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【仁平千香子】お陰様を知るものは強い―引揚者たちの旅と平和憲法的戦後史観の弊害

仁平千香子

仁平千香子

 日本の戦争と言えば、追悼式や慰霊祭が各地で開催される8月に関心が集中するが、8月に全てが終結したわけではない。本土ではGHQの占領が始まり、東京裁判が行われ、ある者は戦地で捕虜になり、裁判にかけられ、ある者はアジア諸国の独立のために現地に留まり、またある者はソ連との国境付近に滞在していたためにシベリアへ連行された。日本人(当時日本人とされた台湾や朝鮮半島の人々の存在も忘れてはならない)にとって戦争は玉音放送をもって終わったのでは決してなかった

 玉音放送後も続いた日本人たちの「生残るための戦い」の一つには引揚げも含まれる。日本政府が降伏文書に調印した9月2日には引揚第一船である興安丸が仙崎(山口県)に朝鮮半島より入港した。その後、浦頭港(佐世保)、博多港、舞鶴港、浦賀港に続々とアジア各地から引揚船が入港し、昭和21年までに外地に住んでいた軍人·民間人を含む500万人が帰国したが、その数は当時の内地人口の1割弱に当たるほどであった。

 長崎県佐世保市にある釜霊園には供養塔が厳かに立っている。ここには引揚船で日本人とともに運ばれた六千柱の遺骨が供養され眠っている。フィリピンの日本人収容所から運ばれた遺骨と遺体に加え、引揚げの途中で亡くなった約二千柱がこの地で荼毘に付され埋葬された。佐世保に入港した引揚者たちの中だけでも二千人もの死者が含まれていたと考えると、引揚げの途中に命を落とした数の全体は相当なものであることが予測できる。さらには引揚げの混乱の最中、やむを得ず放置された遺体や遺骨があったことも考慮すればその数はさらに増える。栄養失調、伝染病、肺炎、敵からの暴力、身内からの虐待、自殺。これらが頻発した引揚げの旅とは死と隣り合わせのものだった

 引揚げ準備は終戦とともに段取り良く進められたわけではなかった。運良く終戦直後に引揚船に乗船できた者もいれば、一年以上も安全が確保されない地でその機会を待たねばならない者たちもいた。終戦の知らせが届くやいなや、日本人への態度を一変する現地の人々は多かった。たとえアジアの解放という大義名分があったとしても、戦後の外地で日本人がどのように扱われたのかを知れば、日本人たちのそれまでの行いが必ずしも清く正しいものでなかったことは明らかであった

 満州や朝鮮半島から内地を目指す日本人の行列には、石が投げられ、略奪が横行した。引揚船が発着する港まで彼らは列車があれば、または利用を許可されれば列車で、なければ徒歩で山を越え、深い川も泳いで渡った。男たちがソ連に連行されたことで、引揚げの集団には頼りになる男手が限られていた。幼い子どもたちを抱えた母親は一人を背中に、残りを両手に握り、またその子どもたちも幼い妹弟を背負い、手を握り、道なき道を歩き続けた。彼らを危険にさらすのは自然の厳しさだけではなかった。日本人の旅団を狙った盗賊の集団によって女性たちは陵辱され、また夜には女性を探しにやってくるソ連兵たちに怯えた

 『天才バカボン』で有名な赤塚不二夫も当時10歳で満州からの引揚げを経験しているが、母親が夜侵入してきたソ連兵に乱暴され連れていかれそうになるところを、勇気ある行動で阻止した経緯を自伝で語っている。作家の五木寛之は十二歳のとき朝鮮で終戦を迎えるが、父親の入浴中に侵入してきたソ連兵が病床の母親の乳房を靴で踏みつけ吐血させ、その後まもなく亡くなる母親の遺体をリアカーに乗せて共同墓地に運んだという経験をエッセーで語っている。作詞家のなかにし礼は、ハルピンで父親の遺体が山積みのトラックに積み込まれ運び去られるのを見ている。戦後の文化界を支える著名人たちが実は外地からの引揚げを経験しているというのは珍しい話ではなく、引揚者がどれほど人口の多くを占めていたかが想像できる。

 男たちの多くがシベリアに連行された満州や朝鮮半島においては、引揚げの物語とは母親たちの物語が中心であった。乳飲み子を抱えた母親の多くは、栄養失調のために乳が出ず、粉ミルクを抱えて道中を歩いたが、途中ソ連兵や盗賊に奪われる。やむなく粥や味噌汁の上澄みを子にあげれば消化不良で下痢をする。栄養を吸収できない我が子はどんどん衰弱していく。紙おむつのない時代、布おむつは定期的に洗濯しなければならないが、歩き続けなければならない彼らに布を干す時間はない。満州や朝鮮の寒さは濡れた布を凍らせ、子どもには汚れたおむつを履き続けさせるか、生乾きのおむつを履かせるしかない。汚れたおむつを履かせ続ければ、同じ旅団の日本人たちから文句が飛ぶ。歩けない子どもは中国人や朝鮮人に引き渡すか、置いていくように説得される。空腹のあまり、かぼちゃ一つと我が子を交換した母親が正気に戻って発狂する。大人たちの圧力に覚悟した子どもが、「お母さん、痛くないように殺してね」と自ら進み出る。子どもたちと共に生きて帰国することを諦めなかった母親たちは、長い旅路の途中に靴がやぶれ、雪道でも裸足で歩かされる子どもたちが痛みのあまり抵抗すれば、頬を叩き続けて歩かせる。

