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【浜崎洋介】教育の普及は「醜悪」の普及なり

浜崎洋介

浜崎洋介 (文芸批評家)

 そろそろ、常識論に戻りたいなと考えていたら、またしても「常識」を疑うような事件が世間を騒がせています。財務省事務次官によるセクハラ問題と、新潟県知事による売春問題です。前者は疑惑を認めておらず、後者は認めているという違いはありますが、いずれにしても、行政の場から、このような問題がひっきりなしに起こってくるということ自体が、この国の「常識」が溶解しはじめているということを示唆しているように思われます。

 もちろん、政治家や官僚に聖人君子たれとは言いませんし、「女遊び」をするななどと言うつもりも全くない。あるいは、野党やメディアによる政権叩きの空気に乗ろうという気持もさらさらありません(事実、私はテレビ朝日にも、女性記者に対しても言いたいことはあります)。ただ、それでも私は、「時には女性が接待しているお店に行き、お店の女性と言葉遊びを楽しむようなこと」があっても、「胸触っていい?」とは言いません。それは、何というか、セクハラ云々以前の、ほとんど人間として振る舞うべき最低限の礼儀の話でしょう。

 ある作家は、この二人は「若い頃、女性とつき合ったことも、恋愛したこともないんじゃないか」と言ったらしいですが(記事リンク)、なるほど、そう考えてみると、ここまで「常識」が壊れていることの理由も、ある程度までは納得がいくような気がしてきます。というのも、「常識」とは、おそらく異性との間でこそ最も鍛えられ、またその力が試されるものにほかならないからです。

 以前のメルマガで、私は「常識」とは、一つの〈文脈=意味〉に囚われない力だと指摘しておきました。が、まさに異性とは、私たちの〈思い込み=意味〉を徹底的に突き放してくる他者として存在しています。その意味では、その他者(文脈を共にしない者)と付き合っていくという営み自体のなかに、既に私たちの「常識」を涵養するヒントが詰まっているとは言えないでしょうか。

 たとえば、かつて小林秀雄は「Xへの手紙」(昭和七年)というエッセイのなかで、次のように書いていました。飛び飛びになりますが、引用しておきましょう。

「公式などというものはこの世にない、断じてない、これこそ俺が重ねて来た結論だ。久しく頭の中にはあったが、近頃になってやっとこれが言い切れる。……
 女は俺の成熟する場所だった。書物に傍点をほどこしてはこの世を理解して行こうとした俺の小癪な夢を一挙に破ってくれた……俺は恋愛の裡にほんとうの意味の愛があるかどうかというような事は知らない、だが少なくともほんとうの意味の人と人の間の交渉はある。……一切の抽象は許されない、従って明瞭な言葉なぞの棲息する余地はない、この時くらい人間の言葉がいよいよ曖昧となっていよいよ生き生きとして来る時はない、心から心に直ちに通じて道草を食わない時はない。惟うに人が成熟する唯一の場所なのだ。」

 では、なぜ「女」は男が「成熟する場所」なのか。それは現代風の言い方で言えば、男の「スペック」が「女」には全く通用しないからです。なるほど、出会い始めのときこそ「高学歴、高収入、社会的地位」などの要素は参考になるのかもしれません。が、それだけで関係が続くほどに男女関係は甘くない。そもそもが、男と女という決定的に違う文脈を生きている人間同士、その二つの文脈を縒り合わせて生きようと思えば、どうしても、「意味」や「文脈」を超えたものへの顧慮や、お互いの身体的な気遣いが必要になってきます。

 事実、先の見えない人生を共にすること自体がエゴイズム(意味)を超えた決断としてありますし、また、二人の関係性や距離自体が、付き合い始めから結婚、出産、子育て、退職などで、その都度変化していくものとしてあります。その変化していく関係性(危機)を前に、その都度「書物に傍点をほどこしてはこの世を理解して行こうと」する姿を見れば、「いい加減こっちを見ろ、このバカ!」と腹が立ってくるというのは頷けます。

 ちなみに、小林秀雄は、「女」との生活について、次のように続けていました。

「彼が社会人として常日頃応接しなければならない様々の要求の数がどれほどに上ろうとも、一体彼はこれほど生き生きとした要求に面接する機会が他に一度でもあるだろうかと俺は訝ってみるのだ。彼の知的な夢がどれほど複雑であろうとも、女のたった一言の要求に堪ええないとは。」

 果たして、小林秀雄は「女」から学んだ認識を次のように書きつけることになります。すなわち、「近代人の自我は解体しているという事が、単なる比喩に過ぎないとしても、凡そ自我とは橋を支えるに足りる抵抗をもった品物では恐らくあるまい」と。そして、後に小林は、この他者との「生活」を支えるものとしての「橋」、つまり「習慣」や、それを自覚化した「伝統」について語りはじめることになるのでした。自らの「生活」の中に、他者との関係性を支えている「共通感覚」を探ること。その手応えを自得すること。

 だから、小林の言う「伝統」は、回帰すべき「公式」でも、守るべき「意味」や「ルール」でもなかったのです。それは、今ここで生きられている他者関係そのものを可能にしているものの異名、その持続を支えている歴史の事実性への明確な自覚としてあったのです。

 しかし、だとすれば、この国は、異性との間に適切な関係性(距離感)を作ることさえできない人間を――ちなみに、もし私が「下心ある人間」なら、事務次官のようなヘマはやりません。「女」を引き付けておいて、それが「セクハラ」でないことを立証できる信頼関係を作り上げてから言い及びます――、ということは、おそらくは、他者との間にある「距離感」や「共通感覚」への配慮を一ミリも持ち合わせていないであろう人間を、「エリート」などと囃し立てながら、その行政手腕を云々しているということなのでしょうか。

 なるほど、「偏差値エリート」の弊害は今に始まった話ではありません。が、さすがにここまでくると、「戦後教育」の全てを御破算に願いたくなってきます。かつて福田恆存は齋藤緑雨の言葉を引いて「教育の普及は浮薄の普及なり」と言いましたが、今や「教育」は、「浮薄」どころか「醜悪の普及」とまで堕していると言うべきなのかもしれません。

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