『カッサンドラの日記』73
海洋ルールは変幻自在
橋本由美
イラン戦争は、2月の奇襲によるハメネイ師暗殺で始まった。宣戦布告なしの「アメリカ版・真珠湾攻撃」に続くミサイル攻撃に対してイランが切った「海峡封鎖」というカードは、人々の経済活動を世界的な規模で巻き込んだ。ホルムズ海峡は、イランとオマーン(飛び地であるムサンダム半島)の間にあり、海峡の幅は、最も狭いところで33kmである。この海峡は、古くからペルシャ湾とインド洋を結ぶ海上貿易の要衝で、嘗てここを支配していた「ホルムズ王国」を大航海時代にポルトガルが占領してから、西洋が関わるようになった。「ホルムズ」というのは「アフラー・マズダー」が訛ったものだという。
どの民族の伝承でも、海には「神」がいた。海峡にはたいてい「魔物」がいて、通過するのに危険を伴う場所だった。地中海文明の人々の間では、ダーダネルス海峡には魔物の誘惑があり、ジブラルタル海峡のヘラクレスの柱の向こう側には滝があって落ち込んでしまうと言われて、恐ろしい場所だった。
ポルトガルの勇敢な王子エンリケが、外洋への突破口を開いた。ポルトガルに対抗したスペインの支援によって、1492年にコロンブスが大西洋を渡って新大陸を発見した。15世紀から16世紀にかけてポルトガルとスペインが競って帆船を外洋に送り出し遠洋航路を開拓していったのは、富の獲得という欲望が原動力である。
その頃の海洋は、陸地とは異なって秩序の存在しない場所で、どこへでも自由に行くことが出来ると思われていた。遠洋航海が可能な帆船の建造技術や航海術をもつのは、当時はポルトガルとスペインだけであったが、両国の競争が激化したことで、ローマ教皇が勢力圏の分割を行った。1493年のトルデシリャス条約、教皇(法王)子午線である。世界の海洋が、現地の国々の知らぬ間に、ヨーロッパの国によって「勝手に」二分された。ホルムズ海峡はポルトガルの勢力圏であったから、ここで海上貿易の利益を得ているホルムズ王国を占領したのは、ポルトガルだった。
外洋貿易が巨大な富を運んで来るのを見たオランダとイギリスは、黙ってそれを傍観することはなかった。約100年後に、両国は東インド会社を設立して本格的に貿易立国を目指すようになった。王国と植民地自治組織という体制の差なのだろうか、産業が未熟で「売る商品」を持たなかったイギリスが専ら海賊行為で荒らし回ったのに対して、オランダはインドネシアに拠点を置き、香料貿易やコーヒーのプランテーションの経営を行い、かなり「知的」に勢力権を拡大していった。当時のオランダは商業で栄え印刷業の集まる知識人の都市国家だった。
ここでオランダが直面したのは、教皇が定めた、あのトルデシリャス条約である。インド洋やマラッカ海峡などのアジアの海は既にポルトガルが主要な港湾を支配していて、オランダ帆船の動きの邪魔をした。ポルトガルと戦えるほどの海軍力がなかったオランダは理論武装で対抗した。
オランダの法学者フーゴ・グロティウスの「海洋自由論」(1609)は、国家による海洋支配を否定したもので、海洋は万国に開かれ航行の自由が認められるという、初の国際法の提唱であったと言われる。国際法と言っても、自国のオランダに有利な「海洋の自由」を正当化するための理論で、オランダはこの原則によってアジアの海に乗り出しただけでなく、漁業にもこれを利用した。オランダの漁船はこの原則を盾にヨーロッパの他国の沿岸の好漁場にも進出していたのである。
北海やドーバー海峡の豊かな漁場を荒らされたイギリスが、オランダ漁船による乱獲を阻止するために考えたのが「海洋領有権」という概念である(山本草二『海洋法』)。オランダ船を自国の近海から締め出すために、ジョン・セルデンは「閉鎖海論」(1635)を提唱して「海洋自由論」を否定し、オランダに対抗しようとした。但し、グロティウスの理論の完全否定ではなく、自国の特定範囲の沿岸を、陸地の領土と同じように国家が領有できるという主張である。
ポルトガルに都合のいい教皇の裁定を覆すために、オランダは自国に都合のいい「海洋自由論」を提唱し、更に、イギリスがそれを覆すために、自国に都合のよいルールを制定しようとしたのが、沿岸の領有化であった。自由貿易で繁栄するオランダに、保護貿易でイギリスが対抗したもので、このあと、英蘭の貿易を巡る対立は激化していく。
