今回は番外編として、『表現者クライテリオン』のバックナンバーを一部特別公開します。
公開するのは、2020年7月号「「コロナ」が導く大転換 感染症の文明論」特集に掲載されている、本誌編集部の浜崎洋介の記事です。
読んでみたいと思った方はぜひこちらから『表現者クライテリオン』2020年7月号をご購入ください。
以下が内容です。
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先日、私は「『過剰自粛』という名の不条理──敵は『コロナ』ではない『過剰自粛』である」というメルマガを書いて、自粛緩和(+補償)に向けた出口戦略を早急に探るべきだという主張を行いました。
色々な反応があるだろうと思っていましたが、案の定、賛成や励ましの言葉から、ヒステリックな罵倒や揶揄じみた反論まで、自粛緩和論に対する反応は様々でした。しかし、これは「人間」を考える上で、いい機会です。というのも、単なる誤解は措くとしても、それらの反論を整理することで、自粛論と自粛緩和論の理屈の違いを超えて、その理屈の背後にある私たちの「人間観」を改めて問い直すことができるからです。
(中略)
私は、徹底自粛論者たちを説得できるとは思っていません。というのも、今回の自粛論と自粛緩和論(過剰自粛批判)との間には、その理屈の違いを超えて、その理屈を導く「人間観」の違いがあるように思われるからです。理屈としてだけなら合理的(計算可能)であった天動説が、しかし、プトレマイオスのごちゃごちゃした周転円模型に嫌悪感を覚えたコペルニクスによって捨てられたように、ここでも、ものを言うのは、「人間とはこういうものなのだ」という直観的で全体的な人間理解の方なのです。
では、私自身の人間観とは、どのようなものなのか。
それは、至って平凡なものです。私は、その生と死を含めた「自然」の全体を、人間が見透すことはできないと考えているだけです。とはいえ、それは、もちろん敗北主義ではない。いや、むしろ「自然」は見透すことができないと考えているからこそ、私たちは過去に手掛かりを求めるのではなかったか。不十分な資料を不十分なままに信頼しなければならないからこそ、過去に生きられた人間の経験と、その「生き方」を振り返るのではなかったか。
(中略)
その頼るべき過去とは、これまでもウィルスと人間は「共存・共生」でやってきたという人類の歴史であり、また「新型コロナ」が強毒性を持っていないという近過去のデータなのです(もちろん、自然は見透せませんから、いつでも例外はつき纏いますが)。
なるほど、ウィルスとの「共存・共生」は、「決して『心地よいとはいえない』妥協の産物で、どんな適応も完全で最終的なものでありえない」(山本太郎『感染症と文明──共生への道』岩波新書)でしょう。が、それは、目の前の他者と折り合いをつけながら、何とか「共存・共生」でやってきたという人間社会の歴史と同じものでもあるはずです。
しかし、だからこそ、「封じ込め」の思い込みは危険なのです。たとえば、一つの環境に対する過剰適応が、結局のところ、環境変化に対する人間の適応能力それ自体(平衡感覚)を締め出してしまうように、過去において、「感染症のない社会を作ろうとする努力は、努力すればするほど、破滅的な悲劇の幕開けを準備」(山本太郎、前掲)してきたことを忘れてはなりません。(中略)
むろん、そのなかで「リスク」を最小化したいと願うのも人情でしょう。が、それも「ゼロリスク」まで行き過ぎると、過剰な政治主義を招きかねません。つまり、全ての偶然性を封じ込め、「自然」(人々の生と死)を見透そうとする全体主義的な管理・監視社会を許しかねないのだということです。
実際、今や、「新しい生活様式」とやらを指導しはじめた政府に対して、国民は、進んでその指導を欲しはじめているではありませんか。「不要不急」によってこそ生きている人間の「自然」を抑圧し、排除し、監視すること─その象徴が「暇」を意味するスコレー(スクール)、つまり、図書館も含めた文化・教育施設の全面閉鎖という不条理です─、そんな息もできない不自由を、今、人々は積極的に容認しはじめているのです。
しかし、それこそ本末転倒でしょう。(中略)私たちは、決して「ゼロリスク」のために生きているわけではない。それとは反対に、常にリスクと隣り合わせの人生を引き受けながら、それでもなお、私たちに訪れる「生活の喜び」(生き甲斐)のためにこそ生きているのです。さもなければ、私たちは、「生き延びる」ことだけを自己目的化した、生きる屍(ゾンビ)と化してしまうことになるでしょう。
しかし、だとすれば、その「政治」や「財出」や「医療」を適切に論じるためにも、それを論じるよりも手前の場所で、私たちは、私たち自身の生活の持続感や、全体感を感じておく必要があるとは言えないでしょうか。
言い換えれば、一つ一つの「意味」ではなく、むしろ、その「意味」が連関していくときの様子、流れ、匂いを感じ取る嗅覚、私たちの生活における「最小の動揺と最大の連続性」(ウィリアム・ジェイムズ『プラグマティズム』)が那辺にあるのかを感じ取り、それによって、意味を繋ぎ合わせていくときの繊細な感覚、一つの対象(図)に囚われるのではなく、その対象が置かれた文脈(地)を感じ取り、行動していく際の即応性、それこそが人間にとって最も重要な力ではないのかということです。
