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【川端祐一郎】リベラル再生宣言

川端 祐一郎

川端 祐一郎 (京都大学大学院准教授)

8月初めのメルマガで、マーク・リラというアメリカの政治学者が最近書いた本を紹介していたのですが、その邦訳版が最近『リベラル再生宣言』(早川書房)というタイトルで出版されておりましたので、改めて触れておきます。

米メディアのブルームバーグが「ブレグジットとトランプ現象を理解するための必読書」(リンク先は英語)を3冊挙げているのですが、その1つは早くから邦訳が出ていたジョアン・ウィリアムズ著『アメリカを動かす「ホワイト・ワーキング・クラス」という人々』という本。もう1つは、デイヴィッド・グッドハート著『The Road to Somewhere(どこかに続く道)』で、こちらは施光恒さんと柴山桂太さんが鋭意翻訳中とのことですので、出版されたら皆さん必ず買いましょう!

そして3冊目がこの『リベラル再生宣言』です。リラ氏は筋金入りのリベラル派知識人で、本書は「トランプ大統領を誕生させてしまったアメリカのリベラル派は、何を間違えてきたのか」を批判的に総括する内容になっています。アメリカのリベラルをいかにして再生させるかを論じた、半ば政治運動のための本なので、アメリカ人でもさほどリベラルでもない私にとっては「知らんがな」という内容も多いのですが、色々な示唆があるのもたしかです。

リラ氏は20世紀半ば以降のアメリカ史を大雑把に2つの時代に区分するのが良いと言っていて、1つはフランクリン・ルーズベルトがニューディール政策をやっていた1930年代に始まり、1970年代に衰退していく「ルーズベルト体制」の時代。もう1つは、1980年代のレーガン政権とともに始まり、トランプ大統領誕生によって終止符が打たれた「レーガン体制」の時代です。

この2つの時代でリベラルの運動は大きく様変わりしてしまった。「ルーズベルト体制」の時代には、労働運動や公民権運動、それから初期のフェミニズムや同性愛者の権利擁護運動など様々な運動がありましたが、それらはいずれも、「全ての国民が等しく活躍し、手を取り合って作り上げる偉大な国アメリカ」というビジョンを共有していた。つまりその頃、リベラルの目標は「国民統合」だった。

ところが1960年代から70年代にかけてリベラル派は極端な個人主義を採るようになっていき、80年代を迎えて「レーガン体制」の時代になると、「アイデンティティ・ポリティクス」に明け暮れるようになった。アイデンティティ・ポリティクスというのは、「黒人」「女性」「同性愛者」といったアイデンティティを理由にした差別や不利益に対する、抗議運動のことです。

アイデンティティ・ポリティクスにも相応の言い分があるのですが、リベラル派はそれを「国民が共有すべきビジョン」に繋げる努力を怠っていて、ひたすら国民を、属性の違う様々な集団に分裂させ続けてきた。これが最大の過ちであったと、リラ氏は言います。

また、リベラル派は70年代頃から政府機関や政党の「外」での政治運動を重視するようになり、特に大学に引きこもるようになった。大学を拠点にしたことにも当初は戦略的な理由があって、それは権力から距離を置き、自由な議論ができる場所を確保するためでした。ところが大学にこもったことで、リベラルの運動は学者・ジャーナリスト・弁護士といったエリートのためのものになってしまい、世論を動かす力を持ちませんでした。

そうしたリベラルの停滞を尻目に、「レーガン体制」下では新自由主義の嵐が吹き荒れます。「個人の自由」「能力主義」「企業家精神」「小さな政府」といったスローガンが多くの人の心を捉え、60〜70年代に新左翼運動に身を投じていた若者たちも、多くがその波に飲みこまれました。リベラル派の「アイデンティティ・ポリティクス」はつまるところ単なる個人主義なので、新自由主義への対抗軸になるどころかむしろそれと殆ど同じイデオロギーであって、「レーガン体制」の左翼を担ったに過ぎないとリラ氏は言います。

ところで、この「アイデンティティ・ポリティクス」(「女性がー」「LGBTがー」というやつ)と「新自由主義」(「民営化だー」「グローバル化だー」というやつ)がセットで台頭する現象って、21世紀の日本の状況に似ていると思いませんか?

最近よく「ポリコレ」という言葉を聞きますが、アメリカで初めにPC(politically correct)であることを過剰に求める風潮が議論を呼んだのは、80年代から90年前後にかけてだったと思います。新自由主義的改革の数々も、中曽根政権の頃に始まりはしたものの、欧米より10〜20年遅れで2000年前後から過激化している印象がある。つまり、欧米が経験した大きな混乱や失敗を、右も左もそろって、周回遅れで繰り返そうとしているのが日本ではないかと思えるわけで、本書の分析は日本の未来を暗示しているようにも見えるのです。

また本書が、リベラルの運動が「政党の外部」で行われるようになったことを特に問題視している点も印象的です。リラ氏は、国民統合のためのビジョンを掲げ、選挙で勝って権力を握り、社会制度を作り上げていくことの重要性をしきりに強調していて、そのためには「政党政治」が求心力を持たねばならないと言います。

微妙ですが重要なことなので注意深く区別しておきたいんですが、単に「実効性」だけを重んじる態度、つまり「口先でいくら正しいことを言っても、実際に政治を動かせなかったら意味ないんだよ」というような態度は、一種の「くそリアリズム」というべきで、私はあまり正しいと思いません。それに、ある価値観を純粋に追求しようと思ったら、政党政治や官僚機構のような「妥協」のメカニズムは、必ず邪魔になります。

しかし、政党政治のような妥協の場に背を向けることは、往々にして「国民統合」の努力の放棄にも繋がるわけで、それが真の問題です。リラ氏が批判しているアメリカのリベラルも、別に悪気があったのではなく、彼らなりに理想を純粋に追求しようとしたのでしょう。しかし一つの価値観を純粋化するばかりで、多様な価値観や利害を集約して一つのビジョンに統合するという努力(それは政党の基本的機能の一つです)を欠いていたために、トランプ氏の過激なポピュリズムに足元をすくわれてしまったわけです。

そういえばつい先日、G20がグローバル社会の合意形成メカニズムとして今後も役に立つのか否かを論じた記事(リンク先は英語)を読みました。米中の二大強国が全てを決めるのでも、国連のように過剰な平等主義を採るのでもなく、その間のどこかで「大国」間の妥協や協調の場がないと困るだろうという論調なのですが、確かにそのような場は、グローバル化を進めるにせよ、上手く後退させるにせよ、必要なものです(G20で良いかはともかくとして)。私はもちろん後退を望みますが、それは国際社会の「分裂」ではなく、相互に適度な距離を保つためのルールによる、新たな形の「統合」であるべきです。

妥協というのは、価値観の純粋さを犠牲にするものではありますが、同時に、社会の統合という別の価値を実現する上で必要なものでもあります。もちろん妥協ではなく止揚、つまり対立を乗り越えた新たな価値を生み出せれば理想ですが、そう上手くいかないことも多い。我々は、「打算」と「至純」の間の緊張に耐えながら社会制度を作り上げていく必要があって、そのための場として「政党政治」のような古臭いメカニズムがいかに重要であるかというリラ氏の指摘は、アメリカ人であれ日本人であれ、保守派であれリベラルであれ、耳を傾ける価値があると私は思います。

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