イギリスが貿易立国オランダの繁栄を奪取するために制定したのがクロムウェルの「航海法」である。「航海法」で、「船籍」という船の国籍が発案されたのは、自国の船舶による貿易の独占のためであった。中継地を経由せず、生産地から直接自国の船で輸入するという規定は、オランダ船の締め出しを意味する。イギリスは、自国の港湾に出入りして貿易を行う船舶を自国の船籍に限ることで、他国に利益を与えず貿易を独占しようとした。
「航海法」はその後何度も改訂されたが、完全に廃止されたのは200年後で、それまでの長い間、イギリスは保護貿易を行った。産業革命によって大英帝国の競争力が他を圧倒するようになって、イギリスはやっと「航海法」を廃止して自由貿易に移行した。自由貿易のほうが自国に有利になったからである。自由貿易が国益になると、それまで独占によってイギリスに利益をもたらしていた東インド会社はかえって貿易の障害となり、解散させられた。
イギリスは、国益が変化するたびに、海洋における有利な立場を利用して、ルールの設定を変更した。18世紀から19世紀にかけて、各国が海洋の利権を巡って競争を繰り返したが、結局は大国であるイギリスの都合が優先されるように変化していった。こうして、何か問題が表面化すると、その度に領海制度や海洋に関する用語が増え、ルールが整えられていった。
自国の権益を「発見」することによって、外洋と沿岸区域の区別も意識されるようになった。嘗ては、海洋は自由な場だと思われていて、「公海」や「領海」の概念もなかったが、利益が絡んでくると、沿岸を自国の管理下に置くことが重要な問題になった。貿易が盛んになることで、密輸船も頻繁に横行するようになり、密輸・密航・関税などの取り締まりのために「領海」という概念が生じた。どこまでの沿岸を監視区域として設定するかが議論されたが、自国にとっては領海が広いほうがよくても、他国の領海は狭いほうが有利であるという矛盾があった。「領海」の設定は必要だが、出来るだけ狭い幅で設けることが望ましいという大国の主張によって、領海は3カイリと設定された。
海洋貿易が盛んになると、世界中に帆船が寄港できるように、島・岬・海峡・湾などに港を整備する必要が生じた。英蘭戦争以降、イギリスは海賊船から脱皮して英国海軍を海外に展開させるようになり、各地に設けた港湾は、貿易港としてだけでなく海軍の拠点としての機能も果たすようになる。偏西風の風任せの航海では、大洋に点在する島々の獲得は生死を分けるほど重要な問題だった。拠点となる貿易港は、食料や飲料水の補給地としても木造船の修理のためのドックとしても必要で、戦時には軍港として機能した。帆船の主要ルートの港湾はイギリス海軍の基地になり、大西洋やカリブ海やインド洋の島々はイギリス軍のネットワークで結ばれた。
19世紀には、大西洋とインド洋、オセアニアに至る海域の殆どに英国海軍の基地が造られ、イギリスは海洋覇権を握った。ペリーが大西洋からインド洋を経て日本に到達したときの補給も、日露戦争で遠征するバルチック艦隊の監視と位置情報の提供も、イギリスが張り巡らせた海洋拠点を利用している。
木造船から鋼鉄製の船体になり、蒸気船の時代になると、拠点港は石炭補給基地としての役割を担うようになる。イギリスには豊富な石炭があり、日本の港も石炭の補給港として利用された。イギリスの凄さ(怖さ)は、燃料補給港の世界規模の設置だけでなく、インテリジェンスの重要性をどこよりも理解していたことである。19世紀の半ばから、イギリスは海底に電信ケーブルの敷設を開始し、1858年には大西洋、1870年代にはインド洋からオセアニアにかけて、やがて太平洋も含めて、世界中の植民地の海軍拠点を繋ぐ海底ケーブル網を完成させた。しかも、密かに、主要な電信情報がイギリス本土を経由させる仕組みを作り、世界中の貿易・外交・軍事情報を支配した。
日本がイギリスと海底ケーブルで繋がったのは、1872年である。イギリスの海洋拠点沖を通過するバルチック艦隊の情報は、イギリスの電信網で日本に伝えられた。当時のスターリンクである。現在でも海底ケーブルの接続本数はイギリスが55本で、アメリカの50本よりも多い。以下、中国が43本、日本は34本である。
20世紀になって力をつけてきたアメリカが第二次大戦後に覇権を握るようになって、海洋の権益も複雑になった。軍事や貿易に関する権利だけでなく、水産資源や原油という、海洋の「資源」の獲得を巡る争の時代に突入したためである。アメリカではテキサスなどの油田の開発で、鯨油から石油の時代になっていたが、内陸での油田開発が行き詰まると、海底油田の掘削が始まる。
