今回は『表現者クライテリオン』2021年9月号の掲載の記事を特別に公開いたします。
公開するのは、「保守からの近代日本批判―大東亜戦争への道」特集掲載、
小幡敏先生の論考・第二編です。
〇第一編
〇第二編
『表現者クライテリオン』では、毎号の特集のほかに、様々な連載も掲載しています。
興味がありましたら、ぜひ『表現者クライテリオン』2021年9月号を手に取ってみてください。
以下内容です。
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我々はいったい如何なる対応をとるべきであるか。残された紙幅は少ないですが、その糸口くらいは示さねば格好がつきますまい。
これについて、柄谷行人が「自主的憲法について」という論考の中で次のように言っています。
彼は、内村鑑三が基督教への入信を札幌農学校の上級生に“強制”され、それに最後まで抵抗した末に入信したが故に、それは単なる自発性とは違う確固たるものになったのだと言います。
それは精神分析でいうところの「去勢」であり、それこそが「自己」をつくるのであると。
思えば、世界中の国や地域で絶対者を“強制”されたことのないところの方が稀です。
そういう強制の中で、彼らは揺るぎのない原理を育んでいったのでしょう。それはむしろ、生き方といってよいほどに根を張る場合すらあるはずです
思えば西欧とて、その信仰も、民主主義も、日本が嫉妬するほどに“自発的”に取り入れられた国はほとんど無いといってよい。
柄谷氏は言います、憲法九条こそが、まさしくこの意味での「外的強制」であると。そして、
、と。更に進んで氏は、憲法九条を自主的に改正して、「日本の『原理』として再画定」する必要を説く。
更に更に、
、とまで書いています。
私はそうまでは思わない。
こればかりは現実が理屈に置いてけぼりにされているというべきでしょう。そんな無体な話はない。
こう言うと馬鹿と笑われるでしょうが、あの憲法が、それこそ基督教その他の絶対者と同列に位置付けられるわけがないというのが常識というものです。
聖書はそれ自体、確かに立派な文学作品でもありますが、我らが日本国憲法は国語としても破綻した奇形児に過ぎません。
氏がそんなことはこの際関係ないのだといくら言ってみたところで、あれはそんな器ではないのだから仕方がありません。
軽自動車に過ぎない憲法にフェラーリのエンジンを載せて原理に仕立ててみても、車体の方が馬力に耐えられないのは当たり前です。
とはいえ、わざわざ氏の、それもかなり古い論考を引いたのは、やはりそこに一片の真理が宿ると思うからです。
というのも、日本の保守派にはあくまでも括弧付の「自主性」にこだわり、「憲法改正ではなく自主憲法制定を」といった主張を繰り返す者が多いからです。
私も心情的には彼らに同意します。こんな穢く醜い憲法を改正して日本の血肉としてしまうこと、それを嫌がる気持ちはよく分かる。
ですが、そういう心理的な潔癖にこだわって敗戦から三四半世紀を経て、我々に遺ったのはいったい何であるか。
自主憲法制定などという大層なことが出来るほどの文化も国民も、もはや遺っていないではありませんか。
私は靖国に参る度に、祖国のために戦った先人たちに日本の現状を詫びます。
私はこんな国で、曖昧な敗北と曖昧な滅亡、日本人が日本人でなくなるその道程に身を置いてのうのうと生き延びている、そのことを恥じてただ詫びます。
我々がとるべきはいったいどのような態度でしょうか。私は今では、どちらかと言えば柄谷氏に肩入れします。
私は憲法および九条を受け入れた上で改正すべきだと思う。それは、氏の言うほどに大袈裟な話ではありません。
反省とは自らの現実をまずは受け入れるところからしか始まらないと思うからです。
性的に奔放だった女が、それを反省したくないが為に母にならないのだとしたら、それは果たして、彼女自身の人生に向き合ったことになるでしょうか。私はその過去を無闇に肯定しないままに、やはり母になりたいと願います。
それはつまり、この憲法をひとまず受け入れた上で、日本に相応しいものを育てるべきだということになります。
無自覚な放埓と自覚された放埓であれば、私は迷わず後者をとります。
そうして我々に相応しいものとして、強制でない自主憲法というものを望む気概が後代のこの国に宿るのであれば、私は柄谷氏とは異なり、快哉を叫ぶでしょう。
そうでなければ、日本の歴史はそれまでだったということです。
いずれにしても、日本の将来を諦めない者がすべきは、愛国である前に反日であるべきです。
我々にはそれしか道はない。現実主義に魂を売るのかと言われればその通りです。
ですが、これだけは言っておきます、理想主義も現実主義も、それは理想の実現に向けた態度の問題なのであって、ともに理想を胸に抱くことには変わりないのです。
世に言う現実主義者が、理想などはなから捨て去っているためにその点に誤解が生じているらしい。
私は理想の実現のために、現実への体重の掛け方が大きくなった、それを現実主義と呼ぶならそれでも構わない、ただそれだけの話です。
そもそも自分を何らかの主義者と見做したことなどない。
もっとも、だからこそ私は同じ意味で理想主義に帰ることもまた、あるでしょう。白状すれば、私にとっては理想主義の方がよほど生きやすいのですから。
(『表現者クライテリオン』2021年9月号より)
他の連載は『表現者クライテリオン』2021年9月号にて
『表現者クライテリオン』2021年9月号
「日本人の死生観を問う」
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