 命からがら日本にたどり着いた人々の多くは、死の恐怖と隣り合わせの引揚げ隊において狂気が支配していたことを告白する。ようやく帰国が叶っても、過去の行いを悔いて命を絶ったり、生涯口を閉ざす者も少なくなかったと言われる。

 引揚げた若い女性たちの中には、途中受けた陵辱のために妊娠していた者たちがいたことも忘れてはならない。混血児を孕むことは恥の極みだった当時、上陸する日本の港を前に船の上から海に飛び込み自殺をする女性もいたほどであった。望まぬ妊娠を抱えた女性たちを救うために、厚生省引揚援護局は福岡県二日市に中絶施設を開設し、400人から500人の女性が手術を受けたと言われている。中絶手術が違法とされる当時ではあったが、女性たちの帰国後の生活を支えるやむを得ない手段として極秘に行われた。手術は麻酔もなく行われ、妊娠8ヶ月の女性すら手術を受けたという。

 これら引揚者の悲惨な物語を聞いて、多くの日本人は「やっぱり戦争はよくないから、二度としてはいけない」とため息をつくだろう。これが戦後の日本に定着した戦争史観であり、平和憲法的戦後史観とも言えるものである。平和憲法的戦後史観とは、過去の戦争を否定と反省という限られた視点でしか眺めない見方を指す。他国と違い、日本では過去の戦争で戦ってくれた先人に対する感謝の念が徹底的に欠けていることを以前のメルマガで指摘したが、否定と反省という偏った歴史観が戦後日本人の思考停止の傾向と、歪んだ死生観形成に影響を与えていることは明らかである

 戦争はあまりに多くの人々を巻き込み、その経験は場所や身分、性別、年齢、家族構成によって様々である。それらひとつひとつの物語を拾いあげる作業に終わりはないが、これらの作業をあまりにおろそかにしてきたのが戦後日本の特徴ではないだろうか。戦後の日本は、過去を軍部という悪人と民間人という犠牲者の単純な分類の枠のなかで処理し、過去を清算したかのような態度で経済成長に集中した。悪人が戦犯として処刑されることで国は邪霊を払い、犠牲者の魂鎮めを完了したかのようだった。

 このように日本は戦争の物語が抱える重層性を無視して、単純な物語構造に嵌め込んでしまった。過去を否定することでしか戦争を顧みなければ、「殺してはならない、死んではならない」という見方が正論とされ、これが死生観として定着する。「どう生きるか」より「いかに死を避けるか」に価値が置かれ、その風潮は昨今の疫病対策や医療現場をみても顕著である。そして「どう生きるか」という問いの人間形成への重要性を忘れた日本が戦後どうなっていったかと言えば、無気力な国民で溢れ、使命感に欠ける代表者たちが率いる国家は国際的信用を落とすばかりである。これをGHQの策略だとアメリカを非難する視点にも一理あるが、80年近くも軌道修正を試みなかった日本の異常さも非難に値する

 引揚げの大変な旅を乗り越えて日本にたどり着いた人々がみな清廉潔白な勇者というわけではない。旅団の中の弱者を切り捨てることでなんとか命を繋いだものたちもいたからだ。そして外地の現地人すべてが日本人に石を投げたわけでもない。凍死寸前の子どもたちを見かねて家に招き入れ火を焚いて食べ物を分けてくれる人々がいたことも事実である。大事なことは、現代人には到底耐えられないであろうほどの過酷な試練を引き受け、生き残って日本に帰ることを諦めなかった人たちがいたからこそ、今の私たちはここにいるということである。彼らのお陰様によって私たち子孫に命はつながれた。引揚者が当時の人口の1割を占めたのであれば、戦後の日本に産み落とされた私たちの多くがこの引揚者の血を受け継ぐ者である。

 アイデンティティとは「私」の固有の特徴を並び立てて「私は何者か」を定義することではない。「私」が何によって生かされ、何に向かって生きる存在なのかを確信したときにこそ「私は何者か」の答えは見えてくる。つまりアイデンティティとは自分の手が誰の手と握り合っているのかを想像することで見えてくるつながりのことである。お陰様に感謝することでアイデンティティは形成されるのだ。

 「私が何者か」を知る人間は強い。「どう生きるべきか」を知っているのだから、不安や恐怖を煽る外部の声に容易に揺さぶられることはなく、冷静に自らの判断力を信じて行動ができる。特に情報が溢れメディアによって感情を煽られやすい現代、「私が何者か」への強い意識は護身術になる。

 逆にお陰様を知らない人間は孤独である。個人主義と言えば聞こえはいいが、自分は自力で立派に立っていると勘違いさせる思想なのであれば、それは捨てたほうがいい。指針形成に必要なつながりへの認識が足りないのだから、軸がぶれやすく精神的に脆くなる。

 とすれば、お陰様とは結局誰かのためにするものではなく、自分のためにするもの、つまり己れの生を支えるためにするものなのかもしれない。生きにくい時代に生きやすさを授ける処方箋なのかもしれない。そうと知れば、歴史を学ぶ目的もより明確になるだろう。己れの所在を明らかにし、生きる指針を自ら築いていく糧として歴史を捉えたとき、戦後の歴史観の不自然さが浮かび上がり、社会に充満する無気力への対策も講じられるのではないだろうか。

 


《編集部より》

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