『表現者criterion』メールマガジン

【藤井聡】質問にお答えします:主体性がない人に主体性を持たせるにはどうしたらいいのか?

From 藤井 聡(表現者criterion編集長・京都大学教授) 

こんにちは、表現者クライテリオン編集長、京都大学の藤井聡です。

31歳の男性公務員のゆうさんから、
至ってシンプルな下記質問を頂きました。

「主体性がない人に主体性を持たせるには、どうすればよいでしょうか?」

・・・いやぁ、これはとても難しい問題です・・・

ですがまずは、当方自身がその「主体性」なるものを、
どうやって確保しようとしているのか、というところから、
何とかお答えしたいと・・・・思います。

そもそも、「主体性」ないしは「主体的」というのは、

「ある活動や思考などをなす時、
その主体となって働きかけるさま。
他のものによって導かれるのでなく、
自己の純粋な立場において行うさま。」

を意味する言葉(広辞苑より)。

つまり、主体性の問題は、当方が創刊号にてお話した

「奴隷」問題

そのものなわけです。

つまりこのご質問は、

「人はどうすれば何かの奴隷にならずに
済むのでしょうか?」

というご質問と言い換えることもできます。

おおよその人々は、今、
いろんなモノの「(プチ)奴隷」
なっているのは、否定しがたい事実なのだと思います。

「上司やボス」の奴隷になっている人がいるのは当たり前として、
それ以外にも、
親の奴隷になっている子供もいれば、
子供の奴隷になっている親もいるでしょう。

「インスタ映え」奴隷になって、
嬉々として写真をとって、アップし続けている若い人は多いでしょうし、
SNSで楽しそうな自分をアピールしたがる、
「リア充」奴隷になってる人も多いでしょう。

クラスや友達内で、
「空気」の奴隷になってる人も多いでしょうし、
大人だって、「組織の空気」の奴隷になっていることでしょう。

お店をやっている人なら「客」の奴隷だし、
「常連」を気取りたい客は、「店の奴隷」になっているし、
TVタレントやTV評論家達は
「視聴率」の奴隷になっていることも多いでしょう。

官僚達は「組織風土やコンプライアンス」の奴隷になっているし、
「学会の空気」の奴隷になっている学者なんて、掃いて捨てるほど。

そしてもちろん、日本の様な
「(準)植民地」状況にある国なら、
政府そのものが他の国の政府の奴隷
になっていることでしょう。

・・・

そうやって考えると、誰もが皆、多かれ少なかれ、
「何かの(プチ)奴隷」になってしまっていて、
その結果、「主体性」を失っているのが、
現実なのだと、思います。

ただし、そもそも世間というものは、
そうやって主体性を「差し出す」ことで
世間が提供する「安定」という餌(つまり金や地位や名声)を
得ることができるものだ―――
ということは、多かれ少なかれ、
大人なら皆知っている、「当たり前」のことではないかと思います。

ただし少なくとも当方自身は、
次のような戦略を通して、
そんな世知辛い世の中で、
どうにかこうにか「主体性」を確保しようとしている、
と言うことができるように思います。

それは、

「あらゆる状況で、『撤退』をイメージしておく」

というもの。

(なお、この「撤退」という言葉の代わりに、
「逃走」「愛想を尽かす瞬間」「ぶち切れる自分」
入れてもいいと思いますし、「イメージ」という言葉の代わりに、
「覚悟」という言葉を当てはめてもいいと思います。)

個人的なことを言うなら、
当方はあらゆる自分の役職や仕事、友人、知人関係、
さらには家族、ひいては親子の縁ですら、
「撤退」「逃走」「愛想尽かす」ことをイメージしながら、
それぞれの関係性を営んでいます。

とはいえそんな事は偉そうに言うような話でも何でも無くて、
昔なら「破門」や「勘当」なんて当たり前にありましたよね。

つまり、どういう付き合いをするにしても、
ある「一線」を引いておき、
その線を越えてまで無理を強いられれば、
(それがどれだけ辛かろうが)あっさりと手を引く―――
という「覚悟」が、かつては、
それなりに皆にあったのだろうと思います。

とはいえ、「逃げまくって」いては、何の意味もありません

そんな輩は、「人の間」と書く「人間」ですらなく、
主体性云々以前の問題だと言うことが出来るでしょう。

だから当然、人様と関係を保つためには、
「辛抱」は不可欠なのです。

(もちろん、この「辛抱」という言葉は、
「愛情」という言葉が当てはまるケースも多々あります)

ということは、恐らく、

「主体性」なるものは、
「逃走」と「辛抱」の双方の、
バランスがあってはじめて成立する代物

なのでしょう。

・・・・ということで当方、上記のような事を言いながら、
(家族はもちろんのこと)
小学校、中学校、高校、大学の友人達は未だに付き合ってますし、
自分の属した組織のほとんど全てと
そのまま関係性を持続させています(笑)。

言うなれば当方はただ単に、
「逃走をイメージ」しているだけに過ぎない、
とういことがほとんどなわけですね。

・・・とは言え、このイメージは、
それがあるか無いかで「天と地」ほどの違いがでてきます。

このイメージさえあれば、
他者に侮られるリスクも最小化するでしょうし、
変な輩と付き合わざるを得ないリスクも最小化するでしょう。

そして、「あなたに逃げて欲しくない」と思っている人達の振るまいも
「改善」されていくこともでてくるかも知れません。

結果、「主体性」が改善されていく人もでてくるかも知れませんし、
そもそも「主体性のない輩」と付き合うこと自身も減ってくるでしょう。

そして挙げ句に、
「主体性がない人に主体性を持たせるには、どうすればよいでしょうか?」
ということを考える必要それ自身が、無くなっていくかもしれません。

・・・・いずれにしても、他人の心を変えることはとても難しいもの。

ですが、自分の行動はもちろん、変えることができる筈、です。

できることを一つずつじっくりとやっていけば、
それでもなお、改善していかないこともあるのでしょうが、
やはり大きく状況が改善していくこともあるのかも・・・知れません。

ついては「他者に主体性をもたせたい」と
考える機会を減らすためにも、
まずは、「逃げる」ことをしっかりと
イメージするところから初めてはいかがでしょうか。
(※ 実を言うと、「死生論」の根幹にあるのも、
 この態度なのではないかと、思います)

直接のお答えにはほとんどなっていませんが、
ご質問を拝見しながら、こんな風に考えた次第です。

ご参考になれば、幸いです。

追伸:「週刊ラジオ表現者」では、この「奴隷くん」のテーマについてあれこれお話しております。是非一度、御聴取下さい(そして、是非、youtubeのチャンネル登録も御願いします
https://the-criterion.jp/radio/20180312-2/
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