【川端祐一郎】安倍路線では成し得ない「ナショナルな統合」

川端 祐一郎

川端 祐一郎 (京都大学大学院准教授)

10月16日に『表現者クライテリオン』の最新号、「安倍晋三 この空虚な器」が発売されました。
【浜崎洋介】「安倍『器』論」の背景にあるもの――平成政治史概論
【柴山桂太】無自覚な宰相
【藤井聡】『安倍晋三・この空虚な器』――「保守」の方こそ、じっくりとお読み頂きたい特集号です。

この特集の趣旨は、他の編集委員のメルマガでも説明されている通りですし、すでに入手されてお読みになっている方も多いと思うので詳しくは繰り返しません。つづめて言えば、安倍首相はカリスマ的なリーダー像からはかけ離れているにもかかわらずその政権が長期化しているのは、首相自身が強固な政治的理念をもつことなく、むしろ既成の様々なイデオロギーや利害が整理や取捨選択を経ずに盛り付けられる「器」として機能しているからではないか、という話です。

今回の特集は、安倍政権のこれまでの施政を批判的に論じるものではありますが、少なくとも私自身は、安倍晋三氏という一人の政治家に対して強い憤りを感じるかというと、正直そうでもありません。それは安倍内閣の方針や実績を支持しているからでは全くなく、むしろ弊害の多い政策が提案・実行され続けていると思うのですが、その路線は日本国民自身が敷いてきたものだと自覚することも大事だと思うからです。

まず、安倍首相のような「空虚な器」が権力機構の中心に生まれたのは、浜崎さんが先日のメルマガで詳論されていたように、ある意味では近年の政治・行政改革が企図してきたところの結果です。

私は、以前もメルマガに書いたことがあるのですが(参考:危険なリーダーを生み出す仕組み)、日本というのは地域や企業などの「一国一城の主」レベルでは優れた指導者を輩出するものの、広範な権力を一手に掌握して時代を大きく変えていくような強大なリーダーは生み出しにくい社会なのではないか、と思っています。その日本社会で、平成の政治改革が志向してきたような「権力核の明確化」「官邸一極化」「政治主導化」を進めれば、混迷がもたらされるのは当然でしょう。

日本人は、強力な皇帝の下に「帝国」システムを築き上げ、世界を支配していくというような資質と気性をもった民族ではありません。しかし一方で、公共善の実現に邁進する徳性を身につけた「市民」が自己統治していくのだという、古代ギリシア・ローマで理想視された共和主義のような原理も、どうも日本人のイメージに合いません。

日本社会は、「力」や「理念」によって統合されているというよりは、肌感覚に近いものとしての共同体意識の上で、緩やかに合意が形成されていくというシステムに見えます。だから、権力を一箇所に集中ても、カリスマ的な指導者が現れて画期的な善政を施してくれるというわけではない。また同時に、政治権力が深刻な弊害をもたらしつつある時に、市民的な監視を効かせることも難しい。生活に大きな実害が及べば感情的反発は持つのですが、市民運動を通じて新たな秩序を打ち立てようとは、なかなかならないわけです。

もちろん、それが良いか悪いかは別問題で、特に西洋風の市民社会的な理念は、もう少し日本人も身につけたほうが良いのではと私は思います。が、少なくともこれまでに日本人が作り上げてきた気風を前提にすると、性急に「強いリーダーシップ」を打ち立てようとするのは自殺行為であると言わざるを得ません。しかし80年代頃から日本人は、高度成長終焉後の停滞感、冷戦終結に伴う不確実性の増大、バブル崩壊後の不景気の中でそれを求め続けてきました。その結果が、小泉内閣や安倍内閣という長期政権なのです。

ところで、安倍内閣という「器」には雑多な政策が盛られてきたと見ることもできますが、今回の特集で佐藤健志氏が描いているように、ある意味では気持ちいいほどの一貫性があるとも言えます。それは例えば、小浜逸郎氏や室伏謙一氏が整理しているように、グローバリストの都合にあわせた新自由主義的政策が次々に実行されてきたということですし、あるいは堀茂樹氏や西尾幹二氏が指摘するように、「戦後レジーム」からの脱却どころかむしろその固定化に邁進してきたのだということです。

この新自由主義や戦後レジームというのは、もちろん安倍首相が考え出したものではありません。むしろ国民の間で薄く広く共有されてきた合意や気分のようなものであって、安倍内閣はそれに物凄い速度で具体的な形を与えていったのだ、と見るほうが正確でしょう。そういえば安倍晋三氏と橋下徹氏は、お互いに「とにかく実行力がある」と褒め合うような発言をしているのですが、たしかにそうです。そしてそこで実行されてきたのは、既得権の打破やら無駄遣いの削減やらといった、平成の日本人が気分として求めてきた改革の数々でした。

日本に限らず多くの先進国に共通した現象ですが、1970年代に一種の停滞感に苛まれた後、経済的にはグローバル企業と投資家に利益をもたらす新自由主義が推進され、政治や文化においては個人主義的な方向のリベラリズムが支持を獲得してきました(参考:リベラル再生宣言)。そしてその深刻な帰結として社会の分断化が進み、今、どのようにして統合を取り戻そうかと苦心する人々と、それを阻むグローバリストの間で綱引きが続いているわけです。

安倍首相は、「ナショナリスト」と批判されることがあります。ナショナリズムには、外国人嫌悪や独立運動のように排外的な側面と、国民社会の統合を目指すという包摂的な側面がありますが(後者をナショナリズムとは呼ばない知識人も多いですが)、安倍首相はどちらの意味でも全くナショナリスト的ではありません。貿易交渉や領土問題で強い姿勢は見られませんし、ナショナルな統合を損ねるような政策が次々に実行されていて、例えばエリートと庶民、都市と地方の間の分断が進んできたわけです。それが政治に「求心力」を持たせようとした制度改革の結果であるというのは、皮肉なことですね。

日本人が急がなければならないのは、権力核の明確化と称して安倍首相のような「空虚な器」を作り出すことではなく、新自由主義が引き裂いてきた国民社会の「統合」について議論することです。そしてそのとき我々は、自分たちの肌に合った統合の仕方を改めて確認する必要があります。日本は、ロシアや中国のような権威主義国家ないし帝国でないのはもちろんですが、フランスやアメリカのような理念国家とも違うでしょう(もちろん、相対的にはという意味ですが)。

日本でも欧米でも、まるで近代初期のように「ナショナルな統合」が改めて大きな課題となっていると考えるべきです。そこでは「力」「理念」「制度」「象徴」「アイデンティティ」などがいずれも不可欠の要素となりますが、それらがどのように組み合わせられるべきなのかは自明ではなく、各国が自らの歴史的経験を注意深く振り返って、真剣に悩む必要があります。「保守思想」を掲げる本誌が取り組んでいるのはそういう作業で、安倍政権の路線が統合とは正反対を向いているのだと確認することも、その重要な一部なのです。

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