「すみません」や「申し訳ありません」という謝罪の言葉を今までの人生で口にしたことが無い人はいないだろう。しかし、子供に「謝罪とは何か」と問われたとき、それを明確に説明することは難しい。そこで、なぜ謝罪を説明することが一筋縄ではいかないのかということを、著者の古田徹也氏は専門である言語哲学だけでなく法学、社会学などの知見を参照して探求する。
まず、古田氏は「すみません」という言葉を取り上げ、単なる儀礼的な呼びかけや軽微な損害に対して行う〈軽い謝罪〉と、重大な損害に対して行う〈重い謝罪〉に分類する。そして、この二つから構成されるスペクトラムで謝罪を捉え、特に〈重い謝罪〉について考察を進める。
この〈重い謝罪〉は、単に相手に謝罪の言葉を投げかけて済むものではない。自身が有責だということを表明し、さらに損害を償う意志が相手に伝わらなければならない。たとえば、友人が後生大事にしていた花瓶を破損させた場合には、謝罪の言葉だけでなく、金銭的な弁償や精神的な苦痛についても償うことに異論がある人はいないだろう。
そして、ある哲学者の議論を参照しつつ、謝罪を構成するのに不可欠な要素の考察を進める。その要素とは(1)謝罪の内容となる出来事の認識、(2)自己への責任の帰属、(3)後悔と自責、(4)被害者への償い、(5)未来への約束(=同様のことを繰り返さないこと)である。だが、直後に古田氏は全ての謝罪に共通する本質的な要素のみを取り出そうとしても、過不足が生じるか、定義として十全でない内容の乏しいものになってしまい、謝罪を構成する要素を完全に網羅することは困難だという。
さらに、謝罪は加害者と被害者の当事者間で行われるが、「当事者」とは誰を指すのかと問いかける。子供が引き起こした問題で親が謝罪をする場合や、過去の戦争責任を現在世代が謝罪を する場合を考えてみると、私たちは当事者という概念でさえ、明確な線引きが出来ないのだ。
このように、謝罪を巡る諸要素についての考察を進めていくと、それを過不足なく説明することは想像以上に難しい。それゆえ、古田氏はウィトゲンシュタインの家族的類似性の議論を援用 して、本書の大半を費やして謝罪を多種多様な行為の総体として緩やかに捉えることで、その輪郭を描き出そうと試みる。
評者が思うに、適切な謝罪を遂行するには、相手への配慮や誠実さなどが必要不可欠になる。そのためには、社会的な文脈や他者との関係を把握し、適切な関係を構築するということが要求される。それは、自身が成熟して大人になることと同義ではないだろうか。
その観点に立てば、本著は世間に溢れるリスクマネジメントのためのハウツー本などでは断じてない。迷宮のように入り組んだ、謝罪という一見ありふれた行為の複雑さを示すことで、社会の中で自身が成熟することを考えるための格好の手引きである。
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