今回は、『表現者クライテリオン』バックナンバーから、平坂純一先生の新連載「保守のためのポストモダン講座」(第一回目)の後編を公開いたします。→前編から読みたい方はこちらクリック
ご興味ありましたら、ぜひ本誌を手に取ってみてください。
以下が内容です。
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時に、本誌読者に思い出して欲しい記事がある。本誌二〇一九年九月号からの二回の座談会「思想の転換点」を再読頂きたい。藤井聡編集長が「生の哲学」(記号学とも無縁ではない)を基軸とした国民主義を提唱するのに対して、評論家・宮崎哲弥氏が博覧強記で且つ、中観派的な楔を打つことで、編集長の思想における「敵」の輪郭が明らかになるのが興味深かった。
文中、「ポストモダンの現実化」という非常にアクチュアルな問題が提起されている。「ニューアカ(ポストモダン)ブーム」によって日本で八〇年代以降モデル化され、「相対主義の絶対化」がなされたとある。
宮崎氏にして「バブルの文物」は痛快である。氏はフーコーを引きつつ、現代を「事実上のポストモダン化」と断じる。即ち、近代国家が個人を抑圧することに反感があり、革命をマルクス的な闘争以外で成立させるために、「国家の監視下にある市場よりも、グローバリズムによって市場の監視下にある国家を」とフーコーおよびポストモダン側では拳拳服膺と提唱されたという。
今の時世の「敵の元ネタ」が見えてきた(こんな屁理屈の濫造よりも、黄色いヴェスト着て暴れてくれる左翼の方が気持ちよいのは言うまでもない)。
金科玉条にしても宜しくないが、「ポストモダン問題」について、西部邁の回答が確認できるのが『新・学問論』(一九八九年)である。構造主義の思想、特にレヴィ=ストロースには一定の理を認めつつ、構造主義全体に漂う「冷たい客観主義」を忌避している。あまりに「生きること」から乖離していて、古書の山の中で息絶える奇人の学問と捉えた。
また、ポスト構造主義が提唱した「表現する者/された物の分離」の議論がある。「話し言葉(パロール)」に属する主体性を嫌った(近代的自我を相対化)彼らは、「書き言葉(エクリチュール)」に立場を与えた。
書き言葉にどう科学における見方や、人生の哲学を打ちつけたとて、「主体の死」(デリダ)として人間の生を無視する議論は師を逆撫でするものだった。
浅田『逃走論 スキゾ・キッズの冒険』(一九八四年)への回答と思しき記述がある。浅田が云わんとする「住む者=主体としての自己の歴史的一貫性」をパラノ的な生き方として忌避する一方で「逃げる者=失踪する非主体性」をスキゾ的として称揚する。
「住む者」には所属する企業での出世や一族の繁栄が全てであり、その日本会議的な明治についた大ウソの「伝統」のうるささから「逃走」することで全てを相対化するのが肝である訳だ。野坂昭如の悪ノリ芸と然して変わらないではないか。師はあくまで相対化の重要性は認める。
しかし、「逃走」が虛無の賜物であることを認めながら、中庸の在処を探すことを諦めるべからずと云うのは先刻承知の師の構えであり、「一貫性原理主義」とも異なる。では、その中庸の基準はどこかと云えば、歴史が運んでくる。「中央にパース。両眼にレヴィ=ストロースと見据える」と云う。そう「インテグレート」である。
折衷案のような態度を嫌悪し、虛無を虛無だと見定めることで引き離す、総合的な思想必要を説いた。真理や正義の語が鼻白むのなら、「公理・公準」と呼んでもいい。歴史的パースペクティブに照らして、おかしな「逃走」には振るハンカチもないと突き放すのが大人というものであろう。
冒頭のユニコーンは「単身赴任の男の悲哀」を唄う、優しい歌である。秩序がシャンとしていたからこそ出来るオフザケの最後の時代が八〇年代だ。今やそのオフザケは権力に適応している。
ネトウヨこそ小乗的なポストモダン思想の勝者なのではないのか。当の日本のポスモが地団駄踏む現状は、西部案に対する無回答の末路であり、これまでの相互応答の少なさに起因する。
師とポストモダンで思い出すのが、最後にお会いした三年前の晩夏である。しきりに自身の死の論理を滔々と語り、酒を呷られた。
そして、エイズで病死したフーコーを「だらしない死」と詰ったこと、私は今でも強烈に想起する。むしろ転落死したドゥルーズに共感がおありだった。
未遂に終わったフーコーの東大赴任に思うところあったのか、否、二十世紀的な死の観念が師にはあったように思う。それは生の哲学をもってしても払拭し得ない宿痾のような観念であり、これを飼いならすための論理に執心されていた。
また、「三島と芥川の死の論理の薄弱さ」が気に食わないとも続けた。評論と小説ではジャンルが違うのではないか、そう思う者もあろうが、バルト的に云えば「あらゆる書かれたもの」は文学性を帯びる。あるいは、言葉使いは社会と直結する、少なくともそう信じられた時代の人であり、三〇年代人としての答えだった。
師はポスモ的にテクストのディティールを読み込んだ批評は好まなかった。ここでは哲学史の位置付けあるいは彼らの提起する現代の問題に対する私なりの回答を例示できればと思う。前時代の蹉跌であるポスモの基礎を知ることは、理論武装の一環それ以上に、吾々の生の哲学/死の論理が導かれることもあるのではないか。(『表現者クライテリオン』1月号より)
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コメント
私からすれば、三浦大先生にしろ宮崎哲弥にしろ宮根誠司にしろリベラルの津田や東、さらには虎八関係者やメディア関係者も結局のところは、ただ単に己の軽薄さに気づかずに目先の物欲に走っているから非難しているだけで、特に竹中平蔵や上山信一や大阪の軽薄な間抜け弁護士連中なんかは無益な学歴をひけらかすだけで、そこには論ずる価値すらない訳だから論外なんです。
それで初歩的な観点からでも西部邁論〔西欧論〕では、主に語源から説明されていたのをよく記憶していて、私なんかは歴史的な大局観に乏しいから故の事だと捉えています。
しかし日本を論ずる場合には語源を語る必要はなく、その時その時の歴史の状況や当時の人間模様で文化的な大局観的な判断がつくから説明するまでもないわけです。
ちなみに日本論を語るならば、最低は伊藤仁斎や荻生徂徠の文献を勉強するべきで、まさに日本の寝ぼけた病理は、ここに存在しているのです。