かつて、小林秀雄は「実用主義というものを徹底的に思索した、恐らく日本で最初の人」である宮本武蔵を語りながら、その「人生観」について次のように語っていました。
「武蔵は、見るという事について、観見二つの見様があるという事を言っている。細川忠利の為に書いた覚書のなかに、目付之事というのがあって、立会いの際、相手方に目を付ける場合、観の目強く、見の目弱く見るべし、と言っております。
見の目とは、彼に言わせれば常の目、普通の目の働き方である。敵の動きがあゝだとかこうだとか分析的に知的に合点する目であるが、もう一つ相手の存在を全体的に直覚する目がある。「目の玉を動かさず、うらやかに見る」目がある、そういう目は、「敵合近づくとも、いか程も遠く見る目」だと言うのです。
「意は目に付き、心は付かざるもの也」、常の目は見ようとするが、見ようとしない心にも目はあるのである。言わば心眼です。見ようとする意が目を曇らせる。だから見の目を弱く観の目を強くせよという。」「私の人生観」昭和二十四年
おそらく「新型コロナ」対策においても、この「うらやかに見る」目が必要なのです。ウィルスに近寄りすぎて、それを「見の目」だけで見てはならない。さもないと、私たちは、毎日のように報道される感染者数や死亡者数だけに─感染症の歴史や、その致死率などを無視して─目を釘付けにされ、「敵の動きがあゝだとかこうだとか分析的に知的に合点」しながら、一つの正解だけに心を奪われてしまうことになるのです。すると目は、ますます、「ウィルスの封じ込め」だけに縛り付けられるので、その他の政治、経済、社会、人間心理などの要素が目に入らなくなってしまう。
しかし、そうなれば、危機対応における全体的な連関性は見失われてしまいますから、対策は空転し、ウィルスの「封じ込め」に躍起になればなるほど、社会崩壊を加速させているという喜劇のような事態を招き寄せかねないのです─「木を見て森を見ず」とはこのことですが、まさに一律の「接触八割削減」(西浦教授)の提言は、この「見の目」しか持てない専門家の暴走を意味しています。
しかし、「自然」は見透せないのです。だとすれば、やはり「見の目」だけではなく、相手の存在を全体的に直覚する「観の目」も必要でしょう。もちろん、それでもなお人間は間違えを犯します。が、その間違いを一ミリでも許さないとする「見の目」の“こわばり”は、その間違いを加速しさえすれ、決して和らげることはありません。危機に際してこそ必要なのは、現実を見透そうとする目ではなく、その現実を受け入れようとする目なのです。…(〈Ⅲ カミュ『ペスト』──「不要不急」によって生きる人間〉に続く)
(『表現者クライテリオン』2020年7月号より)
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コメント
この世に生きていたら、
武蔵ならどうするか、
キリストなら、
釈尊なら、
人間は、想定していないリスクに直面したとき、極端に回避行動を取るようになることがあります。一種のパニックです。
むかし働いていた職場で、セキュリティリスクについて甘い職場がありました。しかし、そのためにセキュリティ上の問題が発生し、マネージャたちが責任問われる事態になりました。
するとマネージャたちは、その後、極端にセキュリティリスクを回避するようになりました。技術的に対処するのではなく、現場のエンジニアの行動をとにかく抑制し始めました。エンジニアたちは「そのやり方は意味がない」「業務効率が落ちる」と進言しても、聞いてはもらえませんでした。
私は、極端に自粛を強制したがる人達は「自分が病気になる」「病気で死ぬ」というリスクを想像したことがない人なのでは、と考えています。
しかし、病死とは本来身近なものです。親族の病死にはほとんどの人が遭遇しているはずです。有名人の病死もニュースで目にしない年はありません。「自分の死」について真剣に考えたことのない人は、「他の人の死」についても関心がなかったのかもしれません。
死を考えるとは、生を考えることと表裏一体です。人が生きることについて真剣に考えて生きている人は、今回のコロナくらいでパニックにはならない気がします。
極端に自粛を強制したがる人達は、祖先の墓に参ったことが何度あるのでしょうか。自粛している間、仏壇には手を合わせるのでしょうか。普段から亡くなった人たちに思いを馳せることはあるのでしょうか。最近、そんなことをよく考えます。
一応、新型コロナウイルス騒動の背景なんですが、これ実は国際社会を無力化するムーンショット計画の一環で人口の削減と、ワクチンによる遺伝子組み換えを目的にしているための実験だから方々複数でワクチンの試行錯誤が展開されているのだと考えています。
また他方ではウイグル、香港、ミャンマー、トルコなども【近代歴史の背景】からすれば、国連やWHOなどの正体がお解り頂けると思います。
ならば当然、スエズ運河の出来事も実際は何やら怪しく感じられるところですね。