いことなのだろうか?
世間は、まるで『死』そのものを否定しているように感じられる。『その日』は誰にだって来るというのに。」
「何が『生きる意味』だ。何が『不幸』だ。
偶然と必然、その大いなる自然の潮流に身を委ねて生きているということ、それだけでいいじゃないか。途方もなく素晴らしいじゃないか。無数の選択肢から生まれた、運命のような奇跡のような、『人生』という名の一本道。神のみぞ知るその偶然と必然のあらゆる因果に、今、心からの感謝をせねばならない。生きる、ということの本質は、この与えられた『運命』を噛み締め、今ここにいるという『奇跡』に歓喜することなのだから。
僕は今、がんになってしまったけれど、本当は幸せなのかもしれない。」
「もし人生をやり直せるとしたら、僕はもう一度同じ生き方をするだろう。
今の家族のもとに生まれて、同じ保育園・小中学校・高校・大学に通って、同じ友人達、先輩後輩に出会って、同じ先生方に出会って、陸上競技やピアノや愛車に出会って。そうして19歳1ヶ月にして何十万人に一人とかいう確率のがんになる。僕はそれでいいし、それがいい。それしかない。」
冒頭で述べたように、効率主義は「選択の自由」と「比較の自己目的化」から生まれるものだと私は思うのですが、高い効率を目指すこと(小さな労力で大きな成果を得ようとすること)それ自体が悪いわけではありません。「比較」に強くとらわれた時、人は「選択できないもの」に対してどういう姿勢で臨むかが人生の価値を決めるのだということを忘れがちで、それこそが真の問題でしょう。
山口君の人生は23年という短いもので、苦痛や制約が多かったはずですが、「それでいいし、それがいい」と言ってのける彼の心は、五体満足の我々よりも遥かに明朗で自由だったのではないでしょうか。彼が早世してよかったとは全く思わないし、これほど強い「運命愛」を持つことは簡単ではないのですが、彼の残した言葉は我々に重要なことを教えているように思います。
[2023.7.24]手術内容の記述に誤りがある旨、ご遺族から指摘がありましたので修正しました。
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コメント
ご返信ありがとうございました。8月12日のご講義を楽しみにしております。
「海の上のピアニスト」という映画をご覧になったことがあるでしょうか。
大西洋上を行く大型客船の中で、捨てられた生後間もない男の子の赤ん坊が見つかる。赤ん坊は船員たちに育てられる。彼は船の中だけで暮らし、やがて船内でピアノ演奏で人々を魅了するようになる。その腕前に、レコードデビューのオファーもやってくる。しかし下船しようとはしない。理由は……
「選択肢がありすぎること」でした。
船がニューヨークの港に停泊していたときのこと。摩天楼の立ち並ぶ、眩暈のするような大都会を船の中から見やり、ピアニストは「ピアノは鍵盤数が限られているのがいい。そこから無限に曲を紡ぎ出せる。でも、あの無限の街で何を選択したら良いのかわからない」と言うのです。
時が流れ、船は不要となり廃棄処分されることになります。それでも彼は下船しようとしない。解体のための爆破の段階が来ても、そこを動こうとしません。
彼は頑固で不器用だったかもしれませんが、「選択肢の多さを拒んだ人の人生」として、このストーリーがとても心に残っています。エンニオ・モリコーネの美しい曲の数々も大いに手伝ってはいますけれども。
福田恆存氏は「私の幸福論」の中で、次のように述べています:
「私たちは、いつでも過去を顧みたとき、どうしてもかうせねばならなかつたと観念できるやうに生きたいのです。それが眞の意味での宿命といふものであります」
私は福田氏の意見や考え方には賛成できない点もありますが、この言葉はとても好きです。
映画は見ましたが、セリフは覚えていませんでした。でも、たしかにそういうテーマの映画ですよね。