20世紀の初めには列強の油田争いが始まっていた。オランダは植民地のインドネシアの油田を開発した(ロイヤル・ダッチ)。イギリスはロシアや中央アジアの油田を開発した(シェル)。その頃から中東で油田が開発されるようになる。ロシアの南下を阻止するためにトルコや中東に勢力を伸ばしていたイギリスは、イランでアングロ・ペルシャ(のちのアングロ・イラニアン)を設立し、海外油田の開発に力を入れるようになった。
第二次大戦後、それまで石油の輸出国だったアメリカは、輸入国に転じる。内陸油田の限界だけでなく、原油の精製技術が発達して多くの石油化学製品が発明され、石油革命が起きていた。プラスティックなどの石油製品は日常に欠かせないものとなった。現在の石油危機が、エネルギー資源としてよりもナフサの重要性にあるのと同じである。産業革命と海洋覇権を牽引していたイギリスで石油革命が起きなかったのは、不幸なことに、イギリスには石油がなかったからだという。
1945年2月の極寒のヤルタから帰って病に倒れたルーズベルト大統領の急死によって、突然大統領に繰り上がったハリー・トルーマンは猛烈に忙しかった。戦争遂行と終結、戦後処理と復興、FDRがやり残した大戦後の世界秩序構想の実現、それらの遂行のための議会の対応など、山のような緊急課題をこなさなければならなかったのである。ちょっと思いつくだけでも、対日戦争、対ロ対英などの外交調整、ベルリン問題、マーシャルプラン、国際連合やNATOの設立、中国大陸問題や朝鮮戦争、そして、海洋問題もそのひとつだった。
この機会に、戦後の海洋ルールの設定や条約について調べてみようとして、すぐに音を上げた。戦前までは、大国間の力関係でルールが決まってしまい、非西洋諸国の意見などは勘定に入っていなかった。しかし、戦後の植民地解放で一票の権利を得た多くの非西洋諸国が加盟する国連に議題が持ち込まれたために、新たな権利の要求や見解の相違も生まれ、簡単に収拾がつかなくなった。海洋は一様ではない。各国の地理的条件によって、地形や海流や水産資源や海底資源など同じ条件の場所はない。また、水産資源の漁場の攻防と海底資源の掘削のために、それまでの「領海3カイリ」では大国にとって不都合になった。大戦中に進んだ技術改革によって海底掘削技術が向上し、海洋での可能性が増大したためである。海洋ルールは何度も協議され、そのたびに変更・改訂された。海洋ルールについては、大体以下のようにまとめられる。
海上・海中・海底・深海、領海上の空域などの権利、商船・漁船・軍艦・潜水艦などの航行に関する問題など、利害の対立する問題が生じる度に様々な概念が生み出され、公海・領海・接続水域・排他的経済水域(EEZ)・大陸棚・深海底・無害通航権など、多くの概念と用語とルールが決められていった。「大陸棚」という概念は意外に新しいもので、資源に関係していることは明らかである。嘗ては「自由」だった海洋も、自由な「公海」はどんどん狭まっている。
これらのルールは、次々に生じる複雑な問題を整理しながら、現在「海洋法に関する国際連合条約」(略して「国連海洋条約」UNCLOS)として管理されているが、実は、海洋大国であるアメリカは加盟していない。(但し、慣習法としては認めている。)多くの国々の意見が対立すると言っても、やはり最終的には大国が国際ルールを受け入れるか否かで実効性が左右される。
現在、アメリカが認めているのは、基線(干潮時の海岸線)から測って、領海12カイリ、接続水域24カイリ(領海+12カイリ)、排他的経済水域200カイリ、大陸棚200カイリ(延伸可能)である。深海底の開発については、技術力を持たない途上国が自国の主権を荒らされるのを警戒して先進国主導の開発権を否定したため、深海底の開発を自由に行いたいアメリカと対立した。この対立によって、アメリカはUNCLOSへの加盟を拒否した(1988年 レーガン大統領)。大航海時代からの歴史でわかるように、大国が入れ替わることによって国際ルールが変化してきた。現在、UNCLOSに海洋大国であるアメリカが不参加であることが、新たに海洋に進出してきた中国の暴走を止められない要因になっている。
【 領海・排他的経済水域等模式図 】

(海上保安庁2026レポートによる)
ある国の領海を第三国の軍艦や商船などの船舶が自由に通航できることを「無害通航」といい、その権利を「無害通航権」という。沿岸国の平和・秩序・安全を害することがないという条件で、沿岸国に事前通告をしなくても沿岸国の領海を外国船(内陸国も含む)が通航する権利である。何が「有害」になるかは海洋法条約で12項目が挙げられているが、例えば、武力による威嚇や武力行使、沿岸国の主張や領土保全に違反する行為、沿岸国の独立に対する行為、兵器を用いた演習、沿岸国の防衛や安全を害するような情報の収集など、具体的な活動が示され、潜水艦には浮上して旗を掲げる義務がある。
海洋法の第3部には、国際海峡についての規定があって、海峡が国際的に重要な位置にあることや、他の代替航路が存在しない場合がこれに当たり、無害通航が義務付けられている。国際海峡では沿岸国よりも旗国(通過する船舶の所属する国)の権利のほうが格段に大きい。「強化された無害通航権」は、平時の海峡の閉鎖が禁止されている。無害通航権は沿岸国以外の国々の権利であるが、世界の海洋を自由に動き回りたい覇権国の強い要望によるものである。
主な国際海峡には、ジブラルタル海峡やドーバー海峡、ダーダネルス海峡、ボスポラス海峡、ホルムズ海峡、バブ・エル・マンデブ海峡、マラッカ海峡などがある。今回のホルムズ海峡閉鎖では、日本政府は7月8日に「ホルムズ海峡は国際海峡に当たる」という政府の見解をイランに伝達している(日経 2026.7.29 )が、効果は期待できない。イランは「国連海洋条約」に加盟していない。
注目すべきは、ホルムズ海峡封鎖に当たり、イランが海峡通過の「通航料」を要求したときに、逆封鎖をしているトランプ大統領までが、アメリカ海軍が安全通航の護衛をする見返りとしての「20%課金」に言及したことである。この発言はすぐに撤回されたが、(アメリカもUNCLOSに加盟していないとはいえ)覇権国による慣例の無視は、世界中の国際海峡や国際運河の沿岸国に、改めて、物流の管理が(軍事力以上の)武器になるというメッセージを送ってしまった。それは、無害通航の原則の崩壊を意味していて、現行の海洋法が無力化しかねない。
イランが通航料をドルではなく人民元で要求したことは、ペトロダラーやサウジアラビアへの挑戦である。フーシ派によるバブ・エル・マンデブ海峡の封鎖もサウジアラビアへの圧力になる。国際海峡には通信ケーブルも集中していて、エネルギー供給や物流だけでなく情報への影響も無視できない。ドルの力が落ちれば、この地域の勢力図が変化する。
気になるのが中国である。アメリカが勝手に自らの影響力を弱めてくれているのだから、トランプ大統領の失点は習近平にとってチャンスである。湾岸諸国は、密かにイランへの働きかけを中国に要請しているという(遠藤誉)。イランのアラグチ外相は北京を訪れている。海峡封鎖後に王毅外相がオマーンを訪問したのは、ホルムズ海峡のイニシアティブを狙っているからかもしれない。
中東問題では、中国は目立たぬように動きながら、アメリカの自滅を待つだけでいい。「海峡封鎖」も「通航料の課金」発言も、現行の海洋法の無効化が徐々に始まっていることの表れで、もとより欧米主導型の国際ルールを変更したい中国にとってはチャンスである。イラン戦争が沈静化したあとの海洋秩序を南シナ海や東シナ海で有利になるように策を練っているのかもしれない。イラン戦争は、単なる中東地域の戦争以上の意味をもつことになりそうだ。
(海洋秩序の変化として、もうひとつ気になるのが「北極海航路」である。ベーリング海峡は、非常に重要な国際海峡として浮上する。これについては、別の機会に譲ることにする。)
海上保安レポート 2026年版 / 3 領海・EEZを守る > CHAPTER I. 海洋に関する国際的なルール
『海の地政学 覇権をめぐる400年史』竹田いさみ著 /中公新書 2019
『海の地政学 海軍提督が語る歴史と戦略』ジェイムズ・スタヴリディス著 北川知子訳 /早川書房 2017
『マハン海上権力論集』麻田貞雄 編・訳 /講談社学術文庫 2010
https://grici.or.jp/7471 「トランプのイラン大規模攻撃計画中止の背後で、習近平はどう動いていたのか?」遠藤誉
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